会話と遊びの大切さ
さてそこで問題はどうすれば子どもが最もよく学ぶか、どうやって自分の自然な適性を見つけそれに従うか、押し付けではなく全人的に総合された学びに導く方法は何かということです。すでにお話しましたがもう少し進めてみましよう。
すべての社会は、その信条、理想、重要な知識を次世代に伝達する方法を開発してきました。おもしろいことにごく最近までそれは言葉、芸術、音楽によって伝達されるのだと理解されてきました。今日、口頭での言葉は文字によって補われています。こうしたコミュニケーションは止めることはできません。コミュニケーションというのは起こるものです。それは人々が学び自分の考えを洗練し、人やいろいろな考え方と接するための最も重要な方法です。
その中で“会話”は人と近づく一つの方法です。今までの関係を続けるためにも、新しく知り合った人と関係を持つべきかどうか判定するためにも重要です。わが校のダニエル・グリーンバーグは、会話について広範に書いています。それはたいていの学校の中で最も軽視される技術ですが。会話は新しい考えに接するだけでなく、自分の考えを確かめ、より道理の通った強力なものにする方法でもあります。他者の考えを知り、それを自分の考えと総合する方法でもあります。さて多くの学校での会話の役割は何でしょう?何もありません!そこには授業はありますが会話はありません。「このことを考えなさい」と指示された問題はあっても自由な思考の流れはありません。
人は会話を通して大いに自信を育てます。自分の考えをはっきり伝えることが可能になると、自分が集団や活動の重要な一員であると感じられるようになります。人前で自分の考えを発表する経験は重要です。他人の反応によるだけでなく、発表することによって自分の考えを発展させる機会が与えられます。話すことによって考えを交換できない環境に子どもを置くべきではありません。会話を制限することは教育を妨害することです。
もう一つの重要な学びの道は“遊び”です。私は遊びを“自分がしたいと思うことをすること”と定義します。遊びは考えや行動の小道を自由にたどって行くことができます。もちろん会話で遊ぶこともできます。会話によって関心のある人と自分の考えを通して密な接触を持つことができます。その他料理、読書、映画、食事、ハイキング、バイクや絵などみんなそれぞれ好きな遊びを持っています。それらはしばしば“精神を回復させる”と言われています。
遊びは創造性にとって極めて重要です。新しいことを自由に追い求めなければ多くのことはなされません。もちろん子どもは遊びから途方もなく多くのことを学びます。遊びによって彼らは世界を理解し、想像力をその中に注ぎ込みます。子どもは遊んでいる間に学ぶのです。そうでなければわざわざ遊ばないでしょう。遊びは彼らにとって、目新しくまだ探求されていないことをすることです。その“まだ探求されていないこと”がそもそも最初に遊ぼうという気を起こさせる魅力的な成分なのです。例えばあなたが太極拳をするならそれ自体から何かを得るだけでなく、どんどんうまくなり太極拳に対する理解が深まっていくそれが楽しいんだということがわかるでしょう。そして何か一定のことを成し遂げるだけでなく、自分の可能性を広げているんだと感じられるでしょう。人は遊びを通じて創造的な存在としての自分に触れることができます。常に新しい未知の世界が広がっていきます。このことは大人にとっても重要なのですが、私達大人は普通学んでいる時“遊んでいる”とは考えず、何かもっと大事なことをしていると考えます。私は人生を通じて遊びほど大事なことはないと思います。
理想的な学校
それでは子どもたちが自分の時間(毎日、毎週、毎年そして一生)に対するコントロールを失わないで、活き活きした好奇心を保つそういう学校について話したいと思います。それは生徒の会話や遊び、創造性そして成長を妨げないよう努める学校です。
そのような学校の最大の特徴は“自由”です。本当の自由です。だれにもどんな種類のカリキュラムも押しつける必要はありません。先に述べたように子どもたちは彼らの世界にとって必要なものを十分認識して育ちます。
次の特徴は“年齢混合”です。直接の監督なしに自由に行動できる年代(わが校では4才から上)の生徒は、いつでもどこでも(屋内でも屋外でも)好きなように行動できます。
つまり生徒たちの関係は興味と相性によって決まるのであって、年齢によってではないのです。その中でどの生徒も自信を持ち、自分の適性を学ぶことができます。自分自身の興味は重要であり、時間は自分のものであり、自分の教育は自分でデザインするということを学ぶのです。
そのような学校は何も要求しません。何も要求しなければ、人は自然に自分で可能性を伸ばそうとするというのがその哲学です。そのような学校ではすべての責任は本人にあることが決定的に重要です。それをはっきりさせる最もよい方法として学校は生徒が選ぶどんな活動にも何らかの格付けをせず、カリキュラムを作ることを拒否します。つまりすべての子どもに「あなた達を信じます。あなた達は自分で自分の人生を築いていくのです。私達はあなた達の望む方法で手助けをします。決してあなた達を枠にはめたり、何かの結果に導いたりしません」と言うのです。
そのような学校はみんなが熱心に何かを追求しているので、とても真剣に見えます。同時にみんなが楽しんでいるので、軽くも見えます。みんな思いつく限りのいろんな方法で遊んでいます。ある子は歴史を読むのが一番楽しいと思い、別の子はテレビゲームをするのが楽しいと思い、またある子は詩を読むことが、ある子はサッカーが楽しいと思います。それは問題ではありません。「あなたのやっていることは価値がない」などと言う人はいません。定義の上からしてそんなことはあり得ないからです。何かを選んだらそこから学びます。なぜなら学びは自由に選んだ活動の副産物だからです。もし学びがなければその活動は選ばれないでしょう。
このような学校で面白いのは、大人の子どもに対する関係です。大人は権威ではありません。何かをさせたりさせなかったりすることはできません。砂場で遊ぼうとも幾何学を学ぼうとも、大人がそれを認めないことはありません。だから大人との関係はとても自然な形で発展します。大人は自分がやりたいことのやり方を教えてくれる人であり、あるいは落ち込んでいる時に助けてくれる人であり、友達にもなれる相手なのです。こういう学校にいる大人は主に長く生きているという理由で、子ども達よりたくさんの経験を持った人ということであり、また役割を持ったモデルでもあります。社会の中で大人であるとはどういうことかを示すモデルなのです。多くの子どもはそういうモデルがいません。親はあくまで親であり、親と子の間で対等な関係が保てることはまずありません。こうした学校で尊敬される大人は、そうするのが子どもの義務だからではなく尊敬に値するからこそ尊敬されるのです。
この種の学校はその中にいる人々によって運営されます。それが参加民主主義です。子どもに対して「あなたに自分自身の教育を任せるよ。わたしたち大人はその間、雰囲気がよくなるよう責任を持ちます。」と言うと、子どもは少し変に思うでしょう。普通子どもは学んでもいいが決定はできないと思っているからです。しかし子どもが自分で決めることができれば、深いレベルで真剣に学ぶことができます。本当の自律があると理解します。子どもは何に時間を使うかということ同様、環境も決定します。そのことは学校に対する信頼をより深め、そういう学校に子どもを行かせるようとする親の信頼も高めるでしょう。
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