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2000年7月号 正論
国立二小の“恫喝”職員会議
卒業式前夜の九時間を公開する
本誌編集部 桑原聡
 
はじめに
 小誌六月号で国立市立第二小学校(澤幡勇治校長)の児童が、卒業式で屋上に国旗を掲揚した校長に土下座を要求した事件を通して、国立市公教育の実情を報告した。実はこの事件、小誌に先んじて産経新聞都内版(四月五日付朝刊)で報道され、多くの国立市民に衝撃を与えた。
 ところが反日市民団体は、この報道を「虚報」と決めつけ、それを応援するかのように反日市民団体の機関誌ともいえる『週刊金曜日』は、五月十二日号で「『産経』の虚報根拠に国立で右翼が街宣行動」と見出しをつけて、国立市民と称する女性の投書を掲載した。反日市民団体は何をもって「土下座事件」を虚報と決めつけるのか。その理由を説明してもらいたいものである。
 一方、あわてふためいた二小の教職員たちは、校長が市教委に提出した「平成十一年度卒業式実施報告書」(小誌六月号ですべて公開)の内容の訂正と削除を職員会議で校長に要求し、情報を外部に漏らした犯人の追及に躍起となるが、事件を重くみた市教委の聴き取り調査には、いまだに応じる気配はないという。
 ところで、小誌は新たに二小の卒業式前日(三月二十三日)に開かれた職員会議録を入手した。会議は午後二時半から十一時半まで九時間もかけて行われ、それは一貫して校長対教職員という構図で進行した。常軌を逸したマラソン会議とは、校長を肉体的にも精神的にも極限状態に追い込み、ギブアップさせたうえで自分たちの要求をのませるための戦術、簡潔に言えば集団リンチである。
 教師が記録した分厚い会議録を丹念に追っていくと、校長の誠実さを逆手にとって、反日イデオロギーに取りつかれた教職員がどれほど非常識な発言をしているかがよく見て取れる。常識のある者ならば、この学校に子供を預けようとは思わないであろう。マラソン会議の中から、問題と思われる個所を抜粋して公開しよう。
 
「子供たちが何かしてもかまわないのか」
 
《場面1》
校長 昨日の校長判断(卒業式で屋上に国旗を掲揚する。掲揚は午前七時半に管理職と市教委職員で行い、その後教職員を校舎に入れる=筆者註)を守ってほしい、色々な角度の色々な考えの人の要請を考えた上での決断。守ってほしい。
教員 混乱は屋上に日の丸をあげると、おきないか?
校長 式場の「日の丸・君が代」が良いと思っている。親は「国歌」斉唱がいやだとのみ要請。「国旗」には触れていない。子どもたちの混乱を考え、屋上の「国旗」と考えた。今年は実施をしてほしいという人たちの動きがあり、その人たちへの説得が適切にできない。直接子どもたちへの影響が出ない範囲で両者の言い分をとった結果、屋上への「国旗」という結論になった。
教員 混乱させているのは誰か。誰が「日の丸・君が代」を要請しているのか、はっきりさせてほしい。警察、市教委の力を借りてまであげるということのおかしさをわかってほしい。うむを言わさない、民主主義に反する行為だと思う。
校長 中学にも市教委、警察も入った。しかし、それは良いことだとは思っていない。実施できないことを放置できない。教職員がそれを妨げるものではないと約束するなら、そういう手段はとらない。
教員 当日の朝まで、お互いに考える姿勢をもつことが、ギリギリできること。それもやらず、屋上に「日の丸」をあげ、妨害するなら警察を入れるというのはなぜか。校長会の依頼文は、まず結論があり、強引な実施を裏づけるものである。それが教育的にどのような意味があるのか? 学習指導要領の改訂には現場の声は反映されていない。上からおりてきたことを一方的に実施することが教育的とは、とうてい言えない。教職員との信頼関係をつくるつもりがあるのだろうか? 立場の違いをこえて教育者としてきちんと議論する必要があるのでは。
教員 卒業式に至るまで様々な困難があった。その中で子どもたちの気もちを大事にとりくんできた。明日、突然「日の丸」が揚がったときの子どもたちの気もちが乱れる。それが混乱。主人公である子どもたちの心を一番に考えてほしい。子どもたちの心を考えて断念してほしい。
校長 断念する部分(国歌斉唱と式場への国旗掲揚)は昨日話した。すでに実施した学校の混乱は、人間として耐える範囲内。国旗を揚げたことを通して考えてほしい。
教員 二小の様子を十分把握していないのではないか。子どもたちは、「日の丸・君が代」を拒否する気もちをもっている。そういう気もちをよく知った上で、実施してほしいという人へも説得を。
教員 子どもの混乱は「耐えうるもの」と言う言い方をするのなら、校長、教職員の方が耐えるべき。一月に子ども本位の教育と校長が言ったことは、良いと思っていた。子どもが耐えるのではなく、一点のくもりもない気もちで卒業式をむかえさせてほしい。
教員 沖縄出身の私は、命は宝と教わり、「日の丸・君が代」を受け入れてきた悲しさをきかされてきた。授業の中で、沖縄やアジアの人々の気もちを学んできていない親ばかりだ。教育の中で、きちんと語るべきことがある。何も伝えもしないで、いきなり外部の人の力を借りて、強行するというのは悲しすぎる。もっと子どものことを考えてほしい。
教員 教育委員会と管理職で屋上に旗を揚げることについて、保護者と子どもにどう説明するつもりか。管理職と教職員の反発し合っている関係をさらけ出していくことになるのではないか。
校長 問われれば事実を述べるつもりである。皆さんが妨害をしないといえば、方法を変えるのだが。
教員 話し合いは継続中で、考え合っているところ。
教員 教職員は話し合いを求めているだけだ。力づくで旗をどうこうしようとは言っていない。七時半まで教職員を入れないというのは異常な事態なのではないか。
教員 屋上になぜあがっているか、子どもに事実を言ってよいか。
校長 いいです。
教員 子供たちが何かしてもかまわないのか。
校長 いいです。
教員 教職員をしめ出して、旗を揚げたときいたら、子どもたちがどういう行動をとるかわからない。それは混乱である。子どもたちにも親にも、何の説明もなく強行することはやめてほしい。来年、話した上で、子どもたちが良いということであれば話はちがう。事実を知ったら、校長からの渡されたもの(卒業証書)を受けとらないかもしれない。
教員 それは誇張ではない。ありうることだ。子どもの混乱することを極力避けてほしい。
 
 教職員側の異常さを示す発言はいくつかあるが、最初に問題にしなければならないのは、「子どもたちが何かしてもかまわないのか」というものだろう。屋上に国旗を掲揚したいとする校長に対して、実力行使によって阻止する可能性をちらつかせたうえで、このように啖呵を切る。この発想は、「要求をのめないのなら、若い衆が何をしでかすかわかりませんよ」といったヤクザの恫喝と変わりない。卒業式がどういう形で行われるにせよ、子供たちに何かをさせないことが教師の役割ではないか。子供を「鉄砲弾」扱いしていることにこの教師は気づかないのだろうか。
 それにしても、教師たちの反日教育に対する自信は大したものである。国旗を掲揚すれば、子供が何か行動を起こすと信じきっているのだから。こうした熱血反日教師に日々「薫陶」を受ければ、校長に「日の丸を降ろせ」「土下座しろ」と平気でいえる子供に育つわけだ。土下座要求事件は起こるべくして起こったといってよいだろう。
 次に問題とすべきは、「混乱させているのは誰か。誰が『日の丸・君が代』を要請しているのか、はっきりさせてほしい」という発言だ。国旗・国歌の適正実施を求める保護者を混乱を起こすものと決めつけ、そのうえで名前を明らかにするよう求めているわけだ。サイレント・マジョリティーの存在に気づかず、学校行事にしばしば介入する反日市民団体と連帯している自分たちをマジョリティーと勘違いしたうえで、自分たちと意見の異なる人々を排除しようという思考。こういう人間に民主主義を云々する資格はない。
 三つ目は、沖縄出身の教師の発言だ。「授業の中で、沖縄やアジアの人々の気もちを学んできていない親ばかりだ」とは、言いも言ったりである。親は親なりの人生観、世界観をもって子供に接しているのではないか。保護者をばかにするものではない。この教師は沖縄出身ということに甘えて、知らず知らずのうちに自分を特権化している。自分の「正義」を他人に押し付ける前に、異論にもきちんと耳を傾ける訓練をすべきであろう。
 
「旗は占領の印」
 
《場面2》
教員 国立の教育は国立市で責任をもっているはず。自分の足もとから教育を考えてほしい。
校長 (国旗を)式場に入れないということが、子どもたちや保護者の気持ちを考えた上での結論。
教員 屋上に「日の丸」を掲げたときの意味はない。失うものの方が大きい。
校長 小学生にとって「国旗・国歌」はその国固有のものがあり理解する必要がある。「国旗・国歌」に対するマナーも知ってほしい。そのための体験の場が卒業式などである。
教員 「日の丸を」揚げないことのトラブルとは? 理解させたいのならそのために場を作って教えるべき。教育とは「説得と納得」。それをぬきに強行するのが混乱。突然行うのは教育とは言えない。
校長 指導要領の中で、教えていることが前提としてある。私も指導していい。
教員 あげないで指導するのですか。
校長 あげておく。とにかく揚げた上で・・・。
教員 それは反対ではないか。きちんと指導した結果、子どもたちは反対の気もちをもっている。
校長 そういう指導ではなく、尊重できるような指導方法が必要。
教員 市民の子どもは「国旗・国歌」について、なかったが、混乱したことはない。そのことに関して、暗い気もちはもっていない。むしろ、意識が高い。強制することが一番おかしい。国立には「日の丸・君が代」は似合わない。
教員 きちんと教えてこなかったことが日本の現状を作ってしまった。歴史の事実を知らせて来なかったことが問題。旗は目印、占領の印。正しい認識を子どもたちにもってもらうことが大事。国の考え方も変わりつつある。よりグローバルな視点での議論が必要。
 
 ここで偏向教育のありようが、教師自らの口で語られる。「きちんと指導した結果、子どもたちは反対の気もちをもっている」と教師は誇らしげに断言する。きちんとした指導とは、「旗は目印、占領の印」なのだそうだ。こういった国際社会で通用しない論を子供に刷り込むことで、彼らは無国籍の地球市民を育てているつもりなのであろう。
 また、「よりグローバルな視点での議論が必要」という発言には失笑させられる。国際社会のマナーは、自国の国旗・国歌に対する敬意を教えることから始まるのではなかろうか。自国の国旗・国歌を大切にできない者が、他国の国旗・国歌に敬意を払えないのは自明のことだからだ。
 すでにお気づきであろうが、教職員側は決して「国旗・国歌」という表現は使用せず、「日の丸・君が代」、甚だしきは「旗」という表現で押し通す。国旗・国歌法の成立が許せないからだろうが、現実を直視せず、自らの幻想にしがみついて十年一日のごとき論を繰り返すのは、サヨクの通弊である。「日の丸・君が代」を国旗・国歌と認めるところから議論を始めなければ、何も変わりはしないと思うのだが。
 
マッチポンプの議論
 
《場面3》
教員 子供たちがいやだなと思うことを強要することが「内心の自由の侵害」となる。親が納得していないで抗議にきたら、(国旗掲揚を)やめますか。
校長 「国旗・国歌を式場に」ということで、保護者と話したが、多くの保護者が国歌に対しての拒否感を語った。国旗について特に話はない。
教員 明朝(卒業式当日)、保護者と子どもに説得したらどうか。
校長 混乱が起きるかもしれないのでやらない。
教員 屋上に揚がっているのを見たら、混乱はおきないのか。
校長 この学校のことしか考えてないのだろうか。たくさんの人の要請のどちらにも言い分があり、決着のつけ方を考えてきた結果が昨日の結論。
教員 外部の人の意見をきいて判断したということになるだろうが、内部の意見についてはどうなのか。
校長 賛成(「日の丸・君が代」をやってほしい)の保護者は、要請に来ていない。
教員 賛成・反対の両方の意見がある場合は「国旗」に触れない形で実施。
校長 合意は片方の意見をまるごととりこむことではない。
教員 どちらかにくみすることではなく、触れないことが一番ではないか。
校長 たくさんの人の意見を配慮。子どもの動揺は屋上にあげた場合は、それほどではないと思って決断。
教員 一人でも動揺するとしたら、やめてほしい。あおぎ見ることは強制。
校長 そのことで社会的批判があったら受ける。
教員 「日の丸」を揚げなかったら、混乱は起きない。やらなかったら混乱は起きない。外部ではなく、保護者、子ども、教職員に混乱がないようにした決断をしてほしい。
校長 そういうことを考えて、屋上での掲揚を決断した。
 
 屁理屈もいいかげんにしろと叫びたくなる。「子どもたちがいやだなと思うことを強要することが『内心の自由の侵害』となる」と教師は主張する。そもそも国旗・国歌をいやだなと思うように仕向けたのは、教師自身ではないか。これは一種のマッチポンプといえないか。
 そしてこの論は、国旗・国歌問題にとどまらず、学校のあらゆる局面で悪用される危険性がある。たとえば「私の内心の自由を侵害するから、丸刈りを求める校則には従いません」といった子供の我がままに、教師はどう対応するのだろう。教育は強制を伴うものである。その覚悟がもてぬ教師に教育ができるはずがない。
 「教育は説得と納得」という高説を唱える教師が、恫喝と屁理屈をもってしても校長を説得できず、納得させることもできないことがわかると、今度は議論のすり替えという戦術に出る。なんと「賛成・反対の両方の意見がある場合は「国旗」に触れない形で実施」すべきだと言い張るのだ。こんなご都合主義の発言ができるとは、どんな神経をしているのだろう。結果的に国旗さえ掲揚されなければ、自分たちの勝利と考える彼らに、果たして教育者の資格があるのだろうか。
 
内心の自由は無制限に尊重されるものか
 
《場面4》
教員 (朝日新聞の「論壇」を読む)。内心の自由に反することをしてはならない。
校長 内心の自由の尊重はそう思う。職務をもっている場合、制約がある。そうしないと社会がくずれる。
教員 そんなことはない。憲法が上位である。子供の内心をおかすことはできない。
教員 無理やりやるのは指導ではない。
教員 子供たちは聞いていない。
教員 子供に説明しないであげるのは時間が無いからなのか。七時半の理由もあいまい。誠意ある答えがほしい。今までは証書をわたすときは、名前と子供が一致するようにと校長から授業をしたい、給食を一緒にと申し出があった。今年はそのような考えは無いと聞いている。ここは教育の場。子供無しには語れない。あした話し合いをして欲しいと言っているのに答えられないでどうするのか。
校長 健康上、限界である。
 
 午後十時前のやりとりである。この後、卒業式当日の早朝に職員室で会議を開けと要求する教師に対して、校長は国旗掲揚への妨害を恐れて、校舎の外で教師の質問に答えると回答、そのまま押し問答が十一時半まで続く。
 それにしても、ここに至って教師が朝日新聞の論壇を引き合いに出すとは情けない。サヨクと教条主義とは昔から切っても切れない縁があるようで、はしなくも、ここでその一端をさらけ出している。現実に立脚して自らの頭で考えられぬ者は、すぐに「権威」にしがみつこうとするものだ。
 これに対する校長の意見は、しごくまっとうな大人のものである。もちろん内心の自由は尊重されなければならない。しかし、それを無制限に認めれば、社会そのものが崩れてしまうことは自明の理だ。社会が崩壊すれば、それこそ弱肉強食となり、内心の自由などはなから無視されることが教師にはわからないらしい。
 
おわりに
 九時間に及ぶ職員会議に耐えた校長は、翌日の卒業式終了後、児童に「日の丸を降ろせ」「自分たちの心を傷つけたから、土下座して謝罪しろ」といった暴言を浴びせかけられる。改めて小誌六月号の「校長に土下座を要求した国立の“紅衛兵”」を読んでいただきたい。この日の教師の発言を児童がおうむ返しに言っていることに気づくであろう。
 国の根幹を腐らせようとする、このような教師の「ふるまい」を許してはならない。
 
 追記 土下座要求事件が報道されたことで、教職員による校長糾弾は激しさを増し、四月中旬、校長は倒れた。
◇正論編集部


 
 
 
 
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