2002/04/22 毎日新聞朝刊
[社説]考えよう憲法/36 自衛隊 埋め続けた9条とのミゾ
◇国際情勢追随に揺れる
今の憲法が施行から55年、国民に大枠で支持されながら、第9条に関しては国論の対立が続く。自衛隊の存在、能力、役割は9条にかなっているのか否か。平和主義をめぐる憲法論争は、すなわち自衛隊の問題であった。
憲法は前文で「再び戦争の惨禍が起こることのないよう決意」し、9条1項で「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」、同2項で「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」と定めた。
この規定は米国の占領方針に基づいている。マッカーサー元帥は占領への反発を和らげ、国の求心力をも保つには天皇制が効果的と考えた。ただ、旧来のままでは軍国主義復活の芽が残る。天皇の象徴化と戦争放棄、戦力不保持を盛り込む必要があった。連合国軍総司令部(GHQ)、日本政府、帝国議会と進んだ制定作業で、9条は明文化されていく。
1946年2月3日、マッカーサーは「日本は紛争解決の手段としての戦争、および自己の安全を保持するための手段としての戦争をも放棄する」と指示した。
吉田茂首相は「9条は直接には自衛権は否定していないが、自衛権の発動としての戦争も交戦権も放棄した」(46年6月26日・衆院本会議)と答えた。帝国憲法改正案委員小委員会で芦田均委員長が「前項の目的を達するために」と書き直した修正も、秘密議事録(95年公開)で見る限り、将来の自衛力保持に道を開けておいたという明確な意図は読み取れない。
◇米国が求めた再軍備
66条2項は「内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない」と、職業軍人の登場を想定した条項である。だが、たとえば文部省が47年8月に出した副読本「あたらしい憲法のはなし」は「こんどの憲法では、兵隊も軍艦も飛行機も、およそ戦争をするためのものは、いっさいもたない」と説明している。これが当時の大多数の認識だったろう。
しかし冷戦下、米国が日本を西側の砦(とりで)の一つに位置付け、講和条約による独立回復後は、米軍に代わって自前で国を守るよう求めたことから、再軍備に向かう。48年8〜9月に南北朝鮮が独立、49年10月に中国が建国すると、一層強まる。50年6月25日の朝鮮戦争勃発(ぼっぱつ)はダメ押しとなった。
7月8日、マッカーサーの許可という形でまず7万5000人の警察予備隊創設と、8000人の海上保安庁増員が決まる。52年10月、保安隊に改組され、54年7月には陸海空自衛隊が発足した。
当時の米軍事顧問団幕僚長、フランク・コワルスキーは「国際情勢のためとはいえ、理想主義的憲法を踏みにじり、国民がきっぱり放棄した戦力を再建せねばならなくなったのは悲しい」(著書「日本再軍備」)と記している。
自衛隊をめぐる論争は、装備や能力が戦力に該当しないのか、行動が戦争放棄の規定から逸脱していないかに集約できる。
戦力について、政府は当初「近代戦争遂行に役立つ程度の装備編成」と定義し、現在は「必要最小限度の実力を超える実力」との見解だ。装備の近代化や国際情勢の変化で、「必要最小限度の実力」は変わりうる。政府見解に立っても、年間5兆円近い予算をかけ、イージス艦なら300キロ先の200もの目標物を一瞬に見分けて攻撃できる最新鋭の能力を、なお「戦力でない」と言えるか。核兵器こそないが、世界有数の軍事力であることは、各国が認めるところだ。
行動範囲も広がった。専守防衛と言いながら、米軍が日本周辺で軍事行動に移れば、周辺事態安全確保法に基づいて後方地域支援に入る。政府は「地理的概念ではない」として、周辺事態の範囲を限定していない。昨年の米同時多発テロに際して、防衛庁は一時、同法を根拠にインド洋への艦船派遣を主張した。テロ対策支援法による特例的措置ではあったが、自衛隊を戦時に、はるか遠方へ派遣した初のケースとなった。
◇国民は平和原則を評価
新たな任務や装備が加わるたびに起きる違憲論は、かつては自衛隊そのものを違憲とする社会党や共産党からだった。最近は憲法解釈の変更を迫る自民党国防族や自由党からも上がる。学説も論拠の立て方は異なっても、違憲とする見解が多い。政府は解釈を駆使して合憲と言い続けるが、小泉純一郎首相が「常識、すき間」論で説得する状況は、限界の表れと言えよう。改正論は9条1項を変える主張が後退し、2項で自衛権の存在を明記する、あるいは3項で国連決議による行動への参加を認めるといった提案が出ている。
ただ、国民の6割以上は憲法によって「戦争のない平和国家が維持できた」と考えている(毎日新聞による87年以降5回の世論調査)。こうした認識には、冷戦構造によって大規模な戦争が起きなかった国際情勢を直視せず、日米安保体制への評価も誤っているという指摘があるだろう。
自衛隊に、条文や制定時の意思とかけ離れた実態がありながら、政府も国民も大きな違和感を覚えずに受け入れてきた。憲法の規範性からみれば問題がある。一方で、国連に基づく国際協調的な軍事行動といかにかかわるか、平和憲法を生かした責任の果たし方を考えるべきだという主張もある。憲法と現実とのかい離にどう整合性をつけるか、迫られている。
※ この記事は、著者と発行元の許諾を得て転載したものです。著者と発行元に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど、著者と発行元の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。
|