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2002/12/20 読売新聞朝刊
[論点]有事法制不備、政治の怠慢(寄稿)
田中明彦(東京大学教授)
 
 国際的な安全保障環境を天気図にたとえてみると、現在の情勢は、日本の南方海上に、超大型になりかねない台風が二つ発生している段階ということができる。どちらの台風が上陸するかはまだわからない。両方ともコースはそれてしまったり、熱帯低気圧になってしまうかもしれない。しかし、両者が複雑に絡まり合いながら、両者とも日本列島直撃となる恐れもある。
 言うまでもなく、二つの台風とはイラク問題と北朝鮮問題である。これが本当の台風ということであれば、日本全土は徐々に厳戒態勢に入っていかなければならない。果たして、安全保障面において、十分な準備ができているだろうか。
 これまでの政府や政治の対応をみていると、評価できる面と問題点との双方がある。まず、評価できる点からいえば、現在の段階でイージス艦の派遣を決定したことであり、イラクでの軍事対決が起こった場合に、周辺諸国などに難民対策の援助をすることなどの検討や準備を始めたことだ。
 もちろん、イージス艦の派遣はテロ対策特別措置法の枠組みでの派遣であるから、当面、直接的にイラク問題に結びつくものではない。そもそも、昨年のイージス艦派遣見送りの理由自体が、極めて怪しげなものであったのであるから、今回、派遣することになったのは遅きに失した面もないわけではない。
 しかし、日本が保持している警戒・管制能力の高い艦船をアラビア海に派遣することは、アフガニスタンにおける米軍やその他諸国の派遣部隊の活動への協力を強化するのであって好ましいことである。
 さらに、今週初めにワシントンで行われた日米安全保障協議委員会(「2プラス2」)は、画期的な内容を持っていた。今回の「共同発表」ほど、具体的な形で日米同盟の結束を示した文書は、これまでほとんどなかったのではないか。
 平和的解決の姿勢は示し、日朝交渉の枠組みの重要性を指摘しつつ、北朝鮮に対して、核開発の放棄、弾道ミサイルに関する活動の停止、生物兵器禁止条約の順守、化学兵器禁止条約への加入など、要求項目について具体的に列挙した。「2プラス2」をこのタイミングで行ったことは正しい。北朝鮮がこれに答えさえすれば、東アジアの国際環境は一挙に改善する。
 このように評価しうる面と比べて、評価できない面、問題点もまた多い。その第一は、イージス艦の派遣論議に見られたように、安全保障の実質にほとんど関係のない理屈で是非の議論が行われることである。
 報道によると、艦内の居住環境の良さが、派遣に反対する人たちを説得するために使われたという。居住環境は極めて大事だが、決定的な要因となるべきは、総合的能力でなければならない。安全保障について、迂回(うかい)的な理屈ばかり使うというやり方はやめた方がよい。
 第二は、政府・政界全般的な有事法制についての熱気の欠如である。「2プラス2」の共同発表を読んでみてほしい。そこには「閣僚は、北朝鮮による核兵器、化学兵器及び生物兵器という大量破壊兵器の使用があれば最も重大な結果を招くであろうことを強調した」との文言がある。北朝鮮が大量破壊兵器を使用する可能性への明々白々たる「抑止」の宣言である。
 しかし、「最も重大な結果」に言及しておきながら、日本への武力攻撃時の法制が依然として不備であるというのは、いかにも不釣り合いである。有事など誰も望む者はいないが、緊急事態の発生の可能性がかなり大きくなりつつある時に、そのための法整備をあらかじめしておかないというのは、政治の怠慢ではないか。
 台風は来ないかもしれない。だが、すでに発生しているのである。
 
◇田中 明彦(たなか あきひこ)
1954年生まれ。
東京大学教養学部卒業。米マサチューセッツ工科大学大学院修了。
東京大学助教授を経て、東京大学教授。東京大学東洋文化研究所所長。


 
 
 
 
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