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2001/06/02 産経新聞東京朝刊
【正論】「首相公選」というデマゴギー
西部邁(秀明大学教授・評論家)
 
◆世論無批判に是認する政治
 嘘のことをデマという。だが、「民衆的」というのがデマの原義だということを知っているものはあまりいない。それはデマゴギー(民衆煽動)という言葉の略であって、そこには、民衆煽動がおおむね「言葉の狂い」つまり誑(たぶら)かしによって行われるという意味が込められている。
 忘れてならないのは、デモクラシー(民衆政治)にはデマゴギーがつきものだという真実である。この真実を忘れるものが増えるにつれ、民に「主権」ありとの「主義」が世を覆い、それを疑うことはタブーとなった。そのとき民は、(歴史の英知を担うものとしての)国民であることをやめ、(みずからの欲望を権利とみなすものとしての)人民に変じる。そして、人民のあいだで欲望が衝突する場合には、多数派の欲望を表出するものとしての世論が主権を具体化してくれるとみなされる。
 世論を無批判に是認するのはいうまでもなくデマである。このデマがかつてない高みに達しているのであるから、新世紀冒頭の日本政治はデマゴギーに頭頂まで没したと断じてさしつかえない。どだい、「日本を変える」とだけ宣(のたま)い、その変え方については実質的に一言もないような首相に九〇%の支持率が寄せられるということそれ自体が、デマゴギーの勝利をよく物語っている。
 
◆小泉政権は大衆政治の勝利
 世論に寄り添う以外におのれの表現を持たぬものをマス(大衆)とよぶ。大衆の代理人だけが権力の座につけるという日本政治の現状はマスクラシー(大衆政治)と名づけられるべきであろう。小泉政権を特徴づけるのは純粋種のマスクラシーであり、それゆえこの政権は、ポピュリズム(人気主義)のほかに拠るべき行動原理を持たない。
 人気が主義となるということは、大衆が「人気が人気をよぶ」という集団心理にはまったということである。大衆人気に媚(こ)びるためならば、一方で、「靖国参拝」ということによって大衆の(歴史感覚の不在を恐れる)自己不安に応え、他方で、「新しい歴史教科書は歴史を歪めている」と公言する田中真紀子外相を容認することによって大衆の(歴史感覚の不在に居直る)自己満足を助長させる。また一方で、「集団的自衛」ということによって大衆の(国家意識の不在を嫌う)自己不満に寄りかかろうとし、他方で、「郵政解体と国債発行三〇兆円」を主張することによって大衆の(国家意識の不在を楽しむ)自己礼賛を延長させる。これが小泉首相における思想的矛盾を物ともせぬ、大衆人気の代弁法である。
 かくして、現内閣にたいする支持率の異常な高さは、政治にたいする大衆の直接的な支配欲の現れだということができる。そうであればこそ、そうした支配欲の代理機関でも操作機関でもあるマスメディアが小泉人気をめぐって異常に興奮しているのである。
 
◆大衆が政治を握る事態へ
 大衆による直接統治、その最も端的なやり方は国民投票である。アプレゲール(戦後派)は、議会制(間接型)民主主義を放棄して直接型のそれへと突入しようとし、この戦端を首相公選制の採用に求めている。
 現代日本の混乱の根は現代日本人におけるパブリック・マインドつまり公心の衰退にある。政治家や役人における公心の欠如とて、大衆が自分らの私的な欲望に耽溺(たんでき)していることの反映である。「公心なき公選」という実に破壊的な政治過程が始まったのだ。そうでなければ、「公選に限定しての憲法改正」などが提案されるわけもない。権利観念を肥大させ義務観念を縮小させている現憲法を公的な価値を復権させる方向で改正するという作業と同時並行するのでなければ、首相公選制は大衆人気の毒液に日本政治を溶解させる。
 ましてや、(流行人気への)「大勢」翼賛としてのこの首相公選制は、(昭和十五年の)大政翼賛と同じく、派閥解消の美名の下に、さらには政党解体への圧力の下に、進められている。派閥や政党という(経験や思想や気質を共にする人々との)媒介がなくなれば、まさに直接的に、大衆が政治を掌中にすることになる。
 大衆が公心を取り戻すことはありえない。そんなことは、歴史感覚と国家意識の破壊に精出してきたマスメディアが小泉・田中のペアを盛大に支援していることから明らかである。この自明の理を知るためにすら、マスクラシーの河床に深く沈み込み、挙げ句に腐乱状態にならねばならぬほどに、我々は本当に大衆と化してしまったのであろうか。
 
◇西部 邁(にしべ すすむ)
1939年生まれ。
東京大学経済学部卒業。
東京大学教授を経て、現在、秀明大学教授。評論家。


 
 
 
 
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