1999年10月号 文藝春秋
ニューリベラル改憲論 自衛隊を軍隊と認めよ
小沢一郎自由党党首の「日本国憲法改正試案」は、戦後の九条論争を引きずったまま、明らかに現実から逃げています
鳩山由紀夫(はとやま ゆきお)(民主党幹事長代理)
現役の政治家が憲法に対する自分の考え方を述べるのは、自らの政治姿勢を明確にすることであり非常に大事なことです。その意味で小沢一郎自由党党首が「日本国憲法改正試案」を文藝春秋九月号に発表したことは大いに評価しています。
ただ、内容に関してそのまま受け入れることはできません。いまの政界は自民党、自由党それに加えて公明党が手を結び、いわゆる「自自公」という枠組みをもって総保守化の傾向にあります。その一角を占める小沢党首の試案は、あくまでも総保守の与党的な立場を代弁した憲法改正試論にすぎないとしか感じられません。
こういった総保守化の傾向に対して私は、ニューリべラルという新しい理念を二十一世紀の日本に位置づけていきたいと考えています。これまで日本でリベラルというと、頑固な護憲思想と嫌米意識を持ち、極めて平等主義的な発想から弱者の保護を徹底的にやるという大きな政府志向の政治姿勢を指して来ました。
しかし、いまの時代にこのような考え方はとても通用しません。ニューリベラルは、リベラルの名は受け継いでいますが、方向性はむしろ逆と言ってもいい。ニューリベラルは、憲法を「不磨の大典」などとは考えていません。憲法改正は大いに論議すべきだし、基本的に親米意識を持ち、市場経済にもっと自由と自律性を持たせ、政府の役割はなるべく小さくしていくべきだと考えています。
もちろん、経済の自由化によって弱肉強食が過剰に進めば、社会不安が広がります。そこで社会政策をヨーロッパ諸国のように重視していきます。しかし、私がニューリべラルと敢えて言うのは、弱者の保護といったリベラルの金科玉条に縛られることなく、市場経済の有効性を認め、むしろ強い経済をつくるための方策を積極的に打ち出していくことが必要だと考えるからです。
先程、小沢党首の発想は総保守だと言いましたが、さらに言うと国家主義的な試案だとも言える。なぜ総保守か。なぜ国家主義的か。それについて小沢党首の試案の各項目を具体的に検討しながら説明していきたいと思います。
日本は陸海空軍を保持する
憲法論議といえば、九条をめぐる議論と決まっています。この九条をどのように改正するかというのが、憲法改正の最大の問題でしょう。小沢党首は憲法九条を書き換え、次のような試案を提示しています。
[自衛権]
一「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」
二「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」
三「前二項の規定は、第三国の武力攻撃に対する日本国の自衛権の行使とそのための戦力の保持を妨げるものではない。」(編集部注・小沢試案)
一見画期的に見えるこの条文も、戦後の九条論争を引きずったまま、明らかに現実から逃げています。小沢党首の論法は、まず最初に自衛隊は軍隊ではないと規定しておきながら、そのあとに「自衛権の行使とそのための戦力の保持を妨げるものではない」と続け、結果的に自衛隊を認めようという体裁を取っています。つまり軍隊は存在しないけれども、自衛のための戦力は持つと巧妙に言い逃れているのです。
しかし、自衛隊は世界中の誰が見ても軍隊以外の何ものでもない。今あえて自衛隊が軍隊ではないと否定することにどれほどの意味があるのでしょうか。むしろいまある自衛隊は軍隊であるとはっきり認めたほうがいいと私は考えます。
九条はまず「陸海空軍その他の戦力は保持する」と一番目の項目として明記すべきです。その後に、たとえば「その軍隊を使って侵略戦争は決して行いません」とか、「徴兵制度はとらない」と書いたほうが、ごまかしがなく、ずっとクリアになります。自衛隊は違憲か合憲か、あるいは軍隊か軍隊ではないかという戦後長らく続けられた論議は本当にくだらない。せっかく九条の改正をするのなら、こういった論議には終止符を打つべきではないでしょうか。小沢党首がなぜそこまで踏み込まなかったのか、私には不思議でなりません。
もっともこの議論に踏み込むためには一つの条件がクリアされなければなりません。それは過去の歴史に目をつぶることなく戦争の総括を内外に示すことです。侵略戦争の事実に目を閉じ、侵略戦争は決して行いませんと言っても、アジアの国々には理解されることはないでしょう。
日本の防衛に関して私は「常駐なき安保」と言いました。未来永劫自国の領土の中に他国の軍隊がいることを当たり前と思う国は、本来ないはずです。アメリカ大統領補佐官だったブレジンスキーに「保護領」と蔑まれるような日本であってはいけない。どんなに時間をかけてもいいから、自分たちの国は自分たちが基本的に守るという環境をつくっていくべきだと思います。
九条との関連でよく話題にのぼるのが国際平和活動です。小沢党首の試案でも特に強調されています。小沢氏も指摘する通り、憲法の前文には「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたい」とあり、日本国憲法の大原則である、平和主義、基本的人権の尊重、国民主権と並んで、国際協調主義が謳われています。
この理念を受けて小沢党首は、「日本の平和活動は世界の国々が加盟し、唯一の平和機構である国連を中心にやっていくしかない」と述べたあと、九条に続いて新たに次のような一条を創設することを提案しています。
アメリカは国益しか見ていない
[国際平和]
「日本国民は、平和に対する脅威、破壊及び侵略行為から、国際の平和と安全の維持、回復のため国際社会の平和活動に率先して参加し、兵力の提供をふくむあらゆる手段を通じ、世界平和のため積極的に貢献しなければならない。」(編集部注・小沢試案)
要するに、国連を中心とした平和活動には「兵力の提供をふくむあらゆる手段」で何でも協力します、という発想です。しかし、これは現実の国連の姿を無視した、非常に理想的な話ではないでしょうか。忘れてはならないことは、実際の国連は各国の国益が相剋する場であって、とても世界平和の理想が貫徹するような場所ではないという現実です。
小沢党首も触れていますが、湾岸戦争のとき、アメリカが軍隊を派遺したのは、メジャーの石油資本の利権を守りたいがためだという側面があった。最近のコソボ紛争でもアメリカが中心になってNATO軍を派遣して是が非でも武力行使して押さえ込んだのも、何も虐殺をやめさせるためだけではなく、国益に直結するヨーロッパの治安を守るためだった。
逆に、国益と無関係な地域には、国内世論の反対もあってアメリカでさえ犠牲を避けようとするのが最近の傾向です。ソマリアのPKOが失敗し、世論の反対が高まると、途中でアメリカ軍は引き上げていきました。同じアフリカのルワンダで大量虐殺が行われたときも、アメリカは一切、軍を派遣しようとはしませんでした。クリントン大統領は、ある演説の中で「もし国連の決定が自分たちの国益に応えるならば、国連に従うけれども、国連の決定が自分たちの国益に従わないときには必ずしも従わない」と明言しています。
各国の思惑や事情が衝突し合って、多国籍軍が実効をあげられないということは、小沢党首も認めていて、国連の常備軍構想を提案しています。しかし、世界最強国家であるアメリカがこのような態度を取っている現実のなかで、常備軍構想はしょせん絵空事に過ぎないのは明らかです。
要するにアメリカは自分の国益しか見ていないということでしょう。ある意味で当然のことでしょう。この現実を日本は冷静に受けとめるべきです。世界で最も力を持っているアメリカの意思が、国連の意思を左右する場合が多くあります。国連の平和活動という善意の衣をまとっていても、その後ろにはアメリカの国益の確保という本音が見え隠れしている。国連中心主義を標榜する日本が、ただアメリカの国益のために戦っているという構図になるかもしれない。国連といえば正義と考えるような国連万能主義はきわめて危険だと思います。小沢党首はこの点に関して意外に現実的ではないという気がします。
日本の国益や世界全体の利益になるのかどうかを、しっかり判断しないといけない。憲法でとにかく何でも参加しましょうと決めてしまうのは危険です。国連が軍隊の派遣を議決しても、アメリカは拒否権は行使しないが参加しませんという難しい状況も出てくる可能性もあるのです。そのとき小沢党首はどう対処するつもりなのでしょうか。
将来的に「理想的な国連軍」ができるかどうかわかりませんが、もし実現したときには積極的に参加すべきだと私も考えています。しかしたとえば、現在朝鮮半島に駐留している軍隊は国連軍と一応呼ばれていますが、実質的にアメリカ軍と言っていい。これも国連常備軍と言うのであれば、とうてい参加はできません。ですから、この点については国運軍とはどういう形態をとるのか、もっとクリアにしないといけないと思います。
小沢党首の試案で気になるのは、アメリカに対する信頼があまりに無邪気すぎるという点です。湾岸戦争がアメリカの利権確保のためもあったことを指摘したあとでこう言っています。
「しかしアメリカはけしからんと短絡的に批判することに、何の意味があるのか。
これはグローバリゼイションの問題でもある。この流れに反感をもつ人達の中には、『グローバリゼイションとはアングロサクソン原理の国際化である』と言って批判する人がいる。しかし、そんなこと言っても、どうしようもない。世界はそれに基づいて動いているのだから、きちんと対応して克服するしかないのである。アメリカと手を切ることは、日本が鎖国するということに等しい。それでいい、それこそが真の幸せだと確信できるのであれば、それも一つの生き方であり哲学だと私は思う。しかし、物質的豊かさは人一倍享受したいと願っているくせに、口先でだけそんな事を言うのは、日本的アマッタレ∴ネ外の何物でもない。」
たしかに、いまの世界はアングロサクソン原理に基づいて動いているかもしれません。だからと言って、それを百パーセント安易に認めていいのでしょうか。これからアジア、アフリカの国々が二十一世紀に向けて、人口も増え、力もつけて来るだろうと予想されるなかで、アングロサクソン原理で世界を統治できるとは思わないほうがいい。むしろアジアの時代をつくっていくために日本が重要な役割を果たして、アングロサクソンに負けずに頑張るべきです。安易に肯定して、「どうしようもない」と言ってしまっては余りに情けない。どちらが甘ったれているのか、という気がします。
小沢党首の論理は非常に極端に行き過ぎる。いまどきアメリカと手を切ったほうがいいと思うのは、ごく一部の日本人だけでしょう。ニューリベラルも基本的には親米です。しかし、国としての自立性はしっかりと担保しなくてはならないと考えています。アメリカからも自立をして、言いたいことは言わせてもらう。たとえば、思いやり予算や地位協定に関しては「平成の条約改正」としてもっと日本側から要求しておくべきです。
先日、日本の統幕議長がハワイに行ってアメリカ軍の将軍と会ったときに、将来的にアジアにおいて大きな戦争はないとアメリカ軍は見ているから、これからは共同演習の際に食糧支援について勉強しようと言われたそうです。ガイドライン法案を成立させて喜ばれると思って行ったのに、そう言われて統幕議長は唖然として返事もできなかったそうです。
アメリカも本音では、局地的な戦闘はあっても、大きな戦争はアジアにはないだろうと見ているのでしょう。この辺りに日米間に認識のギャップが相当ある。アメリカは、日本が思っている以上に世界をしっかり見ながら、しかし一方で非常にしたたかで、日本に対して思いやり予算のような話をどんどん押しつけている。裏も読まないままアメリカに唯々諾々と従う姿勢から、われわれは解放されなくてはなりません。
小沢党首は憲法の前文にある「国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う」という部分を引いて、「名誉ある地位を占めるために、我々はあらゆる努力をする必要がある。『お金だけ出します』は、もはや通用しない」と言っています。これは恐らく湾岸戦争のときに、日本がお金だけをだして人的派遣をせず批判されたことが念頭にあるのでしょう。この部分を小沢党首のアメリカに対する信頼と重ね合わせて考えると、論調の基底にアメリカの言うことをよく聞いて日本も大人になったなと言われることを、名誉ある地位を占めることだという幼稚な発想があるように思えてきます。アメリカに魂まで抜かれた小沢党首の論理は日本の戦後を引きずったままです。
そもそも私は、前文にある「名誉ある地位を占めたいと思う」などというものが、国としての目的であってはならないと思っています。
二年半あまり前、旧民主党の結成大会で同志に、西郷南洲翁の遺訓を引用して、「命もいらず名もいらず」という覚悟で世直ししようと訴えました。名誉などいらないという人間は本当に厄介なのですが、そういう厄介者でなければ明治維新を起こせなかったのではないでしょうか。何か事を起こすときに、人間としても国としても、自分は名誉ある人間になりたいからとか、名誉ある国になりたいからと思って行動するべきではないと思います。その結果として相手に尊敬されるということは極めて重要だとは思いますが、それを目的と考えてはいけない。たとえば、最近の日本政府内には国連の安全保障理事会の常任理事国になって名誉を得るために、アメリカには逆らえないという情けない議論も聞こえてきます。
一番大事なことは、国としての自立性を確立し、尊厳ある国として日本も自分の考えを訴えることによって諸外国から認められることではないでしょうか。こう言うと護憲の人たちには怒られるかもしれませんが、日本国憲法のこの前文は目的をはき違えていると思います。人に褒められたいというこの発想がアメリカ追従主義にも繋がっていることが、試案の大きな問題点の一つだという気がします。
個人が先か国家が先か
次に[公共の福祉]について検討してみたいと思います。試案では、憲法の十二条、十三条を次のように改正しています。
[公共の福祉]
「この憲法の保障する基本的人権はすべて公共の福祉及び公共の秩序に遵う。公共の福祉及び秩序に関する事項については法律でこれを定める。」(編集部注・小沢試案)
[幸福追求権]
「この憲法が保障する生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については不断の努力によって、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならない。」(編集部注・小沢試案)
たしかに公共性はとても大事です。最近、世の中にはびこっている、自分が幸せならいいというミーイズムに陥ることなく、国民一人一人が公共心を育むことは非常に大事なことです。ですから、小沢党首がこの現代の病理に対して何らかのメッセージを投げかけたことは意味があると高く評価します。
立ち退きの遅れで東京の環状八号線や成田空港は、何十年かかっても完成していません。これは、たいへんな国益の損失です。また震災や戦争といった緊急事態のときに、個人の主張ばかり尊重していたら、救助活動をはじめ何も動かなくなってしまう危険性もある。公共性の高い問題に関しては、やはり個人の権利も譲らなくてはいけない場面が出てきて当然です。特に緊急事態に関しては、阪神・淡路大震災や最近の朝鮮半島に関する不穏な動きにきちんと対処できなかったわけですから、小沢党首の提案通り、内閣に緊急事態を宣言する権限を付与したほうがいいでしょう。
しかし、気になるのは、「基本的人権はすべて公共の福祉及び公共の秩序に遵う」として、公共性が基本的人権に優先すると明確に規定して、いることです。「公共の福祉に関する事項は法律で定める」ということは、国家の権限で公共の福祉を盾に何でも行ってしまう懸念も出てくる。この部分には国家の管理をより優先的に強くしたいという為政者的、国家主義的な発想が垣間見えます。場合によっては個人の自由が制限されてもいいとは思いますが、このように憲法に書いてしまうと、常に個人より国家が上位に来る発想になってしまう危険があります。
また日本国憲法の現在の十三条の最初には「すべて国民は、個人として尊重される」という部分が存在するのですが、小沢試案にはこの一文がなぜかすっぽり抜けています。ここに小沢党首の何らかの意図があるのかどうか、小沢党首に尋ねてみたいという気がします。
私はやはり基本的人権は保障されなければならない第一番目のものであり、公共の福祉はそれに続くものだと考えています。この点が総保守対ニューリベラルの端的な違いなのでしょう。
「環境権」と「知る権利」については「導入されて然るべき」だと二行しか書かれていないですが、この二つは非常に大事な話です。生活者からすれば、現実的に生活に最も密着した一番興味のある話のはずです。それが極めてあっさりと二行で片づけられている。個人より国家が大事というのが小沢氏の考え方なのでしょうか。この部分をもっと充実させることがニューリベラルの役割になるでしょう。
終身議員は腐敗を醸成する
国会に関して、試案は大胆な参議院改革を提案しています。
「参議院議員は衆議院の指名により天皇が任命する。その任期は終身とする。」(編集部注・小沢試案)
(注)天皇の国事行為に参議院議員の任命を加える。
小沢党首は、「イギリスのような『権力なき貴族院』をイメージ」し、参議院議員を「選挙によらない名誉職的なものにして、立派な業績や顕著な実績のある方に、大所高所から御審議願うという制度に変えた方が良い」と述べています。そして一つの可能性として「衆議院を二十五年間つとめた人には勲章を与えて、参議院の終身議員になってもらう」という提案をしています。
小沢党首は改革の理由として次の二点を挙げています。一つは、衆参両院がほぼ同等の権限を持ち、共に選挙で選ばれるため参議院も政党化し、本来の二院制度の目指している衆議院との機能分担ができなくなっていること。二つ目は、衆議院で過半数を獲得しても参議院で過半数割れしていれば、強いリーダーシップが発揮できず、総選挙で示された国民の総意が現実政治になかなか反映しないこと。
たしかに、いまの国会でも参議院で野党が多数化する衆参のねじれ現象がある。政権与党としては国会運営はかなりやりにくいと思います。しかし、ねじれ現象も国民の選択の結果です。すべての法案が簡単に成立することがないように、チェック機能を参議院に与えているのだとすれば、それは参議院が一定の役割を果たしているということに他なりません。そういうねじれをできるだけ早く解消したいというならば、せめて参議院の任期の短縮に止めるべきです。参議院の任期を六年から四年にして、二年で半数を替えていくことにすれば、いま六年から三年かかるものが四年か二年でねじれが解消できます。
法案審議の能率性を上げたいというのは、政権与党の驕りです。衆議院で圧倒的多数をとってスムーズに法案が通るのに、なぜ参議院でもたもたしているんだという不満が溜まっているのでしょう。自自だけでもいいのに、参議院では公明党も入れないと多数にならないから、しかたなく自自公をやるけれども、本当は自自だけのほうが良かったという小沢党首の発想が図らずも試案の中に現れているのではないでしょうか。
こういういい加減な参議院改革は許されません。勲章を与えた人間を参議院の終身議員にするという発想は、特権階級を復活させ、腐敗構造をつくる恰好の契機となるでしょう。「一代限りの栄典にすれば、貴族制度の弊害は生じない」と安易に考えているようですが、二世議員が増え、現代のように寿命の長い世の中で終身の特権を与えることは、その一族に利権を集める可能性があります。特権階級になって喜ぶような人たちが議会を制するようになる。これは悪夢としか言いようがない。国民の意思を無視した、選挙なしという制度ほど怖いものはありません。
民主党の菅直人代表が、ねじれをなくすために一院制を支持すると言っていますが、私はその考えには与しません。八月の国会終盤でも、参議院はそれなりの役割を果たしたという気がします。たとえば盗聴法案や住民基本台帳法改正案の参議院における与野党の戦いぶりによって、ようやく問題点が国民にも少しずつ見えてきたのではないでしょうか。牛歩戦術などという方法は別として、それなりにチェック機能は果たしたと自負しています。
むしろ、国会制度に問題があるとすれば、似たような選挙制度で両院の議員が選ばれていることです。たとえば、衆議院は小選挙区だけ、参議院は比例代表だけという制度に改革すれば、衆院と参院がカーボンコピーのように同じような性質にはならないでしょう。ただし、私の考えでは、参議院はなるべく政党色を出さないほうがいいという気がします。したがって参議院はアメリカの上院のように各県二人あるいは四人選出するという仕組みにしたほうがいい。人口によって選挙区が決められる衆議院とは異なり、参議院は地域の声をしっかりと反映させるような制度がいいのではないかと考えています。
まず首相公選制で憲法改正を
天皇に関して、小沢氏は国家元首であることをことさらに強調しているように思えてなりません。現行の日本国憲法第一条は天皇について次のように定めています。
「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」
この条文を受けて、小沢党首は次のように続けています。
「日本国憲法は立憲君主制の理念に基づく憲法である。天皇が一番最初に規定されていることからも、それは明らかではないか。
元東大教授の宮澤俊義氏などが『国家元首は内閣総理大臣である』と主張しているのも間違いである。宮澤説は大日本帝国憲法との比較において日本国憲法は共和制であると位置づけているのであるが、例えば第六条に書かれているように、主権者たる国民を代表し、若しくは国民の名に於いて内閣総理大臣及び最高裁判所長官を任命するのは天皇である。又、外国との関係でも天皇は元首として行動し、外国からもそのようにあつかわれている。このことからも国家元首が天皇であることは疑うべくもない。」
私は天皇家を尊敬してますし、子供の頃学習院で育っていますから、皇室には大変親しみを感じています。しかし戦後、天皇は象徴天皇という存在になっておられる。いまなぜ象徴天皇を国家元首とあえて言い切る必要があるのか。たしかに各国で天皇は元首級の扱いを受けるかもしれませんが、われわれ国民が元首という言葉を使っているわけではありません。小沢党首は、国家元首という言葉を振りかざしていますが、そのような不毛な議論はやめて、象徴天皇としての天皇の存在を国民みんなで認めて尊敬していけばいいのではないでしょうか。
小沢党首は「内閣」に関する改正試案のなかで、象徴天皇が国家元首であるがゆえに、首相公選制は採用できないと次のように主張しています。
「内閣制度については、首相公選論の大きな間違いを最後に指摘しておく。首相公選制は天皇制の廃止を意味するということである。天皇制を維持しながら公選論を唱えることは論理として成り立たない。
天皇の国事行為には、国務大臣などの認証がある。ところが衆議院議長は認証官ではないし、天皇が国会議員を認証することもない。何故ならば国会議員は直接主権者に選ばれているからである。主権者の意思は最終であると同時に、絶対である。だからこそ天皇が国民の名のもとに認証する必要がないのである。首相公選ということは主権者たる国民が、国の最高責任者を直接選ぶことだから、選出された首相というのはまさに国家元首、いわゆる大統領そのものであり、その状態の中で君主としての天皇の位置付けは不可能である。したがって、首相公選制は、天皇制の廃止を前提とする以外に、これを採用することはできない。」
これから政治が尊敬を受けていくためにも、私は国のリーダーを国民が直接投票して決める首相公選制こそ導入すべきだと考えています。なぜ首相公選制がいいかというと、いまのように国会議員が総理大臣を選ぶという間接選挙的な制度では、たとえ小渕総理が失態を演じても、国民は自分が決めた総理ではないと突き放した気持ちになりがちです。投票率を見てもわかるとおり、いま日本の国民には政治に対する責任感が非常に乏しい。しかし、国民一人ひとりが選んだ総理大臣であれば、その総理に対して選んだ人の責任感が生まれる。政治に対する尊敬と責任を復活させるための手段としても、首相公選制が非常に望ましいのです。
私に言わせれば、象徴天皇と首相公選制はまったく矛盾しないで両立できる話です。たとえば、イスラエルでは元首である大統領と公選された首相が両立できています。あくまでも象徴天皇とすれば、けっして矛盾せず、両立できる環境が現にあるのです。
首相公選制の導入には、その前提として憲法改正が必要です。私は常々、首相公選制を憲法改正の第一弾としてやればいいと考えてきました。首相公選制を憲法改正の第一弾にすれば、憲法改正はけっして悪いものではないと国民に知らしめることができます。国民が政治により近づくための憲法改正の例として、首相公選制を主張したいのです。
小沢試案は国民不在である
最後は憲法改正条項です。憲法九十六条の「憲法改正条項」は次のように定められています。
「この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行われる投票において、その過半数の賛成を必要とする。」
この条文を小沢党首は「『この憲法は改正できません』と書いてあるに等しい」と評してから、次のように述べています。
「総議員の三分の二、この壁が越えられない。任期六年の参議院があるために、衆議院で圧倒的勝利をおさめても、三分の二には届かない。総議員の二分の一の賛成で憲法改正が可能になるように改正することはできないだろうか。」
またその後でこう言っています。
「例えば、国民投票を国会よりも先に行うことはできないだろうか。憲法は国民のためにある。時代にあわなくなった憲法を変えるには、主権者である国民の意思をまずは尊重すべきである。
京都学派の憲法論に戻るという選択肢もある。即ち最初に述べたように、一旦日本憲法の無効を国会で宣言し、その上で新しい憲法を作りなおして、可否を問うのである。
日本人は小心だから、なかなか思い切って現実を改革する決断ができない。それなのに、テポドンでも落ちてこようものなら、ヒステリーを起こして極端にまで突っ走るおそれがある。」
改正が難しいから簡単にしろという。これは無茶苦茶な話です。憲法改正の議論がいままであまりに自由にされてなかったのはおかしいと私も思います。時代の流れの中で改正の議論を大いにやって、数年間に一度くらいの割り合いで改正されたほうが自然だと考えるくらいです。しかし、憲法は普通の法律とは違います。たしかに総議員の三分の二の獲得は政党にとって難しい課題ですが、過半数でいいとなると単独政権を握った政党が常に憲法改正をしやすくなる。それでは最高法規である憲法が不安定になるリスクを伴う。過半数でいいというのはかなり乱暴な話で、どうも自自連立で十分ではないか、自自公連立は必要ないと言っているかの如くに聞こえます。ここにも小沢党首の試案が国民不在であり、与党的な立場から出たものであることが露呈している気がします。
ニューリベラルの立場から見た憲法改正は、小沢試案とはまったく違った姿になるでしょう。国家主義ではなく国民主権の立場から、いまの憲法でいいのかどうかという議論をしていきたいと考えています。それをやらないと、国を第一とする観点からの憲法改正の議論に追い詰められていきかねない危機感もある。今回は小沢党首の試案に批判を加えさせていただきましたが、批判することは何事も簡単だとも言えます。その批判に応えるべく将来、私なりの改正試案を発表したいと考えています。
◇鳩山 由紀夫(はとやま ゆきお)
1947年生まれ。
東京大学工学部卒業。米スタンフォード大大学院修了。
内閣官房副長官、民主党代表、衆議院議員。
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