2000/12/23 毎日新聞朝刊
[社説]教育基本法 結局初めに改正ありきだ
教育改革国民会議が22日公表した最終報告は、教育基本法の見直しを提言した点で、教育史に残ることになるだろう。だが、ここに書かれている改正の論理は説得力に欠ける。この方向で見直すことが、教育改革や、教育の荒廃の解決につながるとは、とても思えないのである。「初めに改正ありき」の森喜朗首相らの政治的思惑に引きずられた産物という印象が否めない。
国民会議の分科会が8月に審議経過報告を公表した際、本欄は「大胆なアイデアが含まれているが、未消化に過ぎる」と評した。今回の最終報告に至っても、結局、未消化のままに終わったように思う。
反響の大きかった奉仕活動は、滅私奉公的なイメージの残る「奉仕」の語にこだわり、「義務」化に固執したことが、議論を窮屈にした。特に18歳の義務化は問題が多すぎた。ぎりぎりまで表現の手直しを進めたようだが、依然分かりにくい。新タイプの学校作りに道を広げたコミュニティー・スクールも興味深いが、全体像は、なお不透明だ。
基本法の見直しも、未消化と言える。最終報告は、新しい時代にふさわしい基本法に求められる観点として(1)新しい時代(科学技術の進展、環境問題、少子高齢化、男女共同参画、生涯学習社会の到来など)を生きる日本人の育成(2)自然、伝統、文化の尊重、家庭、郷土、国家などの視点(3)理念的事項だけでなく、具体的方策を規定することが必要で、教育振興基本計画策定に関する規定を設ける――を挙げている。
それぞれもっともではあるが、基本法改正不可避の根拠となるほどのものではない。教育振興基本計画の策定も必要であり、賛成だが、改正とからめる必然性はない。
今年9月の中間報告では「基本法を具体的にどう直すかは集約が見られなかった」として、「国民的議論を」と呼びかけるにとどめた。今回は改正に向けハンドルを切り替えたが、どう議論が進められ、どうしてこのような内容になったのかは、最終報告書からはうかがえない。教育の荒廃が、基本法の規定に由来するという論証もない。
基本法改正は一部保守政治家らが早くから唱えてきた。「どこの国にも通じ、日本の味がしない」あたりが、代表的論拠だ。歴史的経緯をみると、改正の最大の狙いはそこにあると受け取れる。
しかし、日本独自とは何を意味するのだろうか。愛国心や伝統の尊重なら、どの国にも通じる普遍的な価値である。日本独自という点では、森首相らが再評価する教育勅語に行き着くが、象徴天皇制とは相いれない理念であり、時代錯誤というほかはない。
最終報告には「国家至上主義的考え方や全体主義的なものになってはならない」との記述がある。あらぬ方向に持っていかないようクギを刺したともみられるが、取って付けた感もあり、趣旨がよく伝わらない。真意を明確に書くべきだろう。
基本法を聖域とすることはない。しかし議論するのであれば、広く深く徹底的に行わなければならない。制定時のように碩学(せきがく)の知恵を結集する必要がある。今回のような拙速は好ましくない。町村信孝文相は「文部省であらあらの法案を作り、中央教育審議会に諮問する」というが、とてもそんな段階ではない。
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