1998/09/01 産経新聞朝刊
【教育再興】(92)平和教育(10)北方領土 祖国への正当な評価を
今年四月下旬、本紙アピール欄に載った樺太(サハリン)の帰属に関する新潟県の中学教諭(三六)の投稿が論議を呼んだ。
投稿は「社会科地図帳に(白色で)領土未画定・係争中地域として扱われている南樺太をどう生徒に説明したらよいか。日本政府はサンフランシスコ講和条約で領有権を放棄し、現実にはロシアがサハリン州の一部として管理している。ロシア領ととらえて不満の国はないだろう」と、地図帳にロシア領と明記することを求めていた。
掲載後、反論が相次いだ。多くは、講和条約にソ連は調印せず帰属が国際法上定まっていない点や、ソ連が領有の根拠とするヤルタ秘密協定の無効性を指摘していた。
大阪府枚方市の中学教諭、長谷川潤さん(五〇)からは、戦後日本が抱えてきた学校教育や教師の問題に踏み込んで言及した投稿が寄せられた。
「投稿は最も尊重されるべき日本国、日本国民としての立場や正義感が完全に欠落している。現場教師から、国家・国民・民族といった帰属意識や樺太、千島を強制追放された同胞諸兄への思いやりがいかに枯渇しているかという問題点が露呈された」
運動部員の練習の声が響く、夏休みの同中学校を訪ねた。
長谷川さんは昨年夏、ビザなし交流で北方領土の色丹(しこたん)、択捉(えとろふ)両島に行った。今年七月下旬には、総務庁の外郭団体、北方領土問題対策協会の活動の一環として、生徒を北方領土を望む北海道根室市に連れて行った。八月も、奈良で青少年のための領土研修に参加するなど実践教育を進めている。
長谷川さんが教師になったのは昭和五十年。「社会のために」と民間企業を辞めてなった教師だったが、ある時、同僚の授業に大きなショックを受ける。
二年の歴史の時間に、国家の主権や人道的問題の視点から北方領土問題について教えていると、「先生、それ習ったことと違う」と生徒から声が上がった。
「北方領土が日本に返還されれば、ソ連(当時)侵略の拠点として軍事基地がつくられる」−一年の地理の授業で、生徒たちはこう教わっていたという。
長谷川さんは「戦後社会の矛盾を覆すためにも、子供たちに事実を知らせなければいけない」と思った。
長谷川さんは昭和五十五年十二月、民間の北方領土返還推進グループの協力で、教え子ら十五人の中学生を連れて初めて根室へと旅立った。
大阪の伊丹空港では、マスクや帽子で顔を隠した教員らしいグループが一行を妨害する事件も起きた。「子供を政治に巻き込むな」と、ある政党機関紙の攻撃も受けたが、長谷川さんの根室行きはその後も回を重ねた。
現地では、市役所を訪問し、生徒とともに納沙布(のさっぷ)岬に立つ。資料館である北方館の双眼鏡をのぞくと、望楼に立つ兵士の姿が見え、警備艇の砲門がふたをはずしてにらんでいる。「生徒たちは、領土問題を肌で感じるというより、ぬるま湯につかった気持ちを吹き飛ばすような受け止め方だった」
長谷川さんが、市教委と校長会、教職員組合主催の勉強会「枚方市教育研究会」で領土問題を取り上げようとしたところ、予定の人数が集まらないこともあった。
沖縄戦の「体験者」が講演した際、生徒たちはこんな感想文を書いた。
「日本軍は血も涙もないと思った。アメリカ兵がきてくれてよかったと思う。日本軍は自分の命のためならなんでもするひきょうな奴だと思った」「日本の人は自分のことしか考えなくて自己中(心的)だけど、アメリカの人は日本の人も助けてくれていい人だと思う」「アメリカ軍が悪いんじゃなくて本当は味方のせいでくるしんでいたのがわかった」・・・。
今年も、夏休みを前に、沖縄戦のビデオが上映されたが、長谷川さんは、沖縄戦で亡くなった特攻隊員の遺書を生徒たちに黙読させた。
十八回を数えた北方領土の日(二月七日)。地元根室市ではこの日、小中学生も参加してさまざまなイベントが行われる。今年も市立小の校庭では、四島返還を祈ってジャンボカルタを取り合う「四島(しま)カルタ」が行われた。
「東京や大阪では、北方領土返還というと、まるで右翼の活動のように言われるが、領土問題は政治運動ではなく国民運動だ。国際社会が激動し、流動化する今、真の国際理解は祖国への正当な評価と正しい歴史認識、同胞への共感なくしてあり得ない」という長谷川さん。これからも“孤独の闘い”は続く。
■領土の教科書記述
文部省は日本の領土について、中学校学習指導要領(社会・地理的分野)で「北方領土が我が国の固有の領土であることなど我が国の領域をめぐる問題にも着目させる」とするなど、日本の立場を明確化している。
今年の高校教科書検定でも、「日・ロ間の最大の問題である領土の画定が未解決」とした地理Aの申請書の記述が検定後、「日本の主権をロシアが認めないため、両国間にはいまだに平和条約が締結されていない」と改められた。昨年の検定では、北方領土と竹島、尖閣諸島を同列に扱った記述があり、「尖閣諸島は日本が実効支配しており、領土問題は存在しない」と検定意見がついた。
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