1999/05/01 毎日新聞朝刊
[新教育の森]キーワードの軌跡 今週のテーマは・・・「高校」
◇多様化で個性伸ばす−−生徒の自立を援助
◇豊富な選択科目−−足りない教員や設備
戦後の教育改革で大きく変わったものの一つに高等学校がある。前身である戦前の旧制中学は限られたエリートのための存在だった。戦後の新制高校は一挙に大衆化した。高校進学率は今、約97%に達している。それとともに著しいのが多様化だ。1994年にスタートした「新しいタイプの高校」はその象徴。ほとんどの生徒が進学するのだから多様化は必然だ。新しい時代を生きる多様な個性を持つ生徒をいかに磨き、育てるかが課題となる21世紀の高校は、そうしたタイプのものを軸に展開していくだろう。【瀬戸純一】
JR羽越本線の余目駅(山形県余目町)を出て秋田方向に少し走ると、秀麗な鳥海山を背景に「山形県立庄内総合高校」と壁に大きく書かれた校舎が車窓から見える。建物は古いが、文字は新しい。1927年開校という沿革を持つ県立余目高校を、山形県では初めての総合学科に改編したのは95年。県立庄内総合高校と校名を変えたのは97年になってからだった。
校舎は一部増築、改造したものの基本的には従来のものをそのまま使っている。その点では安上がりの改革だ。年季の入った校舎だが、教室も廊下も掃除が行き届いている。
2年生の自由選択科目「ピアノ」の授業。担当は音楽の先生で、男子3人を含む15人が受講している。この日は課題曲を一人ずつ演奏した。バンドが趣味、将来幼児教育の仕事をしたいという生徒が多い。腕はたどたどしかったが、皆楽しそうだった。
同じ時間、別の教室では、「郷土文学」を選択した11人が、井上ひさしさんの作品「あくる朝の蝉」に取り組んでいた。方言が身近であることが、生徒の興味をそそる。故藤沢周平さんの作品の舞台もなじみの地だ。そのあたりから文学の世界に親しむのも一つの方法だろう。
総合学科の特色は、選択科目をたくさん用意していることだ。庄内では必修11科目の他(ほか)に文科、科学、スポーツ、福祉、地域振興の5系列の総合選択科目、趣味・関心に合わせた自由選択科目を計91科目設定。教師だけではカバーできない科目もあり、基礎看護、中国語などは外部講師を招いている。生徒は自分の進路に合わせて科目を選択し、それぞれの時間割を作る。所属クラスはあるが、選択科目に合わせて教室を移動するから級友とずっと一緒にいることはない。主体性、自律性が求められる。
総合学科に特有の履修科目が、進路への自覚を深めることを目的とする「産業社会と人間」である。庄内では積極的に校外に出て企業や福祉施設を訪問。その体験をリポートにまとめ発表する。1年生の最後には全員が自分の将来の夢を「私のライフプラン」として描く。3年生は「課題研究」に取り組む。高校でも必修となる新学習指導要領の目玉、「総合的な学習の時間」を先取りするような内容だ。
庄内総合高校の誕生は、決して21世紀を見据えた前向きな意図からだけではなかった。むしろ、少子化や偏差値による序列化の波にもまれて「存亡の危機」に陥った高校の窮余の一策とでもいうべき性格の方が大きかったと言えるかもしれない。いつのころからか問題行動の生徒が目立ち、中退も多い学校になっていた。募集定員をはるかに下回る志願者しかいなかった事実がその実態を示している。
それが、総合学科に改編した翌96年入学の2期生の時から定員を上回るようになった。今春の入試の競争倍率は1・33倍。問題行動や中退は大幅に減り、「活気ある学校として地域の評価もプラス方向に変わりつつある」(日教組教研集会での同校教諭のリポート)という。
もちろん、まだ課題も多い。選択科目が豊富にあることが総合学科の最大の売りだが、科目によっては定員をオーバーし、希望科目を選択できないケースもある。教員数も普通科時代よりは若干増えたものの、生徒の希望をかなえるほどのレベルには遠い。施設設備も十分とは言えない。
生徒自身の問題もある。総合学科は生徒の選択、判断に任せられている部分が多いが、近ごろの子供たちは、自立、自律と急に言われても慣れていない。友達と触れる機会の減ることがつらいと感じる生徒も多い。
地主友昭校長は「創設期ということもあって、皆情熱を持って取り組み、成果を上げてきたと思う」と前置きし、次のように語る。
「高校は、選ばれた者が教育を受ける空間ではなくなり、多様な興味・関心を持つ、たくさんの子供たちが入ってくるようになった。あふれかえる物や情報に囲まれて育った今の子供たちが一番飢えているのは、人間関係。教師は自分で決めろと放っておくのではなく、自立できるように援助し、指導していくことが求められる」
「総合学科は、閉そく状況に風穴を開ける存在だ。デメリットを修正しつつ子供の個性を伸ばし、創造性を身に着けていく教育を進めていきたい」
* * * *
総合学科は14期中央教育審議会答申(91年)に基づき、普通科、専門学科(農業、工業、商業など)に次ぐ第3の学科として94年度にスタートした。
答申は高校教育の現状について「一番の問題点は、その画一性にある。高校への進学率が急上昇したにもかかわらず、高校側が自らその現実の変化に十分に対応するだけの変容を遂げていない」と分析した。
そのうえで量的拡大から質的充実への転換、偏差値偏重から個性尊重・人間性重視への教育が求められると指摘。学科制度を再編成して総合的な新学科を創設するなど、生徒の実態や社会の変化に柔軟に対応する「新しいタイプの高校」の設置を提言した。教育内容・方法についても、学年制を超えた単位制の活用や、他校での履修も可能にするなどの高校間の連携の推進、転入・編入学の柔軟化などを求めた。
これらの提言は相当程度生かされたと言っていい。94年度に7校だった総合学科の高校は、今年度は124校(46都道府県1市)に達している。来年度以降に向けて準備中のところも22校。地域差はあるが、「通学範囲内に1校」(文部省の教育改革プログラムの目標)が実現するところも出てきそうだ。この他、単位制高校や学校間連携なども増えている。
◇記者ノート−−今こそ3原則の理念を
東京オリンピックの年に宮城県立高校に入学した。その年の高校進学率は70%を切っていた。
新制高校の3原則は、男女共学、総合制、小学区制である。占領軍の強い求めによるもので、文部省の新制高校実施の手引には、学校の趣旨や教育内容に加えて、この3原則が盛り込まれている。
ところが入学した高校は、旧制中学のような雰囲気が色濃く残る大学区制の普通科男子校。見事に3原則から外れていた。地方教育行政を担当したのは米軍下の各県軍政部だったが、西日本では徹底的に3原則の実施を求めたのに対し、東日本では比較的緩やかという地域差があったようだ。公立高校の男女別学は今も群馬、宮城など北関東や東北地方に目立つ。共学にしなかった理由には財政難を挙げる所が多い。
3原則の共学はともかく、総合制、小学区制はほとんど根づかなかった。教育行政は量的な拡充整備に追われ、偏差値が違うだけの画一的な高校を量産した。進学率が上がり、高校生が多様化したにもかかわらず、「その現実の変化に十分に対応するだけの変容を遂げていない」罪は大きいように思う。
少子化が進み、量的には進学希望者を収容できる時代にはなったが、高校受験のプレッシャーは依然大きい。2人の子供の受験でそのことを痛感した。
一流大学、会社に入ることが幸せな人生につながるという価値観が世を覆う中、ほとんどの級友が参加し、かつ高校が一つの物差しによって序列化されている状況の下での受験、そして高校生活は我々の時代より、はるかに息苦しいように思う。
21世紀は個々人の多様な個性を生かす社会を築くしかない。それは高校においても求められることだ。高校改革、受験競争の緩和が必要だが、その際、改めて光を浴びてしかるべきなのが高校3原則ではないか。3原則の理念を生かす時代環境がようやく整ってきたとみることもできる。
総合学科は3原則の一つ「総合制」の現代的形態ともいえる。改革は、量的にはまだ微々たるものだが、質的な意義は大きい。
〇…メモ…〇
新制高校は1948(昭和23)年度にスタートした。戦後の高校の性格の変化をもっともよく表しているのは進学率だ。発足直後、50年の高校進学率は42.5%。昭和20年代の進学率は、50%を切っていた。現在の大学・短大進学率と、ほぼ同水準と言っていい。ちなみに旧制中学への進学率は40年当時で18%に過ぎない。限られた少数者のための学校だった。
それが、経済の高度成長と軌を一にして急速に伸びていく。61年に60%台に乗ると、ほぼ5年で10ポイントのペースで増え、74年にはついに90%を超えた。その後も小刻みに増え続け、98年には、96.8%になった。
ほぼ希望者全員入学といえる数値であり、事実上、義務教育化したといわれるゆえんなのだが、もちろん制度上は義務教育ではない。戦後の高校の歩みを考えるうえで、進学率とともにもう一つのキーワードとなるのが「適格者主義」であろう。高校生たる者は「高校教育を受けるに足る能力・適性等の持ち主でなければならない」という原則である。
例えば、文部省の63年の通知は「高校の教育課程を履修できる見込みのない者をも入学させることは適当ではない」と「適格者主義」を明記している。入試で適格者でないと判定すれば、たとえ定員に満たなくても落とすということになる。
しかし「適格者主義」という言い方は、最近は影を潜めている。進学率が100%近くになった実態を前提に多様な生徒をいかに受け入れるかという視点から、高校という器の方を変えていこうという動きが顕著になってきたためだ。総合学科など新しいタイプの高校の設立もその流れの中での取り組みだが、もう一点特徴的なのが入試制度の改革である。
適格者主義全盛のころは、入試は学力検査と調査書(内申書)で行うことが学校教育法施行規則(文部省令)で義務付けられていた。
その後、推薦入学の導入などで、どちらか一方はなくてもよいことになり、さらに来年度からはどちらも課さないで入試をすることが可能になった。高校の性格にもかかわる大きな変化だ。
※ この記事は、著者と発行元の許諾を得て転載したものです。著者と発行元に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど、著者と発行元の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。
|