第2部 地方税財政制度改革をめぐる論点
第1章 財政再建の論理と地方財政
1 三位一体の改革の二つの文脈 〜分権と財政再建〜
2003年6月27日「経済財政運営と構造改革に関する基本方針2003」が閣議決定され、国庫補助負担金の改革、地方交付税の改革、税源移譲を含む税源配分の見直しからなる、いわゆる「三位一体の改革」の具体案が提示された。2000年に施行された地方分権一括法では、機関委任事務の廃止、必置規制の廃止・緩和などが実現されたが、このような事務の再配分に続いて、地方への税源移譲を具体化することに今回の改革の目的があったことは言うまでもない。
結論を先取りすると、平成18年度までに、概ね4兆円程度の国庫補助負担金の廃止、縮減等の改革を行うと同時に、廃止する国庫補助負担金の対象事業の中で、引き続き地方が主体となって実施する必要のあるものについては、補助金の性格等を勘案しつつ8割程度を目安として税源移譲し、義務的な事業については徹底的な効率化を図った上で、その所要の全額を税源移譲することとされた。このように税源移譲の目安が明記されたことは、地方分権一括法をめぐる論議と比較して大きな進歩であったということができる。しかしながら、一方で、補助金の改革や地方交付税の機能縮小の議論の中で、財務省の財政再建路線が色濃くにじむ議論のあったことは否めない。
そこで、現状および今後の展開を正しく批判するために、わが国の地方自治および財政健全主義をめぐる歴史的経緯を参考に改革論議を眺望してみたいと思う。事前協議制への移行を控えた起債許可制度による起債統制の問題も含め、「集権的分散システム」の形成・定着過程を振り返りながら財政の健全化と地方財政の関係を読み解く手がかりをえることが今回の限られた課題である。
(1)古典的地方自治の時代と財源統制
一般に戦前のわが国の地方自治は後進的であったというイメージが強いかもしれない。確かに、知事は官選(国から派遣されたという意味)であり、中央政府の地方に対する地位は非常に権威あるものであったことは事実である。しかし、官選知事という大枠のなかで自治体には一定の課税および起債の自主権が認められていた点は重要である。このような時代を地方財政論では「古典的地方自治」の時代という(佐藤進〔1968〕)。
まず、課税の自主権に関しては、中央政府からの緩やかな財源保障のもと、個々の徴税努力が重視された財政運営が行われていた。税収の基本は付加税主義によってまかなわれており、その税率には厳重な枠がはめられていたが、枠内での税率決定には地方団体により大きな自主権が認められていた。さらに、地租や営業税といった直接税収入においては付加税収入が国税である本税よりも大きかった。これらがのちに触れる両税委譲論の一つの背景となっていた点に注目する必要がある。
一方、地方債に関しては戦後と同様、起債は許可制度の下にあったが、支払能力を基準として大まかに起債が認められており、さらには、短期債や一時借入には許可を必要としないなど許可方針も寛大に設定されていた。起債の計画化や資金区分の明確化などの観点から地方債計画が整備されるのは戦時期から占領期にかけての時期である(井手〔2004近刊〕)。これに対して戦前は自治体の自由な起債が行われており、これが戦前の地方債依存度の高さとなってあらわれていた。
このような「古典的地方自治」の時代が政治的に最も高まりを見せたのが1918年に成立した市町村義務教育費の国庫負担制度と1920年代における両税委譲論争である。
義務教育費国庫負担金とは、負担金1,000万円の90%についてその半額を教員数および就学児童数で比例按分し、残りの10%を財政力が薄弱な団体に傾斜的に配分する制度である。当初は、義務教に関する特定補助金としての性格と財政調整機能とを兼ね備えた制度として発足したが、その後、国庫負担金の増額要求には、市町村、とりわけ、町村財政の困窮が最も重要な理由としてあげられることとなる。これを受けて、負担金は、1923年度4,000万円、26年度7,000万円、27年度7,500万円、30年度8,500万円へと漸次増大され、そのなかでも財政調整機能部分のウェイトを高めていくこととなる(武田〔2003: 32ff.〕)。こうして、義務教負担金はもともとの教育補給金としての性格から乖離していき、次第に財政補給金としての性格を強めていくこととなるのである。
次に、両税委譲論争というのは、地方分権策の一環として地租および営業税の地方委譲を試みた政友会とこれに対抗した憲政会との間で繰り広げられた一連の議論をさしている。都市に対しては都市計画に必要な財源を、農村に対しては地方経費に必要な財源をそれぞれ委譲することを当面の課題としていたが、これに都市的利害を代表する憲政会と農村利害を代表する政友会との政治的対立、大正デモクラシーにおける分権化要求などが重なり合いながら、華やかに税源委譲が論じられることとなったのである。しかしながら、義務教育費の国庫負担をめぐる論争が制度として結実し、その重要性が高められていった一方で、両税委譲論争は、1)税源委譲後の地域間財政力格差の増大に対する懸念、2)義務教育費国庫負担金制度を通じた財政調整への要望、3)地主・都市行政担当者、政友会・憲政会といった政治的対立の深刻化といった事情により、1924年には議論されることすらなくなってしまう。これは、最終的には税源委譲よりも限定的な財源のトランスファーによって赤字補填を行うことが自治体に志向されたことを示すものであるが、換言すれば、財源保障税源委譲を行うのであれば中央政府による財政調整の仕組みを一体とすべきであることをこの歴史的経緯は示唆している。
ともあれ、いまだ、本格的な財政危機に瀕していない自治体は財政調整機能を有した特定補助金に負担の救済を求めたわけである。本格的な財政調整制度の確立は地方財政の危機がより全面化、先鋭化する昭和恐慌期まで待たれねばならなかった。この間の経緯を明らかにするために、引き続き恐慌期の動向を見ておこう。
1929年金本位制への復帰、井上準之助蔵相による緊縮財政は、世界恐慌の訪れとあいまって、わが国の経済に致命的なダメージを与えることとなる。いわゆる昭和恐慌であるが、恐慌期には自治体の歳入不足と租税負担の急増が深刻な問題となり(図表2-1-1参照。ただし、資料上の制約により33年度のもの)、財源保障機能を加味した財政調整制度の導入が積極的に論じられることとなる。具体的に言えば31年以降の内務省(現、総務省)と大蔵省(現、財務省)を中心とした財政調整制度の試案作成がこれである。両税委譲論議が後退したのち、自治体の税収不足は義務教育費国庫負担金制度によって調整されていた。しかしながら、教員俸給費の98%まで国庫負担を受けている町村が存在するという状況にあって、いよいよ特定補助金に財政調整機能を持たせることが困難になってきた(武田〔2003: 33〕)。そこで検討されたのが31年大蔵省「国庫交付金制度案」、32年内務省「地方財政調整交付金制度要綱案」である。
図表2-1-1 1933年度分道府県税課率
区分 |
税率 |
都道府県 |
所得税附加税
制限税率: 0.024%
最高:宮城 0.041%
最低:東京、大阪 0.024% |
0.04%以上 |
山梨、徳島、高知、宮城、岩手、秋田、青森、鹿児島 |
0.03%以上 |
その他34道府県 |
0.03%未満 |
東京、大阪、滋賀、佐賀、沖縄 |
営業収益税附加税
制限税率 0.0465%
最高:宮城 0.0794%
最低:東京、大阪 0.0465% |
0.078%以上 |
山梨、徳島、高知、宮城、岩手、秋田、青森、鹿児島 |
0.058%以上 |
その他34道府県 |
0.058%未満 |
東京、大阪、滋賀、佐賀、沖縄 |
地租附加税
制限税率 0.083%
最高:沖縄 0.1756%
最低:東京 0.039% |
0.15%以上 |
埼玉、山梨、徳島、高知、岩手、青森、山形、新潟、愛知郡部、鳥取、島根 鹿児島、沖縄 |
0.1%以上 |
その他29道府県 |
0.1%未満 |
東京、神奈川、大阪、京都、北海道、愛知市部 |
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資料:「税制改正調査書類綴 其の二」より作成
大蔵省案では、道府県家屋税を国税に移管し原則人口基準でしかも道府県に対象を限定して財政調整を行う点にポイントがあった。すなわち、既存の租税構造を道府県税の国税移管によって変更し、増大した国庫収入を原資としてシンプルな財政調整を行うことに狙いがあったのである。これに対して、内務省案はドラスティックな制度設計が行われている。所得税および相続税の増徴、奢侈税の新設によって得た財源を道府県40%市町村60%の割合で配分するのであるが、その際、人口、住民資力、自治体課税力、特別事情等を勘案しながら農村に傾斜的に財源を配分することを企図したのである。
以上の両案を一瞥すれば明らかであるが、大蔵省は既存の国税収入を損なうことなく水平的な財政調整を試みたことからも分かるように地方交付税の導入に消極的であったといえる。また、実際の省内論議でも「府県に対する財政調整交付金は此際急を要する問題と考へ難し」(主計局「地方財政調整交付金制度の概要及之に対する意見」)とした主張が大勢を占めていた。その結果、最終的には交付税論議は頓挫することとなるのであるが、そうした背景に寄与した要因として高橋是清の財政観および政策選択を見逃すことはできない。この間の経緯はその後の地方財政の位置づけを考えるうえでクリティカルな論点を準備するものであった。そこで、節を変えて、高橋財政期の政策運営を概観しておこう。
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