2001/01/07 毎日新聞朝刊
[社説]新世紀考 教育 学校の枠超えた学びの場を
◇多様な個性評価する社会に
こんなデータがある。文部省の1999年度社会教育調査によると、教育委員会などが開設する講座の受講生は1705万人にのぼる。知事・市町村長部局開設では1097万人、民間のカルチャーセンターでは308万人が受講している。このほか、大学の公開講座や放送大学などで学ぶ人も多い。
一方、学校教育を受けている幼稚園から大学までの在学者数は、少子化の影響で83年度の2780万人をピークに減り続けており、2000年度は約2160万人だった。注意すべきは、かなりの児童・生徒が、学校とは別にけいこ事や学習塾に行っていることだ。文部省の93年の調査では、小・中学生の約60%、815万人がけいこ事に通っている。
学校の枠の外で自主的に学んでいる人たちは、すでに、学校在学者数に匹敵する水準に達しているのである。しばらく前までは考えられなかったことだ。しかも、この生涯学習人口はなお増える傾向にある。
◇変わる学校の役割
日本の近代教育が軌道に乗ったのは、無償体制が確立した20世紀に入ってからである。そしてこの激動の100年の教育を支えたのは、「学校」だった。富国強兵・殖産興業に資する人材の養成に励んだ戦前はもとより、高度経済成長を担う人材の量産に努めた戦後においても、学校は、国が主導する近代公教育の中核であり、すべてと言ってもいいほどの存在だった。家庭や地域の教育力の低下により、学校が過剰な負担を背負ってきたという面もある。
しかし、21世紀に入った今、教育の意味、学校の役割は、大きく変わっているように思える。少なくとも教育を学校という枠の中だけで語れる時代ではなくなった。
教育は、社会の中で一人前の人間として生きていくのに必要な力、知恵、教養を身につける営為といえるだろう。それが転換期にあると感じさせるのは、前提となる社会の内実が変容してきているからだ。
戦後社会が求めたのは、あらかじめ備わったマニュアルを素早く正確に理解し、実践できる粒ぞろいの人材だった。それには教育水準の底上げが必要だったが、画一的な内容を一斉に、かつ大量に教え込む教育システムは、よく任に堪え、そうした人材の量産に貢献した。
だが、このシステムは追いつき追い越せを目指す工業社会においてこそ有効だった。情報化、国際化が進み、モデルのない成熟社会に入った21世紀においては、何であれ、国や社会が画一的に示す模範像、鋳型にはめ込まれた均質の人材だけでは持たない。個々人の多様な個性、感性を生かすことこそが、国や社会や世界のためになる。そんな時代になった。それには、文化を伝える担い手が学校くらいしかなかった時代に設計された学校絶対の教育システムでは到底対応できない。
今教育改革が語られるのは、いじめや不登校、学級崩壊などの荒廃があらわになっているからだ。少年犯罪の深刻化や、大学生の学力低下と絡めて論議されることも多い。
こうした事態に、新たな規範、指針を上から示すことで対抗しようとしても難しいだろう。しつけを厳しくと呼びかけても、もっと勉強をさせようと学習指導要領を膨らませても、狙い通りにいくとは思えない。教育基本法を改正して、徳目を書き込んだとしても、それが現実のものになるわけではない。
教育荒廃の原因を一律に語ることは困難だが、経済成長に貢献した日本型教育システムの負の副作用という側面があることは、確かだろう。それは半面、いい学校、いい会社に入ることが幸せにつながるという信仰を生み、15歳、18歳での成績が人生を決めるという意味での学校歴社会意識を出現させた。子供の評価の尺度が、いい会社に入るための競争の手段である学校の成績に一元化されてしまったのである。
そこで評価されない子供にとっては、救いのない学校、社会になる。「居場所がない」「自分の存在を認めてほしい」などという子供の声に耳を傾ける必要がある。ある程度評価されている子供にしても、いつまでも評価され続けるのは、至難の業だ。物差しが一つであれば、どこかで壁にぶつかる可能性は常にある。さらに優良であっても、取り換えのきく「規格品」という要素があり、「かけがえのない自分」という意識が、なかなか持てない。
管理の強化よりも先に取り組まなければならないのは、学校歴社会に付随する発想の転換であり、システム改革だ。まずは評価の多様化を手がかりにしたい。これからは一人一人が主体的に考え、学び、選択すること、それぞれのやり方で個性を磨き、自らの人生を豊かなものにしていくことが基本になる。
◇生涯学習体系の整備不可欠
兆しはある。カリスマ美容師、料理の鉄人らが話題になったように、勉強以外のところで才能を発揮する人たちを評価する動きが出てきている。教育は、そうした多様な個性、感性を認め、引き出し、はぐくみ、励ますものでなければならない。
それは学校の枠にとらわれていたのでは達成できない。いつでも、どこでも学べ、その成果を的確に評価する生涯学習体系の中でこそ可能となる。冒頭のように現実はすでに相当進んでいるが、なお一層の整備が求められる。情報技術革命は、うまく使えば格好の追い風になる。一昨年6月のケルン・サミット(主要国首脳会議)で採択されたケルン憲章の副題が、「生涯学習の目的と希望」であったように、これは世界共通の課題でもある。
学校の意義がなくなるわけではない。基礎基本の習得には適しているし、大勢の他人と触れ合う場としても貴重だ。ただ21世紀には、子供の個性を認め、多様な評価をしていく存在に変わらなければならない。個々の子供にきめこまかく対応できる体制にすることが必要だ。それも学校だけでなく、地域やNPO(非営利組織)などの協力を得るシステムによって実現するのが望ましい。
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