1989年4月号 正論
これが学校で教える「天皇」だ
明星大学助教授 高橋史朗
日教組は負けた
一月七日の昭和天皇の崩御にあたって、文部省は全国の都道府県教育委員会などに対し、弔旗(または半旗)を掲揚し、教職員・児童生徒が一堂に会して黙祷を行い、児童生徒に対し講話を行うことなどを事務次官名で通知した。
これに対して、北海道、青森、宮城、福島、秋田、東京、埼玉、千葉、茨城、静岡、群馬、長野、愛知、福井、富山、京都、大阪、奈良、和歌山、岡山、山口、香川、高知、愛媛、兵庫、岐阜、滋賀、長崎、佐賀、沖縄などの都道府県教組・高教組は同日、教育委員会へ抗議するとともに、弔旗の掲揚、黙祷の強制などを行わないように一斉に申し入れた。
このうち東京都教組は七日、「天皇の死去にあたって」と題する声明文を発表(号外新聞を発行)し、原爆投下直後の広島の写真を掲載し、「天皇は自らの地位を保持するために終戦を遅らせ、犠牲を多くしました」という説明文を付した。
更に、同声明文では、「天皇は侵略戦争の最大かつ最高の責任者」であり、「原子爆弾の被害を受けた広島市民にたいし、戦後の記者会見で『戦争だからやむを得ない』と平然と述べている」昭和天皇には、「みずからの戦争責任にたいする、わずかの反省もみられない」と厳しく批判した上で、「国の主権が国民にあることを明確に示す一方で、天皇を象徴と位置づけたことは、現行憲法上の一定の矛盾といわなければならない」と述べている。
都教組は八日、緊急の分会代表者会議を招集し、「弔旗掲揚・黙祷・校長講話」をさせないように校長に交渉するよう指令した。その結果、約八割の学校の校長が交渉を受け、九日の始業式当日の職員会議で話し合った結果、弔旗を途中でおろしたり、黙祷を中止する地区、学校が続出した。
しかし、一月十二日付の朝日新聞によれば、東京都全体としては、弔旗を掲揚した学校が八四%、校長が講話した学校が八七%、黙祷を実施した学校が一九%となっている。とりわけ黙祷については対応が割れ、「組合が強いところとそうでないところの差が出た」(山口市)、「家の人から黙祷をしなくてもいいよ、と言われた人はしなくてもいい」(宮城県岩沼市)、「校長先生は黙祷したい気持ちです。したくない人はいいけれど、したい人はしましょう」(甲府市)など様様であった。
また、黙祷に反対して教師が始業式への出席を拒否したり(新潟市)、半旗をおろすよう校長に要求したが、拒否されたため、児童四人に始業式をボイコットさせ、父母(小学校教諭を含む)が児童を連れて帰宅し同盟休校させた(大阪府茨木市)などの例もあった。(詳しくは、拙著『天皇と戦後教育』ヒューマン・ドキュメント社、平成元年二月刊、参照)
一方、本誌二月号の拙稿「Xデーにかける日教組の“陰謀”」で厳しく批判した大阪府豊中市や岐阜県の教員組合は、当初の闘争方針を実行できなかった。その辺の事情を岐阜県のある教師は筆者への手紙の中で次のように述べている。
ある教師からの手紙
一月七日の崩御。このとき県教育委員会はすぐに対応しました。弔意表明すべしの通達をついに出したのでした。校長らはこの七日八日の二日間で弔意表明のしかたや講話を吟味することができました。この二日間がとても重要でした。長すぎては校長講話がぼけてしまいます。短かすぎては準備ができない。しかし崩御後二日間、放送は大行天皇特集を流して、国民の多数はそれによって天皇観を変えた。従って、子供たちや一般教員は校長の陛下の話を聞いても違和感がない。もはや日教組だけが反対しているだけだという状況になってきました。・・・
マスコミに助けられて校長は講話がやりやすかったでしょう。そしてとうとう一月九日午前八時三十分過ぎに校長が堂々と講話し、黙祷の指示をすることができた。校長講話にはまだまだ物足りないものもあったが、岐阜県下ではほとんどの学校で弔意を表すことができた。これを機に学校で天皇について語ることはもはやタブーでなくなった。そして反天皇論こそタブーになりつつある。この一月九日こそ歴史上の転換点であったような気がします。
労組・民生団体の学習会でも“敗北主義”ともいうべき気分が広がっていることが問題になっているという。「自分が三八度熱を出したときの具合を考えたら、天皇のことを客観的に批判できなくなった」という大学自治会の活動家や、家で息子・娘に反発された労組の幹部などの例も報告されている。昨秋の日教組の教育研究全国集会で、ある中学教師がいみじくも報告したように、ともかく「大変な力が押し寄せている」のである。
ところで、二月十日に公表された新学習指導要領案では、天皇に対する「敬愛の念」や天皇の国事行為についての理解を深めることが新たに追加された。そこで本稿では、以下、これまでほとんど調査研究されていない教師用指導書の天皇記述を中心に、天皇はいかに教えられているかを探ることにする。
こう変わった「天皇」
まず、昭和四十九年〜五十一年の小学校社会科教科書(六年)には、次のように天皇に対する敬愛や、日本の長い歴史伝統に基づいて天皇が国や国民の象徴となられたこと(象徴の意味と歴史的背景)が明確に述べられていた。
日本の国や国民のまとまりは、長い歴史によって育てられ、国民の天皇に対する敬愛の心は、今も続いています。そのまとまりを一つのすがたで表わしているのが天皇であるという意味です(学校図書)。
古くから国民に敬愛されてきた天皇は、日本の国や国民のまとまりのしるし(国の象徴)であると決められています(中教出版)。
天皇の地位は、日本の長い歴史をもとにして定められ、国民の総意に基づくものとされています(東京書籍)。
人々が幸福な生活をすすめていくためには、国民全体が一つにまとまっていくことが必要です。そこで、国民の総意によるまとまりをあらわすには、天皇がふさわしいと考え、天皇を国、および国民全体のまとまりの象徴と定めました(教育出版)。
学校図書の同教科書記述の上には、「外国からのお客をむかえる天皇」と題する写真が掲載され、「象徴としての天皇が、外国のお客をたいせつにもてなすことは、日本の国が、そのお客をたいせつにもてなしていることになります」と説明している。
また、東京書籍の同教科書記述には、「日本の歴史と国民の総意」という小見出しがつけられており、「国民の総意」と日本の歴史を関連づけて捉えている点が特に注目される。
天皇は儀礼的な国家の「象徴にすぎない」。しかも「この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」(憲法第一条)と規定されているのだから、「践祚の前に、まず主権者たる国民の意思の代表機関である国会の総会を緊急に開いて、新帝践祚の信任を提議することが最優先」であり、「主権者たる国民の総意」が得られない時は、たとえ「世襲」の規定があっても天皇の地位に就けないと解釈できる、と色川大吉教授(東京経済大学)は昨年十月二十七日付朝日新聞「論壇」で主張した。また新帝についての「国民投票をすべきだ」という声もある。
しかし、このように象徴天皇と国民主権を対立的に捉え、天皇の地位を否定的、消極的に捉える記述は、少なくともこの時期までの教科書には見られなかった。
ところが、現在使われている学校図書の同教科書には、先に引用した部分は全くなくなり、中教出版の同教科書の記述も「天皇は国や国民のまとまりのしるし(象徴)である、と定めています」に改められている。
また、東京書籍の同教科書の記述も「日本の長い歴史をもとにして定められ」の文言が消え、「天皇の地位は、主権を持つ国民の総意にもとづくものとされています」と述べるにとどまっている。
更に、教育出版の同教科書の記述も「国民主権のもとに、天皇は、日本国の象徴であり、また、日本国民全体のまとまりの象徴であると定められています」に改められている。
このように天皇に関する記述が変化したのは、昭和五十二年に学習指導要領が改訂されたからである。即ち、昭和四十三年版の小学校学習指導要領の第二章第二節の社会科第六学年の「内容の取り扱い」の項には次のように書かれていたが、この個所が削除されてしまったのである。
天皇については、日本国憲法に定める天皇の国事に関する行為など児童に理解しやすい具体的な事項を取り上げて指導し、歴史に関する学習との関連も図りながら、天皇についての理解と敬愛の念を深めるようにすることが必要である。・・・日本の神話や伝承も取り上げ、わが国の神話はおよそ八世紀の初めごろまでに記紀を中心に集大成され、記録されて今日に伝えられたものであることを説明し、これらは古代の人々のものの見方や国の形成に関する考え方などを示す意味をもっていることを指導することが必要である。・・・わが国の歴史を通じてみられる皇室と国民との関係について考えさせたり・・・するよう配慮する必要がある。
「天皇は内閣の儀式係」
今回の改訂でこの前段部分の文章がほぼそのままの形で復活するわけであるが、次に、現行の中学校社会科教科書(公民的分野)では、この国民主権と天皇の関係をどのように記述しているか、教育出版の『中学社会・公民的分野』を例に見てみよう。
同教科書では、まず「国民主権の考え方」について、「国民が国の主人公となり、国の政治のあり方を最終的にきめる力を国民主権という」と説明した上で、「国民主権と天皇」について次のように記述している。
日本国憲法では、「主権が国民に存することを宣言」し、続けて、「国政は、国民の厳粛な信託による」ことを強調している。
また、天皇と国民の関係については、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」とされている(第一条)。
このように天皇は日本国及び日本国民統合の象徴である点に触れている点は、どの中学校社会科教科書(公民的分野)にも共通しているが、問題はこの点を教師が実際にどのように教えているかにある。
実際の教育に決定的な影響を与えているのが教師用指導書であるが、これは文部省の検定を受ける必要がなく市販されていないため、ほとんど一般の目に触れることがない。従って、教科書執筆者のイデオロギーや本音がかなりストレートに述べられていることが多い。
例えば、前述の教育出版の『中学社会・公民的分野』の教師用指導書には、「国民主権と天皇」について、次のような記述が見られる。
憲法第一条の象徴規定以来、法定概念のとらえ方、教え方をめぐって論議されたが、下記の記述のごとく簡単に取り扱ってもよいのではないか。「君臨すれど統治せず」の英国の王位をモデルにした。したがって国政に関する機能はもたず、儀礼的・形式的国事行為で行うのみである。またその地位は「主権の存する国民の総意に基く」と定め、主権者である国民の意思によってはじめて象徴しうることを指導の重点とすべきである。
教科書記述では憲法第一条の前段の象徴天皇の規定と後段の国民主権の規定をバランスよく紹介しながら、実際の教育にあたっては後段の意味を教えることを指導の重点とすべきである、とこの教師用指導書は解説しているわけである。
このように文部省検定を必要としない教師用指導書には、教科書に記述した建前論を明確に否定する執筆者の本音が散見され、大変興味深い。次に示す東京書籍の『新しい社会・公民的分野』の教師用指導書の記述もその一例といえる。
個人の尊厳や法のもとの万人の平等を基調とする民主主義を基本原則と考えるならば、天皇制は憲法内での論理的な矛盾をきたしているのであり、その意味では、日本国憲法は民主主義が不徹底であるといえる。・・・天皇はいわば内閣の儀式係であるが、日本国と日本国民統合の象徴でもある。
教科書では憲法を誉め称え、天皇は「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」と説きながら、教師用指導書では憲法を批判し、天皇は「日本国と日本国民統合の象徴でもある」が、「内閣の儀式係」にすぎないと解説する。この建前(教科書)と本音(教師用指導書)がいかに掛け離れているかは、同一事項についての両者の記述を比較対照すれば一目瞭然である。
ところで、憲法第一条の条文に基づき天皇と国民主権の関係について、高校の日本史の授業では一体どのように教えられているのであろうか。ある教師の授業実践を次に示そう。
この条文(憲法第一条)の後段で「この地位は主権の存する日本国民の総意に基く」と述べていることを考える。かつては神話で説明されていた天皇の地位が否定され、主権者である国民の総意に基づいて変えられうるようになったということをとらえさせる。法学者宮沢俊義氏が「法的な革命」と呼んだ事実もあわせ紹介する。・・・「象徴」という名の天皇(制)が国民主権という立場といろいろな矛盾を生む要因となることも考えさせる。・・・新憲法では、国民の総意に基づく象徴天皇制となり、基本的には国体は変わったが、同時に天皇(制)が形を変えて残ったため、国民主権の関係で双方の矛盾が存在し、そこから今日のような天皇(制)をめぐるいろいろな問題が生じてくることをとらえさせることが大切である。(渡辺・有田著『天皇をどう教えるか』教育史料出版会、昭和六十三年)
あえて批判する高校日本史
次に、高校の日本史教科書の教師用指導書が天皇についてどのように記述しているか見てみよう。
まず最も注目されるのは、昭和天皇の開戦責任を暗にほのめかした三省堂「日本史」指導資料の「天皇の開戦の決断」と題する“追加史料”である。同史料は、昭和十六年十一月三十日の木戸幸一日記の一部を掲載し、次のように〈解説〉している。
天皇はこの日、木戸を呼び、海軍が開戦に対して消極的ではないかとの不安をもらした。木戸は海軍大臣と軍令部総長にその点を確かめるべきだと進言し、天皇はそれに従った。そして海軍が開戦に同意したことを知ると天皇の心も決まった。天皇の不安は米・英と開戦して勝てるかどうかにあったのであり、海軍の決意を聞いて天皇も安心したのである。ここに、開戦の決定において天皇も積極的であったことがわかる。
この解説文は、昭和天皇が戦争に対する強い反対のお気持ちを持っておられた事実をまったく無視している。同年十月九日に、伏見宮が皇居に参内し開戦の決断を促した際にも、昭和天皇は非常に失望されたという資料もあるし、日米開戦を決定した御前会議の席で、「よもの海みなはらからと思ふ世に など波風のたちさわぐらむ」と明治天皇の御製をくり返し読みあげて避戦を訴えられた事実もよく知られている通りである。
因みに、この追加史料の下に、この項(「太平洋戦争とポツダム宣言」)を書くにあたって参照した〈参考文献〉が列挙されているが、井上清『天皇の戦争責任』、藤原彰『太平洋戦争論』、家永三郎『太平洋戦争』、黒羽清隆『日中15年戦争』など御馴染みの本ばかりで、まったくバランスを欠いている。この点はどの高校日本史・教師用指導書にも共通している。
また、同じく三省堂発行の家永三郎著『新日本史』指導資料も「今上天皇と太平洋戦争」と題する“補充史料”を掲げ、十月十三日から開戦までの木戸幸一日記を詳細に紹介している。三省堂「日本史」指導資料に掲載されている“追加史料”でもう一つ注目されるのは、昭和二十一年一月一日に出された「新日本建設に関する詔書」を「(天皇神格否定の)詔書」と名づけ、随所に「天皇神格否定の詔書」「天皇の神格否定宣言」という用語を使っていることである。
昭和五十二年の天皇の記者会見によれば、神格否定は「二の次」であり、同詔書の第一のねらいは、五箇条の御誓文を引用することによって、「民主主義を採用したのは、明治大帝の思召しである。・・・民主主義というものは決して輸入のものではないということを示す」ことにあった。(高橋紘・鈴木邦彦『陛下、お尋ね申し上げます』徳間書店)
このような事実が判明しているにもかかわらず、同詔書の神格否定の後半部分のみを殊更に強調し、五箇条の御誓文については完全に黙殺していることは、明らかにバランスを欠いた記述といえる。その意味では、次の自由書房『高等学校新日本史』指導資料の記述も同様の過ちをおかしており、他の指導書の取りあげ方も大同小異である。
天皇も一九四六(昭和二十一)年一月一日の年頭詔書で、みずから人間宣言をおこなって天皇の神格を否定した・・・〈参考資料〉天皇が国民に向かって「相互の信頼」を強調し、現人神思想を「架空なる観念」と明言して斥けた点で、画期的な宣言であった。
次に、実教出版『日本史』指導資料の3「現代日本の文化と生活」の項では、“学習の展開”として、「天皇制批判の自由→社会科学の発展」と書かれ、“指導上の留意点”として、「天皇制批判の自由がもつ意義の大きさに注目させたい」と述べ、“学習のまとめ”として、「天皇制からの自由は、戦後文化を発展させる原動力となった」としめくくっている。因みに、同教科書には、「天皇制の批判が自由となった日本歴史研究では、古代史や近代史の解明がすすんだ」と書かれている。
天皇制を批判すること自体はまったく自由であるが、教科書や教師用指導書であえてこのように強調する必要が果たしてあるのであろうか。教科書は深い「教育的配慮」に基づいて書かれなければならず、この点一般の著書とは異なることをしっかりわきまえる必要があるのではないか。
露骨な左翼イデオロギー
次に、高校日本史・教師用指導書で目立つのは、国民と支配層とを意図的に対立させ、天皇制をファシズムと関連させつつ論じる記述である。例えば、三省堂『高校日本史』指導資料では、「敗戦前後の支配層と国民」と題する史料を掲載し、〈支配層〉を代表して、近衛文麿上奏文(昭和二十年二月十四日)と東久邇首相の施政方針演説(同年九月五日)の一部を紹介し、<国民>を代表して、「大体日本の制度が悪いのや。天皇陛下といふものがあるからこんなことになるのや。一層のこと鉄砲で撃ち殺してしまへばよい」(九月十三日、大阪)などの声を紹介している。
因みに、学校図書や実教出版の教師用指導書も“補充史料”として「近衛上奏文」を掲載しており、後書は「近衛文麿は、敗戦を意識し、敗戦後の共産主義革命を恐れ、天皇を中心とする国体の護持をはかるために、早期終戦を実現しようとして、この上奏文を提出した。この上奏文からは、国民の犠牲を少なくするためということばはきかれない」という説明文を付している。これを読めばこの史料がどういう意図で掲載されているかがよくわかる。
この「近衛上奏文」は高校の実際の授業の中ではどのように扱われ、それに対して生徒はどのような感想を抱いているのであろうか。法政二高の渡辺賢二教諭は前述した『天皇をどう教えるか』において、「『戦争と天皇(制)』の授業をどうすすめたか」と題して自らの教育実践を詳細に紹介し、「天皇と戦争責任」問題の資料として「近衛上奏文」を掲げ、次のように述べている。
このとき、もし天皇が敗戦を決断しているならば、少なくとも沖縄戦も、原爆投下もなかったということも考えさせる。次に、ポツダム宣言が発表されたときの政府の態度なども資料化しつつ、国民には知られず、ずるずる戦争が長びかされ、他方では玉砕が宣伝されていた事実も考えさせる。
「天皇裁断による終戦」ということを歴史からひきはなして評価することはできないと思う。
天皇が戦争にどうかかわったかということは、生徒にとってはたいへん興味のある問題であるようだ。したがって、この学習ではいろいろな意見が出る。
「近衛上奏文が出たところで裁断すれば、もっと被害がなかった」とか、「二・二六事件のときはたいへんな決意でのぞんだ天皇なんだから、柳条湖事件や盧溝橋事件だって拡大せずにすますことができたはず」とか、「天皇が結局戦犯にならなかったのは、国際情勢がからんでいたのでは」とか、いろいろな意見が出されてくる。
いずれにしても、ここまで、資料に基づいて考えてきてみると、戦争に対して天皇はまったく関係ないと考える生徒はいなくなる。
一方、天皇制とファシズムの関係について、三省堂『高校日本史』指導資料は、次のように説明している。
天皇制ファシズム論は、現代歴史学界の主流的見解となっている。この理論を通史の形ではじめて体系的に展開したのは、井上清・鈴木正四『日本近代史』上下(合同出版社)である。・・・これに対し二重の帝国主義論を通史の形で展開したのは、小山弘健・浅田光輝『日本帝国主義史』全三巻(青木書店)である。小山らは・・・天皇制は「ブルジョアジーと地主の同盟を基礎として、それに『相対的独自性をもった半封建的絶対主義権力』」であり、・・・
また、同書は「天皇行幸」について、次のように解説している。
専制的天皇制支配の解体と保守勢力の危機が進行する一九四六年二月から翌年末にかけて、天皇は精力的に各地を行幸してまわり、「大御心」の「恩情」と「仁慈」を国民に知らしめた。このことの政治的意味は、(1)危機に瀕した保守体制にテコ入れして総選挙(一九四六年実施)での保守勢力の勝利を確保すること、と同時に、(2)天皇に対する戦争責任の追求を回避するための、GHQおよび世論に対するデモンストレーションであり、(3)「現人神」天皇から「象徴天皇」へのイメージ・チェンジを国民の中へ流し込む点にあった。
最後に、昭和六十三年度の採択校が少なかったために廃刊に追い込まれた、あゆみ出版『たのしい社会』六年の教師用指導書の天皇に関する記述の一部を紹介したい。
国民主権について、具体的に捉えるについては、・・・大日本帝国憲法と比較させたり、戦前の歴史や天皇、軍部の行動を想起させながら、現憲法における国民主権の意味を理解させたい。
一九四六年元旦、天皇は国民に「私は生きている神ではない。人間である」と宣言した。
ところが「新日本建設に関する詔書」については、家永三郎氏らが書いた戦後最初の歴史教科書で民主教育の原点となった『くにのあゆみ』(昭和二十一年、文部省著作)では、次のように記述されているのである。
天皇は昭和二十一年(西暦一九四六年)の一月に、詔書をお下しになって、日本国民のむかふべき道をおさとしになりました。そのうちには、まず、明治天皇のお定めになった五箇条の御誓文をおあげになって、つぎのやうにおほせられてゐます。
須ラク此ノ御趣旨ニ則リ、旧来ノ陋習ヲ去リ、民意ヲ暢達シ、官民挙ゲテ平和主義ニ徹シ、教養豊カニ文化ヲ築キ、以テ民生ノ向上ヲ図リ、新日本ヲ建設スベシ・・・
占領下の厳しい教科書検閲の中にあっても、このように本詔書の本来の趣旨が五箇条の御誓文にあることを明記している事実に私たちは注目する必要がある。この『くにのあゆみ』には、「人間宣言」「神格否定の詔書」などとは一言も書かれていないのである。バランスを欠いた記述(神格の否定に触れること自体を批判しているのではない)がいつのまにか定説化し“一人歩き”した結果、日本側の趣旨がまったく見失われてしまい、このネーミング自体に誰も疑問を抱かなくなってしまったのである。
本稿を書くにあたって、小・中・高校の教科書と教師用指導書の天皇記述並びに天皇に関する教育実践にひと通り目を通した。教科書の記述には部分的に問題はあるものの、極端に偏向した記述は見られないが、教師用指導書と教育実践にはかなり露骨な左翼イデオロギーがみられる、というのが調査の結論である。
◇高橋 史朗(たかはし しろう)
1950年生まれ。
早稲田大学大学院修了。
スタンフォード大学フーバー研究所客員研究員、明星大学助教授を経て現在、明星大学教授。
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