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はじめと終わり
 古来よりさまざまの哲学者や文学者、詩人などによってこのはじめと終わりについては論じられてきました。新約聖書の「ヨハネの手紙」の冒頭に「初めに言葉があった」とありますし、旧約聖書の創世記にも「初めに、神は天地を創造された」とあります。私もこの言葉に関心をもちましていろいろ調べたことがありますが、詩人のロバート・ブラウニング(1812〜82)は次のように詩っています。
 われともろとも長生きをせよ。
 最善の事はのちにあるべし。
 人生初めあるは終わりのためなり。
 (以下略)
 
 また、レオナルド・ダ・ヴィンチも、
 十分に終わりのことを考えよ。まず最初に終わりを考慮せよ。
と若者に言っています。
 
 みなさんの若さは終わりのためにあるのだというのです。私たちの人生には終わりが必ずあります。その限りあるいのちをどう生きるかという命題を一人一人が背負って生きているのですが、多くの人は限りあるいのちを概念的にはわかってはいても、なかなか実感していない人が多いのではないでしょうか。
 私は105歳になられた小倉遊亀画伯や女性の国会議員の草分けである102歳の加藤シヅエさんはじめ、高齢の方々の主治医をしていますが、こういう方々から教えられることが実に多いのです。鈴木大拙先生が90歳を超されてから秘書に「長生きしないとわからないことがたくさんあるのだよ」といわれたそうですが、その方の一生の中で出会ったさまざまのことから真理が得られるのだという意味ではないかと思います。ゲーテがその才能を賞賛されたときに、「私のすべてのものは他の人からいただいたものです。私にはただ勤勉と熱意と努力があっただけなのです」といったそうですが、ゲーテにおいてすら自分を満たすものは他から受けていると表現されるほど、私たちはさまざまの人のおかげで今日あるということをもっと自覚すべきでしょう。
 人間は、病いの中では自省的になり、生きる意味を深く問うたりもするようになりますが、私は医師という職業柄、ある意味ではその人がいちばんその人らしくなった最高の姿と接することができるともいえるわけですから、学ぶこともまたとりわけ多いといえましょう。
 先ほど肝臓移植を米国で受けられた経験をもつ青山学院の野村祐之先生がお話しになったとおり、スピリチュアル・ケアという言葉に使われている“スピリット”というのは、「風」とか「息」ということです。ギリシア語では空気のような、流れるようなもので、血液のように体の中を流れているという意味をもつものです。このスピリットという言葉が人間の息と非常に関係しているという語源から考えますと、20世紀の初めに心電計ができるまでは、私たちが生きているという立証は息が止まったことをもって死と診断していました。それ以前は仮死の状態で葬られることもたまにはありました。
 いまでも予後を予測することは医師にとってもなかなかむずかしい問題です。私のように長く臨床をしている者は、なるべくあいまいに答えるようにしています。「いつまでいのちがもちますか」と聞かれる人は、大変な決意をもって質問しているのです。自分自身からこの問いを発する人はめったにありません。100人に1人くらいです。しかし、しっかりした経営者や、また勇気のある人の場合、はっきりと自分のがんの病名や予後について尋ねる人が時々おられます。そのときに私たち医者としては、患者や家族の希望を潰してしまうような権利は与えられていないということを忘れてはいけません。不確実な情報は、言わないほうがよいのです。もちろん専門家の集まるカンファレンスなどでは口にしますが、患者当人や家族には、その人の心の内がよく判読できなければ、それをそのまま言ったりしてはいけません。
 いま聖路加国際病院に末期癌で入院しておられる方で、女子高校の学校長をやっておられたのですが、「卒業式までもちますか?」と聞かれて、私はドキッとしました。「もちます」というと嘘になるかもしれないし、どう言ったらいいかと思って、「卒業式に行けるようにあなたにも頑張っていただきたいし、私もそのように努力します」と言ったところが、次の週に回診をしたところ、「先生は卒業式に出席できるとは言われずに、努力しましょうと言われましたが、その言葉の意味が私にはわかったような気がします」と言われました。卒業式に出られる可能性は少ないかもしれませんが、しかし少ない可能性でも、その人にとっては現実性のあることかもしれません。可能性のパーセンテージというのは、一般的な話でなければ、その人当人には適用できないのです。







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