四、肥後の櫨の木
薩摩と境をなす肥後もまた「櫨多き国」であった。現在も、薩摩との国境、水俣の地に約一万五千本の櫨の木が植えられていて、全国需用の約三〇パーセントが供出されているという。水俣市の侍地区には平成四年度の農林水産省の補助を受けて建てられた『はぜのき館』があり、櫨と蝋に関する展示と「ろうそく作り体験学習」のワークショップが行われて、各地からの見学者が訪れている。侍地区はその名が示すように藩制時代に細川藩が櫨蝋生産経営のため多くの藩士が管理にあたったため、その名が付いたという。はぜのき館の資料によると、この地で櫨の木の植栽が本格化するのは、延享四年(一七四七)細川重賢が藩主となり、藩財政立て直し政策の「宝暦の改革」の頃といわれている。宝暦十三年(一七六三)には民間の精蝋所を藩直属の役所「櫨方」の直営にして藩の収入にし、それ以後、精蝋所が新設され、藩による櫨蝋の専売制がしかれ各地に櫨の木が植えられていく。熊本城にはその名残りの櫨方門がある。
しかし、明治になると整髪料の鬢付け油の需用がなくなり、更に大正期には電燈の普及により和ロウソクの使用が減少し櫨蝋の価格が低下する。更に戦後パラフィン(石油化学製品)の影響で生産は激減した。櫨の木の栽培環境はみかんの木にも適合していて、昭和四十年頃から櫨は伐採されみかんの栽培に変わっていった。明治以後、旧藩主の細川家は熊本市で肥後製蝋株式会社を経営する。戦後、この細川家と地元農民が櫨の木をめぐり争うことになる。世にいう『ハゼの木裁判』である。
宝暦はぜから望む水俣湾
宝暦はぜ
終戦直後、農地改革法施行で細川家は財産税の一部として国に水俣市の櫨生産地の畑を物納した。これを水俣市が国から払い下げを受け、さらに市は地元農民に払い下げた。農民はおそらく藩制時代から小作時代まで櫨の栽培の苦役をしいられていたといっても過言ではなかった。それが、ようやく『農人錦の嚢』となった。昭和二十六年二月三日付け地元の新聞記事を見てみよう「水俣地区のハゼの実代金、軽く一千万円を越す」の見出しが入り、「肥後、大分、高木、野田製蝋などのメーカー、二十余名のブローカーがいりこみ、価格百斤、一千百六百円の値が付き、樹数五万本とみて、六十斤余、一千万円余の金が農家のふところをうるおしたもようである。」と伝える。そのつかの間、これで困ったのが、細川家が一族郎党のため明治三十一年に創業した肥後製蝋である。櫨の実が高騰すると、肥後製蝋は原料入手難に陥った。そこで、細川家は突然「畑は売っても、ハゼの木は売っていない。」と言い、農民は「今さら木を返せとは話が通ぜぬ、土地台帳には畑として記載されハゼの木は載ってない、他の業者なみに買い取ってくれればいいじゃないか。と主張し、ついには裁判に発展し、十数年間続くことになる。(当時の毎日新聞記事を参考)そして『水俣市史』は「昭和四十二年十二月裁判所の調停で解決しハゼの木は農民のものとなった」と記す。しかし、その裁判闘争の記録は和解が成立した時、弁護士立ち会いのもとで焼却されたという。この『ハゼの木裁判』については、「水俣病を告発する会」の機関誌『水俣』(一九七三〜七四年刊)に所収されている塩田武志氏の『ハゼ山騒動記』に詳しい。
その騒動の山、侍地区には樹齢二四〇年ともいわれ、農民からは「櫨の実八俵なり(二四○キロ)」と呼ばれた、根周り三・九メートル高さ一〇メートルの巨木が座している。これを水俣市は『宝暦はぜ』と称している。『宝暦はぜ』は海を見下ろす斜面に根をはっている。海は水俣湾の埋立て地から広がる不知火海で、あの水俣病の発生地であった。
『宝暦はぜ』は、ハゼ山騒動も水俣病事件もこの地からじっと見ていたのであろう。
五、島原の櫨の木
寛政四年(一七九二)の「島原大変、肥後迷惑」でも解るように、私の住む熊本から島原は、熊本港から眺めると指呼(しこ)の間である。フェリーは一時間で有明の海を走った。鹿児島と熊本の櫨の種類は「昭和福ハゼ」が主である。そのふるさとを見てみたい。
島原の櫨と蝋について詳しい、島原城資料館解説員をされている長崎県地方史研究会の松尾卓次さんを島原城に訪ねた。松尾さんは、早速、島原城の民俗資料館に案内され、展示してある島原大変の時の火山灰に埋もれたロウ横木式絞り器について解説してくださった。島原での櫨の植栽が何時頃はじまったかについては、元和年間(一六一五〜二四)に松倉重政が入府した頃と島原の乱後の慶安四年(一六五一)、高力忠房の時代の二説があるといわれる。昭和福ハゼについて「かつては畑のあぜ道や開発した櫨山があって、島原地方を彩りました。ハゼは島原の人々の生活に深く関わっていたようです。『昭和福ハゼ』は寛政二年(一七九〇)頃、島原市千本木町(当時の杉谷村)で発見された新品種で、新実(シンミ)から絞る木ロウでも古実(コミ)ロウと同じ白色系のロウと同じようになるので、新古(シンコ)ロウハゼと呼ばれていたようです。昭和二年、当時の全国木蝋連合会、本田武典会長によって、日本一の櫨と折り紙がつけられ『昭和福ハゼ』と名付けられました。この原木から接ぎ木した苗木が各地に広がり、製蝋産業界の発展に大いに貢献したんです。」それが現在の鹿児島や熊本で植栽されている品種ということになる。松尾さんは「残念なのは平成三年から猛威を振った普賢岳の火砕流で、南千本木にあった『昭和福ハゼ』の原木が消失したことです。」しかし、その二世木が旧島原藩薬草園跡に植えられているというのでそこに向かった。
「『昭和福ハゼ』は優良な品種として昭和四十九年、農林水産省のジーンバンク事業により、熊本県の林野庁林木育種センター九州育種場で接ぎ木により育てられていたんです。この二世木は平成七年にそれを移植したものです。」と教えてくれた。昭和福ハゼは残ったのである。
島原市には「昭和福ハゼ振興会」があり、市教育委員会の紹介でその代表をされている松本八郎さんを訪ねた。「昭和福ハゼ振興会」は、あの雲仙普賢岳の平成の大噴火で壊滅的なダメージを受け、その復元を図り現存する種及び毛苗の採取、苗木の育成植栽、木蝋の生産販売、島原市の緑化を図ることを目的に結成された会である。
松本さんは普賢岳の大噴火の火砕流でふる里を離れるまで、千本木、上折橋地区で茶畑と櫨の木に包まれた環境で製茶業を営んでいた。早速、櫨の苗木を植栽されている場所に案内してもらい、その火砕流災害復興地を歩き話を聞いた。
「先人たちは、大昔の土石流の跡と思われる砂礫の多いやせた土地を開墾して、少しずつ、ハゼの木や茶の木を増やして、これを大切な収入源として暮らしていました。我が家も茶畑の端々や畑の隅にハゼの木を植えていました。夏が過ぎ、晩秋の頃には、紅葉で彩られ、仲買人がやってきて、年末には農家の貴重な財源となっていたのです。時代の流れでその環境は変わっていきましたがその原風景はかろうじて残っていたのです。
しかし、今度の噴火災害により被災した農家は、その土地を離れなければなりませんでした。その後、各方面からの支援のおかげでそれぞれ生活の場を見つけることができました。そんな中で、みんなの心に何か忘れ物をしたような気持ちがあったのですね。それは荒廃したふる里を甦らせねばならないということだったようです。
そして、わがふる里千本木が『昭和福ハゼ』の原産地であること、そのハゼに彩られたふる里の原風景を復元する活動が、私たちの使命だと感じ、関係ある有志で平成八年にこの会を発足させたのです。
ハゼの木は、植栽して実の収穫まで長い年月を必要としますので、この会でも長期に渡って活動していかなければと考えています。現段階では、火砕流で荒廃した土地に順次植栽して行くことを目的として苗木を生産しています。」
普賢岳の、その火砕流跡地のゆるやかな斜面には、『昭和福ハゼ』の子孫達が遮るものがない荒廃した空間で、太陽の光を一杯にうけすくすくと育っていた。
手元にある『平成二年度ハゼの実生産量』の資料によると、福岡県・熊本県が一五〇トン、長崎県一二〇トン、愛媛県一〇〇トン、佐賀県九〇トン、鹿児島県三二トン、宮崎県三〇トン、大分県二〇トン(日本木蝋商工業組合資料)となっている。佐賀県と大分県には行けずじまいだったが、九州の櫨の木をめぐる今回の旅を終えることにする。
ロウ横木式絞り器を解説する松尾卓次さん
「昭和福ハゼ」を背景に立つ松本八郎さん
・・・<民俗学>
旧正田邸について・・・山岡通太郎
かつて勤務した仕事の関係で品川区上大崎のアパートに数年間暮らしたことがある。
道路を隔てた向い側には、その昔山川秀峰画伯もお住いだったと伺う閑静なお屋敷があった。宿舎の子供が投げ入れたボールをお詫びして頂く折には、手入れの良く行き届いたお庭を拝見することもできた。
このように周辺は洋風、和風と問わず立派なお屋敷ばかりである。坂を上って左へ曲ればそこは池田山。
いま、保存を巡り議論のある旧正田邸の通りも私達にとっては週末のよい散策路のひとつであった。
この旧正田邸解体の是非については私共としても種々考えさせられることが多い。
まず、この建物が建築学上保存に値するものか否かについては専門家の判断に委ねるとしても、「民間から初の皇太子妃となられた歴史的意義」が戦後の明るい話題として、多くの人々の記憶に末永く留めるべきものとするならば、この建物の保存は国民共通の遺産として考える余地はあると思う。
さらに、正田家の御遺族が一昨年六月相続税物納を決断される際に、諸外国の例にならってこの建物を(財)日本ナショナルトラスト等に寄贈される事を御検討頂けたのであろうか。
他方私達も税制優遇措置を受けて各地で歴史的遺産の保存と活用に取り組んでいる実情をもっと多くの関係者にPRする事の必要性を痛感した次第である。
米国ナショナルトラストの関係者で折柄来日中のチェスター・リーブス氏(東京芸大客員教授)の指摘するとおり、とりこわしか保存かの問題はいまや物納を受けた政府税務当局の判断に委ねられた。
戦後国に物納され、東京都に移管された牛込の旧小笠原邸が再開発の取りこわし寸前、関係者の努力と都知事の英断により現地保存を条件にPFI方式で落札した企業がこの素晴らしい建物をフランスレストランとして活用していると聞く。このような方式もひとつの選択肢ではなかろうか。
・・・<(財)日本ナショナルトラスト理事長>
67号で「ニホンミツバチの文化誌」を特集したあとに蜜蝋で蝋燭を作った歴史がありますと言って紀要をお送り下さった。また他の方からは、タバコにも香料として蜂蜜を入れていましたと、教えをいただいた。特に前者は文化誌に収録できなかったことが大事な忘れ物をした時のようにひどく気になっていた。
紀要をお送りくださったのは、坂出祥伸先生であった。
そこには中国の蝋燭の歴史が書かれてあり、蝋燭立てといわれている釘状の燭台に疑問を投げかけて、実は、蝋燭が使われたのではなく油灯ではないだろうかと推論されていた。じつに面白く読ませていただき、すぐに「東アジアの蝋燭」を特集できないものだろうかと思い今回の特集号にいたったのであった。
日本では、町おこしに伝統的な和蝋燭を売り出している町も少なくはない。ところが韓国、中国ではどうだろうか。ソウルに住む写真家の金秀男さん、北京でブックデザイナーとして活躍を続ける呂敬人さんにすぐに調査をお願いした。できれば現場を見てレポートしてみたい。しかしながら、韓国ではつい最近、廃業したという知らせだった。また、呂さんからは、灯火の研究者はいるが・・・。今回、残念ながら中国の伝統的な蝋燭の製作現場には立ちえなかったが、どこかで必ず製作している人がいると確信している。
今回の特集号で、気が付いたことは、原料となる櫨と漆が計画的に栽培されたことである。藩の財政の中では大きな比重を占めていたのだろう。いかに良質の蝋を生産できるか各藩競い合ったのだという。そこに生きた人たちの足跡を見ることができる。また、江口さんの報告からも櫨のある風景が今は懐かしく忘れ去られていくものの一つであると実感した。
最近、歌舞伎を蝋燭の照明で見るという試みもされていて、灯りの興味は尽きないが、それほど蝋燭の明かりは不思議な力を具えている。
今号、北京の呂敬人さん、ソウルの金秀男さん、高雲基さん、それに両班のソンビの精神を熱く語ってくれたリジヌさんら外国の方に助けていただいた。今後より多くのアジアの方たちと仕事ができ、それぞれの想いを誌面に紹介できることを願っている。(眞島)
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