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1997/02/06 産経新聞朝刊
【教科書が教えない歴史】(220)日本国憲法(4)
 
 一九四六年(昭和二十一年)十一月三日、日本国憲法は公布されました。その日、東京の皇居前広場での公布式典には、大勢の都民が集まりました。しかし、そこに集まった人々は、公布された憲法が実質的に占領軍の手で、しかもわずか一週間で作られたものであることなど知る由(よし)もありませんでした。これから日本国憲法の成立までドラマを追ってみましょう。
 この年の二月二日から始まった連合国軍総司令部(GHQ)民政局における起草作業の基準となったのは「マッカーサーノート」といわれるマッカーサー総司令官からの指示でした。そこには(1)天皇は国家の元首の地位にあること(2)自衛戦争を含むすべての戦争を放棄すること(3)日本の封建制度を放棄すること、という三つの原則が書かれていました。
 (2)はのちの九条の原型となるものですが「自衛戦争も含む」という個所についてはさすがに非現実的だとして、民政局次長のケーディスによって、起草の途中で削除されました。当初の案は国家固有の自衛権を否定し、自衛戦争まで放棄するものだったのです。
 そもそも、占領下の憲法の制定や改正は国際法やポツダム宣言の条項にも違反するものでした。すなわち、一九〇七年に成立したハーグ陸戦(りくせん)法規は「占領軍は占領地の現行の法律を尊重されねばならない」と定め、敗戦国の国家体制を変えることを禁じています。
 さて、そうしたGHQ起草の英文草案は、一週間後の二月十日にほぼ完成し、二月十三日に外務大臣官邸で日本側に手渡されます。
 会談の冒頭、アメリカ側は日本側の国務大臣松本烝治が中心となり起草した「松本案」の拒否を通告しました。さらに、GHQ案は天皇を戦犯として起訴すべきだという他国の圧力から天皇を擁護するために作成したもので、これを受け入れれば天皇は安泰になる。もし受け入れなければ、政府の頭越しに日本国民に提示する、と述べました。
 さらに松本の回想によれば、民政局長のホイットニーはこのとき、もしこの改正案を受け入れなければ「天皇の御身柄を保障することはできない」という言葉を付け加えたといいます。もし、事実だとすれば、天皇の御身柄と引き換えにGHQ案の受け入れを迫ったわけで、一種の脅迫といえます。
 さて、日本側に草案を渡して、いったん彼らが官邸の庭に出たとき、一機のB29が大きな爆音を響かせながら上空を飛び去りました。
 その場には吉田茂首相の側近でGHQとの連絡役だった白洲(しらす)次郎=写真=がいましたが、ホイットニーは白洲に「われわれは戸外に出て原子力エネルギーの暖をとっているのだ」と語ります。この発言は米側に広島、長崎に次ぐ三発目の原爆投下を行いうる能力があることを誇示し、心理的に圧力をかけたものと言わざるをえません。(江藤淳『一九四六年憲法−その拘束』文芸春秋)
 その後の公布までの経過をみると、日本側からの修正要求は二院制の採用や「土地・天然資源の国有化の条文の削除」など限られた項目しか認められず、結局、日本国憲法はこの英文草案を下敷きにしてできあがったのです。
 当時の心境を白洲は「『今に見ていろ』という気持ちを抑え切れず。ひそかに涙す」と屈辱と怒りをあらわにしたメモを残しています。まさに日本側当局者の断腸(だんちょう)の思いを代弁するものであったと思われます。
(熊本県立第二高校教諭 H.S=自由主義史観研究会会員)


 
 
 
 
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