1993/01/01 読売新聞朝刊
[社説]戦後史の転換点に立つ
冷戦終結後、三年を経過した。世界はまだ、不確実、不安定な状況の中で、新秩序形成への過渡期にある。
冷戦に勝利し、湾岸戦争に勝ったブッシュ米大統領が再選を果たせず、クリントン新政権がスタートする。相互主義、結果重視の経済外交は、日本に対して貿易不均衡是正を厳しく迫ることになるだろう。
欧州共同体(EC)は、その足並みに若干の不安を感じさせながらも、九三年市場統合へと新しいページをめくった。他方、地続きの旧ソ連・東欧地域では、民族的、宗教的、経済的対立による紛争が多発し、既存国家内部での分裂、独立という逆の現象を生じている。
ロシアにおける守旧派の勢力伸長が懸念される。エリツィン政権の安定度に注目していかなければならない。
アジアでは、ポスト冷戦時代の安全保障の枠組み作りが遅れている。政治対話の進展が望まれる。カンボジア和平も正念場を迎える。
◆経済秩序維持に責任果たせ
このような過渡期を歩む世界史の中で、日本が果たすべき役割と選択は何か。二つの課題があると考える。
私たちが目ざす新世界秩序は、開放的な市場経済の下で、世界の繁栄が確保されることである。そのためには平和と安全が保障されなければならない。
世界的な景気後退で、各国が内向きになり、保護貿易、管理貿易の傾向が強まっている。このような時こそ、経済大国として自由貿易を守るためのコスト負担と、平和のための国連の諸活動へのより積極的な参加が重要である。
第二次大戦中から戦後にかけて、アメリカの主導で多くの国際経済機構が設立された。自由貿易を通じた世界経済の発展を目ざすガット(関税・貿易一般協定)体制は、その主要な柱の一つだ。
アメリカは旗振り役として進んで市場を開放し、多国間交渉をまとめた。その当時日本はまだ国内産業が弱く、各国からの市場開放要求に応じるだけの力がなかった。
第二次大戦の教訓は何か
アメリカは総合力ではいぜん超大国の地位にある。しかし、日米間の経済力が相対的に変化したいま、その役割を分担すべき国がどこかは、自明であろう。
ウルグアイ・ラウンド(新多角的貿易交渉)におけるわが国の態度は、そうした自覚や責任を著しく欠いている。
EC統合に呼応して北米自由貿易協定(NAFTA)が調印された。いずれの市場も巨大だ。域外との貿易や投資も拡大するという見方ができるが、反面、経済のブロック形成、地域主義に結びつかないか。懸念せざるを得ない。
一九三〇年代、各国が自分の経済圏をブロック化し、ブロック間の経済対立が世界危機につながった。政治、安全保障の面から考えても保護主義は排すべきだ、というのが第二次大戦の教訓である。
ガット体制にはそうした歴史的背景がある。何よりもガット体制の崩壊で一番打撃を受けるのは日本自身である。
その死活的重要性をよく認識して、国内の利害調整を急ぎ、自主的にコメの市場開放を政治決断すべきだ。
◆平和を守る条件が変わった
一九四五年に国連が創設されて以来、世界では百回を超す紛争が発生し、その結果約二千万人の生命が奪われた。安全保障理事会で行使された二百七十九回にのぼる拒否権のため国連は無力となり、これらの危機の多くに対応できなかった――。
以上は、ガリ国連事務総長報告の一節だが、冷戦の終結に伴って一九九〇年五月三十一日以降、拒否権は一回も行使されていないことに注目すべきだ。国連主導の新世界秩序構築への期待が高まっている。
九五年の国連創設五十周年に向けて国連改革が急浮上してきた。国連の平和機能の強化と、安全保障理事会とくに常任理事国の枠拡大を中心とする機構改革が焦点だ。常任理事国入りを目ざすわが国にとって大きな関心事である。
平和と安全保障の条件が大きく変わっている。
東西冷戦が厳しかった時代、国連の平和維持活動(PKO)は、主として中立的な北欧諸国、カナダや第三世界の国にゆだねられていた。今、先進国を含め世界各国が自国の安全や国益とは直接関係の薄い地域紛争にも要員の派遣を要請されている。
野心を持つ強国が弱小国に侵入して支配介入するというのが十九世紀までの古典的な戦争パターンであったが、現代は有力国が紛争地域の平和と人道確保のために力を提供することが国際責務とされる。
経済大国となった日本が、国際社会の舞台で役割を演じることは決して出過ぎた行動ではなく、むしろそれを怠れば世界で批判される時代になったのである。
わが国の安全保障論議は、日本さえ安全ならば、という一国平和主義的な議論に終始してきた。世界平和のために何をなすべきかという視点がなかった。PKOをめぐる論議も、「指揮権」など枝葉の問題に流れ、いま日本にとって何が一番大事なのかという肝心の議論が忘れられていた。
経済的に貢献してもなぜ世界から尊敬されないのか、をよく考えてみるべきである。多額の資金協力をしながら、極めて評価の低かった幾つかの事件を思い出してみる必要がある。
ガリ事務総長は、平和機能を強化するため、地域紛争の予防から紛争が発生した場合の平和回復まで、強制力を持つ重武装の「平和実施部隊」を事務総長の指揮下に置くことを提案している。
◆新しい憲法論議が必要な時
半年前にようやくPKO法を成立させたわが国にとって、ガリ提案は新たな“難題”と受け取るむきがあろう。国連の動きはやや性急すぎる印象もぬぐえないが、日本も安保理常任理事国を目ざす以上、国連の集団安全保障体制に責任を負わねばならないことになる。その能力と限界をどのように考えるのか。
日本国憲法と国連憲章の整合性を図る必要が生じている。憲法は、基本的には国連憲章と同じ考え方に立ち、国連中心の平和への期待を前提としている。しかし、敗戦直後、占領軍の主導下で日本の軍事的無力化を目的に作られたという制定経緯もあって、PKOなど国連の平和活動への参加は全く想定していない。
国連による国際的安全保障措置への参加について、憲法は禁止はしていないが、明示もしていない。条約及び国際法規の順守を定めた九八条や前文の精神からいえば、積極的に参加すべきだが、九条に抵触するという反対論も根強く、国連協力の具体策で常に国論が割れる。
国連は加盟国が協力して世界の平和と安全を維持する目的で設立された。平和の破壊行為に対しては、安保理事会が決定した経済的、軍事的強制措置の実行に、加盟国が最大限協力しなければならない。
経済大国ではあるが、資源小国日本は、どの国よりも多く世界平和に依存している。憲法解釈の不統一を理由に加盟国の義務を十分に果たせないということが、いつまでも許容されるはずはないだろう。
国際情勢は大きく変わった。その変化を踏まえて、憲法の安全保障関係条項の解釈の混乱を早急に正さなければならない。
読売新聞憲法問題調査会は、そうした立場から安全保障基本法を制定して自衛権とその限界を明確に示し、国連の行動を支援するための国内的措置をはっきりさせるよう提言した。そのうえで、将来的には世界平和に貢献するべく、憲法九条二項の改正が望ましいとしている。
同調査会の第一次提言を受けて、各方面から憲法改正をタブー視せず新しい憲法論議を提唱する動きが出てきた。
国際社会の一員として責任を果たしていくためには憲法はどうあるべきか。二十一世紀に向けて、世界の変動を見据えた国民的次元の新しい憲法論議が必要な時を迎えている。
◆大衆民主主義の質を高めよ
わが国は、いま、戦後史の大きな転換期に立っている。
戦後、日本が国際社会に復帰した時、米英仏ソ中の五常任理事国のヘゲモニーによる国連組織と東西冷戦を基盤とする世界秩序の枠組みが出来あがっていた。
その既存の秩序を当然視して、重大な問題は他国に任せ、国内の個別利益の配分にエネルギーの大半を費やすという「小政治」の惰性をいまだに引きずっている。
日本の政治が直面している課題は、スキャンダルへの対応にのみとどまるものではない。国の基本戦略や政策を真正面から議論し、時代の変化に即応して大胆に転換していかなければならない。国会が本当の意味で政策討論の場となる必要がある。
改革は一時的な痛みを伴ったり、支持基盤の動揺を来すことがあるが、国民生活の安定と発展のため、大局的視野に立って政策と理念の確立を図るべきだ。
政権党に不利なことは野党に有利、などと考えて反対をあおったり、なすべき課題を回避する無責任な態度では国の進路を誤る。国民も現実的な時代認識で改革の必要性を自覚すべきだろう。
大衆民主主義の下で大きな影響力を持つマスメディアの責任は重大だ。大衆迎合を排し、正確な報道と的確な批判を通じて民主政治の質を高める努力が必要だ。
以上のような展望に立って、読売新聞社は今後も勇気をもって責任ある主張を展開していく決意である。
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