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2000/11/16 産経新聞朝刊
【豊中の教育】(3)激しい組合活動 現場から失われた情熱
 
 「連日連夜、分会(組合の学校単位の組織)で校長と交渉。午前三時ごろまでやったこともあった」
 大阪府の豊中市立学校のベテラン教員は、昭和五十年代の学校現場をこう振り返る。当時「主任制」導入をめぐって日教組加盟の豊中市教職員組合(豊中教組)が激しい反対闘争を繰り広げていた。
 日教組は、勤評(勤務評定、昭和三十二−三十四年)や学テ(学力テスト、三十六年以降)など大規模な反対闘争を展開。五十年末に学校教育法施行規則が改正され、文部省が翌年、三月からの実施を通知した主任制も対象になった。
 折から豊中では、近くの千里丘陵を会場にした万国博覧会開催(四十五年)に伴って宅地開発が進み、人口が急増していた。教員を大幅に増やす必要に迫られ、全国各地から集められた。その中に「70年安保」や「全共闘運動」で高揚していた学園闘争の活動家もいた、という。
 「イデオロギーに染まってない短大卒業生も積極的に採用されたが、組合のオルグにあうと、ひとたまりもなかった」と元校長の一人。
 豊中教組が勢力を拡大し、闘争的性格を強めていたなかで、主任制闘争は始まった。
 市教委との団体交渉には大規模動員をかけ、夜を徹した。学校内では、校長をつるし上げる怒声が日常的に響き、職員室には横断幕が掲げられた。組合員が校長と全く話をしない、あいさつもしない“無言闘争”で、組織率がほぼ一〇〇%の組合の前に孤立無援となり、定年を待たずに退職した校長もいた。校長室から校長を追い出して談話室のように使った教員もいたという。
 「組合活動に明け暮れた結果、教育への情熱が現場から失われていった。いまでも意欲的な教員はいるし、平和教育や人権教育にはおおむね熱心だが・・・」
 複数の学校関係者は、こう口をそろえる。
 昭和四十年代まで、豊中の公立学校は「教育の質が高い」と評判だった。市教委の指導主事チームが学校を訪れる授業指導もひんぱんに行われ、特に新人研修は、教員らが泣き出すほど厳しかったという。「こうした授業研究は教員の命だが、最近まで、指導主事の研修訪問も拒否するような状態。校内での研究発表もほとんどなく、あっても教員間で傷をなめあうようなレベルでしかない」と、ある教員はいう。
 府教委幹部は「かつて、他府県から来た教育視察団の行き先はいつも豊中というほど、熱心に先進的な取り組みをやっていた。いまは、視察団を案内することはまずない。文教都市として知られた面影はなくなった」と話している。


 
 
 
 
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