2003/09/29 産経新聞東京朝刊
【一筆多論】「GHQ憲法 異議あり」 論説委員 中静敬一郎
連合国軍総司令部(GHQ)に正論を吐き、恐れられた官僚、宮内乾(みやうちいぬい)を紹介したい。彼を知ったのは、駐米大使などを歴任した故下田武三氏の回想録「サンフランシスコ講和」(外交フォーラム、一九八八年十二月号)の一節だった。
「大蔵省から内閣法制局に入った宮内という気骨のある人がいましてね。彼はことごとに司令部が書いたものを罵倒(ばとう)するんです。『そんなことを言っても日本はアメリカじゃない』と言って。それでとうとう司令部から『憲法の仕事から除外しろ』という命令が出て彼は失意のうちに若く死にました」
GHQが昭和二十一年二月十三日、日本側に交付した憲法改正草案の一体、どこに宮内は抵抗したのか。だが、宮内については憲法制定過程に詳しい駒沢大学の西修教授ですら、首をひねった。既に歴史に埋もれていた。内閣法制局史などを調べているうち、宮内の輪郭は少しずつわかってきた。
明治三十八年(一九〇五)東京生まれ。東京帝大法学部から大蔵省入りし、ロンドン駐在、四谷税務署長を経て法制局参事官。優秀さでは折り紙付き、軍部にも筋を通す「ミスター法制局」だった。
宮内は戦時中、陸軍省の部局増設要求に首を縦にふらず、激怒した佐藤賢了軍務局長に「問題ある案件を天皇に裁可させた陸軍大臣(東条英機)は腹を切れと宮内が言ったと伝えよ」とたんかを切った。この一徹さはGHQにも変わらなかった。
法制局第一部長として憲法制定に直接関与した佐藤達夫の「日本国憲法成立史」に宮内は登場する。昭和二十一年三月四日、松本烝治国務相と佐藤が米側草案に基づく日本仮案をGHQに届けたところ、GHQは即、成案にすることを求め、日本側と司令部は夜を徹して逐条作業に入った。一晩明けた五日朝、英語に堪能な宮内らが応援に駆けつけたとの記述だ。宮内は、米側と渡り合って、「だいぶ字句を修正させた」ものの、「もっと早く呼んでくれれば」と慨嘆した。
この案が、現行憲法の骨格をなす憲法改正案要綱であるが、宮内がどの部分を直したかの記述は見当たらなかった。元参院法制局長の浅野一郎氏(七七)は当時、法制局内で自由に意見を述べさせた文書「憲法改正草案についての疑義」などに宮内の主張が含まれているのではないかと考えている。
その文書は、前述の憲法改正案要綱に対し「民度の実情を遊離し理想に走りたる嫌いある」と断じ、憲法九条についても「表現過渡的に過ぐ」「国民軍の保持認めらるるや」「自衛戦争は第二項(陸海軍その他の戦力の保持はこれを許さず)で無理」と記されている。国家の主権行使を保障する軍隊を持たないことが、いかに非現実かを熟知していた宮内はおそらく、GHQと激しく論じ合ったのだろう。GHQから宮内が「有刺鉄線」と敬遠されたことが物語る。要綱の一部の表現は憲法改正案発表までに日本側が押し返した。
しかし、米側は二十二年秋、法制局参事官は強力すぎて円滑な占領政策に支障があると法制局を解体した(復活は独立後の二十七年)。既に健康を害していた宮内は憲法施行一年後の二十三年五月三日死去した。享年四十二歳だった。こうした人たちは戦後民主主義下、「頑迷固陋(がんめいころう)」と顧みられなかった。
だが、「交戦権」否認の憲法九条が主権に及ぼしている制限と拘束を見据え、GHQと切り結んだ宮内の気概と勇気、そして愛国心こそ、日本人が学ぶべきものではなかったのだろうか。
※ この記事は、著者と発行元の許諾を得て転載したものです。著者と発行元に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど、著者と発行元の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。
|