1992/05/14 読売新聞朝刊
読売憲法問題調査会第8回会合 国際的視野で憲法論を 西修委員見解=特集
◇西 修氏(にし・おさむ) 駒沢大学法学部教授。比較憲法論。昭和15年生まれ。早大政経学部卒。同大学院政治学研究科博士課程修了。米プリンストン大学客員研究員。著書に「日本国憲法の誕生を検証する」「各国憲法制度の比較研究」など。
十三日の第八回読売新聞社憲法問題調査会における西修委員(駒沢大教授)の冒頭説明と、これに続く質疑応答の主なやりとりは次のとおり。
◆9条 「できない事」明確に
〈冒頭説明〉
憲法九条についての学説、九条の成立過程、最近の世界の憲法動向の三つについて、一応、整理の意味で説明したいと思います。
【憲法九条の学説】
九条の解釈は六つ、あるいは七つぐらいに分けることができるのではないかと思います。
1:自衛のための戦争を含め、一切の戦争を放棄しており、いかなる戦力の保持も認められない(故美濃部達吉、故宮沢俊義両氏ら東大教授)
2:自衛戦争、自衛のための戦力保持は禁じられていない(故佐々木惣一氏など歴代の京大教授)
3:一切の戦争は放棄されるが、自衛権の発動としての武力行使は認められる。「戦力」は認められないが、「武力」の保持は認められる(佐藤幸治・京大教授)
4:自衛のための抗争は放棄していないが、陸海空軍その他の戦力の保持は認められていない。戦力に至らない「自衛力」によって、自衛権を行使することは可能(政府見解)
5:九条は裁判規範ではなく、「政治的マニフェスト(宣言)」(故高柳賢三・元東大教授)、「政治的規範」(伊藤正己・元最高裁判事)である
6:国際情勢の変化などで、憲法制定当時に比べ九条の意味の変遷を認めざるをえない(橋本公亘・中央大名誉教授)
7:自衛隊の「違憲・合法論」(石橋政嗣・元社会党委員長、小林直樹・東大名誉教授)
私は二番目の説に立っています。今までの政府の解釈とかマスコミ論調を見ると、自衛隊やPKO(国連平和維持活動)に関連して、日本は何ができるかというプラス面ばかりを論じている。憲法は決してプラス面を書いておらず、「国の交戦権は、これを認めない」(九条第二項)と否定形を多く使っているように、これこれはできないというマイナス面を書いている。
ですから何ができるかのプラス面を探しに行くより、むしろ何ができないのかだけを解釈ではっきりさせることが必要ではないでしょうか。
【憲法制定過程】
九条の源泉は憲法起草に当たっての指示を与えた一九四六年二月三日の「マッカーサー・ノート」で、自己の安全を保持するための手段であっても戦争を放棄するということになっていたわけです。これに従って連合軍総司令部(GHQ)の中で日本国憲法の原文が作成され、総司令部案が日本側に示されます。
この段階で重要なのはマッカーサー・ノートにあった「自己の安全を保持するための手段としての(戦争放棄)」が削られたことです。いったいどんな目的で削ったのかが問題です。
私がかつてアメリカでインタビューした際、(GHQ民政局次長だった)ケーディス氏は、そのくだりは「非現実的」で、「(削らなければ)日本が攻撃された場合、自国を守ることができなくなる。どの国にも自己保存の権利があると思ったからだ」とはっきり言っていました。
九条の源はマッカーサー・ノートですが、その後三回にわたる修正があり、それぞれ大きな意味があると考えます。その第一がケーディス氏の修正で、第二がいわゆる芦田修正です。芦田修正の重要な部分は、九条一項の戦争放棄を受けて、二項の冒頭に「前項の目的を達するため(陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない)」としていることで、芦田氏は後に「(ここに)十分な意味と含蓄を入れたんだ」と言っています。
侵略戦争を放棄するために陸海空軍その他の戦力は保持しない。だが、自衛のためであれば当然戦力は持ち得るんだ。そういう意味を入れたんだと言っています。「前項の目的を達するため」というのが入ったことによって、自衛のためであれば戦力を保持できるという解釈が可能になったのは事実です。
これに対し、ものすごく強い反応を示したのが極東委員会です。とくにソ連、中国あたりから、どうしても(すべての大臣を文民とする)シビリアン条項を入れろという提案が来たわけです。
去年、イギリスの国立公文書館で入手した「第三(憲法及び法制改革)委員会声明」では、第三委は芦田修正があったために日本は自衛のための軍隊の保持が可能になったと気づいた。しかし、それでは困るので、シビリアン・コントロール(文民統制)を完全にするためにどうしても(シビリアン条項を)入れるべきだと、合衆国代表を通じマッカーサーに進言することを決めたという内容になっています。そこでマッカーサーが日本側にシビリアン条項を絶対に入れろと命令するわけです。
そういうことからしても、憲法制定過程で自衛というか軍事力保持を全く考えていなかったわけではないことを私は強調したいのです。九条を「非武装」という人たちは、吉田首相ら政府側が非武装と言っていたではないかと言い、憲法制定権者に政府のみを挙げるのが通例です。しかし、憲法制定過程を詳細にみると、政府だけでなく、GHQも極東委もかなり関与していたことは事実です。そういうものを総合的に見ながら客観的、科学的に判断することが重要ではないでしょうか。
◆平和主義、日本だけではない
【世界の憲法動向と日本国憲法】
最後に、世界の憲法動向をどう見ればよいのか、日本国憲法をどう位置づければいいのかという点に触れてみたいと思います。制定順の古い方から見ますと日本は十七番目です。日本の憲法を新憲法と言いますが、日本の憲法が制定されてから百二十―三十か国で憲法が作られており、世界的に見ると古い憲法です。
(世界の憲法の)最近の傾向として特筆すべきは、マルクス・レーニン型の憲法が完全に破たんしたということです。
事項別での特徴では、私が調べた四十三の憲法のうち、三十一か国で環境保護を入れています。政治倫理的なものを憲法の中で規定している例などがあります。また、政党を憲法の中に入れるのは世界のすう勢だと言っても構いません。わが国の憲法では、政党に対する規定は何もないわけですが・・・。
このほかプライバシーとか知る権利を憲法に入れるのはかなりの国で見られますし、スポーツとか旅行の奨励などもあり、多様化が見られます。
最後に平和主義との関係ですが、「平和」というものを何らかの形で憲法の中に入れているのが七十三か国ありました。第二次世界大戦後、「平和」がかなり憲法の中に入れられてきたということが言えるのではないでしょうか。私は、何か平和主義が日本の独占物であるというように言われていますが、世界を見ると決して日本の独占物ではないと言いたいのです。
結論として言いますと、もっと世界の憲法に目を向け、そしてわが国の憲法の現状をもっと広い視野からながめるべきではないでしょうか。
〈質疑応答〉
斎藤鎮男氏(元国連大使):戦力は侵略のため、あるいは自衛のためだけではなくて、大きな意味の警察力的意味もあるので、勝手に戦力を放棄するということができるのでしょうか。
西氏:自然権としてやっぱり戦力は放棄できないと思います。
島脩氏(読売新聞論説委員長):第二次大戦の敗戦国の中でイタリアの場合、制憲議会を作るための選挙をやって国民投票をやってますね。ドイツもそういう憲法制定のための議会を作っています。日本の場合は最後の帝国議会でそのまま憲法制定作業をやった。この違いが憲法に対する国民の信頼感にも影響しているように見えます。
西氏:おっしゃる通りだと思いますね。私が以前、憲法草案づくりに携わった関係者に取材した際、はっきりしたのは、あくまで暫定的なものとして草案関係者が考えていたことでした。
◆学者の意見には偏り/田久保氏
田久保忠衛氏(杏林大教授):「新憲法」「平和憲法」というかぎかっこ付きで表現する特異な現象は、世論に大きな影響を及ぼす憲法学者の意見がどうもバランスを失しているためではないですか。七つに分けられた分類で憲法学界の圧倒的多数は、1の分類ではないですか。九〇%ぐらいになりますか。
西氏:若い人とか過去の議論にとらわれない人たちは、少しずつ変わって来ています。だから九〇%よりはだいぶ下だと考えていいと思います。
猪木正道氏(平和・安全保障研究所会長):以前、かなり重要な省庁の課長や課長補佐クラスの人の講習会に招かれて話した時にショックを受けましたが、憲法解釈に関しても1の方なんですよ。教育と福祉を重視すれば内政は混乱せず、それゆえに外国から侵略されることはないという理屈なんです。ぼくはそれを昔から「空想的平和主義」といっていますがね。
田中明彦氏(東大助教授):「いかなる戦力の保持も認められない」とする学説に立つと、国連への協力などはどう解釈しているのでしょう。
西氏:社会党的に「非軍事・民生・文民」の分野に限れば、別に憲法上問題はないという立場です。
三浦朱門氏(作家):朝鮮戦争のころから、国民の憲法観が変わってきたのだと思います。それまでは戦争など当分ないと思っていたのに、突然、警察予備隊ができ、憲法を改正して再軍備するのではないかという声が出てくる。その反動として、憲法を守らなければという動きが出てきたのではないでしょうか。
西氏:一九五〇年一月にマッカーサー元帥がこんな演説をしています。「どんな理屈を並べようと、日本の憲法は自国を守ることができる。これは疑いもなく事実だ」と。そして、同年六月に朝鮮戦争が発生し、警察予備隊が出て行きました。三浦さんの指摘は確かにその通りです。
宮田義二氏(松下政経塾長):私たちは今、私たちなりの憲法解釈をしようとしているわけですが、どの解釈が正しいのかは、どこで決めるのですか。また、国民の支持を得るための手続きはどうするのですか。
西氏:裁判所がすることもあるし、政府がする場合もあるでしょうし、そこがハッキリしないから学説もこんなにあるわけです。
◆「憲法裁判所」が必要/佐藤氏
佐藤欣子氏(弁護士):政府の行為、法律が、憲法に発しているかどうかを認定するのは最高裁です。ただ、具体的に権利の侵害がないと動いてくれないし、あまり難しい問題だと、「高度な政治判断だ」と言って逃げてしまう。一票の格差、自衛隊の問題など、最高裁は統治行為の範囲内として、積極的な判断はしていません。だから、「憲法裁判所」が必要だと思います。
田中氏:少々ニヒリスティックに見ると、ある憲法解釈を採用する政府を、だれも選挙で打ち倒していない以上、その政府のしていることは合憲で、国民の支持を得ているということになります。解釈が正しいのか間違いなのかは、選挙の結果でしか現れない……。
◆解釈論、最後は世論/諸井氏
諸井虔氏(秩父セメント会長):解釈論にしても、憲法改正にしても、最後は世論次第ということになりますね。
島氏:憲法改正の限界説からすれば九条を変えることはどうなんでしょうか。
西氏:憲法改正限界論というのは、憲法の基本原理を改正してしまうと、憲法の土台を崩し、自殺行為になるというものです。憲法の基本原理とは、国民主権とか、平和主義とか、基本的人権の尊重などですね。ただし、九条の平和主義の中身については必ずしもハッキリしません。非武装だけが平和主義ではなく、積極的に平和を守っていくことも平和主義なのですから。
◆もっと根源的議論を/西広氏
西広整輝氏(防衛庁顧問):今の日本の状況で問題なのは、本格的な憲法論争がほとんど行われていないことです。野党側は単に政治的な戦略から仕掛けてきますし、政府も解釈を広げて自縄自縛に陥る。国民のコンセンサスを得るためにも、もっとオープンに、もっと根源的な議論がなされるべきです。
佐藤氏:憲法改正論をタブー視し、政争の具としてきたのが大きな原因ではありませんか。
渡辺恒雄氏(読売新聞社長):オブザーバーの立場から聞きますが、憲法改正手続きは、各国でどうなっていますか。米国はかなり面倒な手続きなのに二十数回も改正を重ねてきていますが、日本は憲法改正の手続きに必要な国民投票法もまだありません。
西氏:確かに手続き的には、わが国の憲法は非常に「硬性的」(改正しにくい)憲法だと言えます。しかし、国民投票制が改正を難しくしているかというと、そうではありません。国民性もあると思います。
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