児童虐待や家庭内暴力が深刻化する中、家族のあり方が問われている。少年非行の凶悪化・低年齢化にも歯止めがかからず、家庭の教育力の低下が指摘されている。家族とは何か。また、どうあるべきか。戦後この方、あまり顧みられることのなかった家族の価値(ファミリー・バリュー)を再確認したい。
言うまでもないことだが、家族は社会の最小単位である。家族がしっかりしないことには、地域社会は成り立たず、学校や会社組織も安定しない。もちろん、国も栄えない。家族はあらゆる社会の営みの基礎なのである。
家族は「家庭」という言葉にも置き換えられる。その大きな役割の一つはやはり、教育であろう。昨年暮れの本紙談話室に、こんな投稿が載った。還暦前の先輩の昔話によると、小学校のころ、朝しなければならない家の掃除を忘れて登校したところ、父親に呼び戻され、階段の雑巾(ぞうきん)がけをして再び登校したという。家庭のしつけが重視されていた時代のエピソードである。
家族は夫婦愛や親子愛、兄弟愛に支えられている。それらの愛がやがて友情や郷土愛などに発展し、国を愛する心や歴史への愛情につながっていく。その意味で、家庭は人間関係に欠かせない愛情をはぐくむ場でもある。
近年、こうした家族の価値は、個人の自由や幸福が重視される欧米でも、再評価されつつある。日本も少し遅れて、その機運が高まってきた。森喜朗前首相の私的諮問機関「教育改革国民会議」は二年前の最終報告で、「教育の原点は家庭」とし、親に人生最初の教師であることの自覚を求めた。教育基本法改正問題を審議する文部科学省の中央教育審議会も昨年十一月の中間報告で、家庭教育について新たな規定を設けるべきだとした。
現行憲法でも、家族の価値は軽視されている。制定前のGHQ(連合国軍総司令部)草案にあった「家族は人類社会の基底にして…」という文言が、その後の修正過程で削られたからだ。憲法改正の論議でも、こうした観点を忘れないでほしい。
産経新聞は今年の年間テーマを「家族」とし、拉致被害者の家族をつづった「逆境にあって」という連載からスタートした。一年間、家族のあり方について読者とともに悩み考えたい。
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