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二、蝋燭の出現
 「蝋燭」と二字熟して登場するのは、三国時代も過ぎて晋代(三世紀後半から五世紀初)になってからのようである。『世説新語』汰侈(たし)篇に「王君(王(おうがい))は糒(いび)(干した飯)をあたため、石季倫(石崇)は蝋燭で炊を作した」とあるのが初見らしいが、ただし、ここでは蝋燭は燈火用ではなくて燃料用である。とはいうものの、蝋燭が燈火として用いられていたことを前提として、石季倫が当時まだ貴重なものであった蝋燭を炊飯の燃料としたという豪勢ぶりを説いているのである。『晋書』には、周嵩が酒に酔って兄・?に「あなたの才能は私に及ばないのに、どうして重名をほしいままにしているのか」と言って、燃えている蝋燭を投げつけたという話が見えている。これは明らかに燈火として用いていた蝋燭である。その他、謝安(三二〇〜三八五)、桓温(三一二〜三七三)が亡くなった時、孝武帝は銭百万、布千匹とともに蝋五百斤を賜って喪事に供させたという(『晋書』謝安伝、桓温伝)。この蝋が蜜蝋であったかどうか、また蝋が精製されて蝋燭として使用されたのかどうかは明らかでないが、葬儀に用いられたのであれば燈火用ということが推測できる。ただし、蝋は必ずしも蝋燭として精製されて用いられるのではない。晋の笵堅の「燈賦」(『芸文類聚』巻八〇引)に、「華やかなる槃(盤)を列ね、凝りたる(蝋の俗字)を鑠かし、穎(燈芯)を浮かべて、其れ始めて燃ゆ」とあるのは、おそらく蜜蝋を盤の中に溶かして燈心を立てて燃やすことを言ったのであろう。
 劉宋の王僧綽(おうそうしゃく)は蝋燭の珠(たれ)で鳳凰を作ったと言われる(『南史』巻二十二王僧虔伝)から、南北朝時代には南では燈火用として蝋燭がかなり普及していたものと思われるが、一方、北方では蝋燭が欠乏していたようで、劉義恭(劉宋・高武帝の子)が北魏に遣いした時、北魏の世祖に「蝋燭十梃」を献上したという(『魏書』巻五十三)。梃は棒状のものを数える量詞であるから、十本になる。献上品としては少ない感がするが、蝋燭は北方ではまだ貴重品とされていたのであろう。その北魏の賈思(かしきょう)が著した農書『斉民要術』に「作仮蝋燭法」という蝋燭の代用品を作る方法を説いた篇がある。これによると、「蒲(がま)が熟した時、蒲の薹(とう)(穂)を多く採っておく。肥えた松を指の大きさに削って、それを芯にして爛布(ぼろきれ)を巻きつける。羊や牛の脂を蒲の穂の中に灌ぎ、板の上で転がして円く平らにする。更に灌ぎ、更に展ばし、太さがほどよくなったら止める。蝋を融かしてこれに灌ぐと十分用に足りる。そうすれば手間の省けること十分の一である。」(西山武一・熊代幸雄訳、東大出版会、一九五七)この蝋は蜜蝋ではなく、後述する植物性の蝋であろう。
 南朝の梁から北朝の西魏、さらに北周に仕えた詩人・庚信の賦「無題」に「燼の高さ疑うらくは数翦、心(しん)湿り暫く然え(もえ)難し、銅荷は涙蝋を承け、鉄鋏もて浮煙を染す」とあって、「涙蝋」「心(芯)」の語からして棒状に成形された蝋燭だと分かる。
 南朝・陳から隋の間の江南仏教の状況を伝える隋・灌頂纂『国清百録』(隋・大業三年、六〇七ごろ成立)には、陳の少主(後主、五五三〜六〇四)の后が光宅寺にお供えする品のひとつとして燭十梃とあり、また、晋王楊広(後の隋の皇帝・煬帝、五六九〜六一八)が菩薩戒を授けられたいと願った戒師への手紙の中に、寄進する品として蝋燭十梃を含めている。おそらく蝋燭は当時すでに天台山の諸寺では儀礼の必需品となっていたのであろう。今日では仏教儀礼に蝋燭はつきものであるが、古代の実情を示す資料は今後精細に検討されるべきであろう。
 唐代になると、蝋燭は燈火用としてかなり一般化してくる。「蝋液」蝋燭から垂れる液)の出所として有名な柳公権の逸話がある。「文宗がある夜、公権を招いて子亭(はなれ)で話したが、燭火が切れてもなお話が尽きず、それで宮人は蝋液を布に濡らして燈火を継ぎたした」(『新唐書』柳公権伝)。また、「蝋涙」という語もあり、李賀の詩「公を悩ますもの」に、「蝋涙は蘭燼垂れ、秋蕪もて綺を掃う」とあるのは、庚信の賦にもとづくのであろうか。このように蝋燭にかかわる熟語ができるほどに、蝋燭は家屋内での燈火として普及していたことが分かる。とはいうものの、その使用の範囲は都長安や東都洛陽のような大都市の、しかも王侯貴族など上流階級の家屋に限られていたのであろう。
 唐宋時代に燈火を用いる年中行事として上元節がある。これは正月十五日夜、巨大な燈樹あるいは燈山を見て楽しむというもので、燈樹は「一本の支柱に火皿をつけた腕木を枝状に出した樹木状の燈燭」(中村喬『中国の年中行事』)であり、燈山はやぐらの上にさまざまな燈火を装飾したもので、北宋の都・京(べんけい)の繁栄ぶりを描いた『東京(とうけい)夢華録』には「金碧の色が照り映え、錦繍の装いが煌めき(きらめき)わたる。北に面したところは、ことごとく五彩の山(やぐら)を組み上げ、上には神仙の像や絵物語が画いてある」(元宵の条、梅原郁訳)と説かれている。その明るいことは、王維の詩に「游人昼日より多く、名月も燈光に譲る」(「奉和聖制正月十五日夜燃燈、継以宴応制」)と詠じられ、李商隠も「月色燈光は帝都に満ち、香車宝は通衢に隘ぐ(ふさぐ)」(「正月十五夜聞京有燈、恨不得観」)と詠じている。その他に玄宗が東都・洛陽で上元節を迎えた時に、高さ一百五十丈、幅三十間もの楼燈が設けられ、龍、鳳、虎、豹などの姿を模しているという。また、「禁中より殿庭に至るまで皆蝋炬を設けて絶えることなく連ねさせた」(『白氏六帖』引『明皇雑録』)ともいう。この巨大な楼燈の中の燈火が蝋燭なのか油燈なのかは分からないが、「蝋炬」は状況から推しておそらく蝋燭であろう。李商隠の「無題詩」(相見時難)にも「春蚕(しゅんさん)死に到り絲方に(まさに)尽きんとして、蝋炬灰と成りて涙始めて乾く」とある「蝋炬」も同様であり、ここでは蝋燭の芯が灰る(こげる)ことであり、蝋燭の蝋そのものが灰になるという訳はおかしい(高橋和巳訳)。
 ここで日本でも用いられる「燈籠」のことに触れておくと、これは南朝に始まっており、『宋書』武帝紀に「床頭に土の(障)があり、壁の上に葛灯籠と麻縄の拂(ふつ)が掛けてあった」とあるのがそれであり、おそらく楕円形の籠の上下はそれぞれ開けてあり、空気の流通をよくすると同時に籠によって防風の役割を果たしたのであろう。杜甫の詩に「江月人を去ること只だ数尺、風燈夜を照らして三更ならんと欲す」(「漫成詩」)とあって、「風燈」とも称される。ただし、籠の中の燈火が蝋燭なのかどうかは分からない。
 唐宋時代に、以上に述べたように燈火に蝋燭が使用されるようになって、その需要が高まってきたとすれば、自然の蜂からの蜜蝋だけでは需要を満たすことができないだろう。そこで考えられるのが、前述の蝋燭の代用品であり、もうひとつは養蜂である。養蜂に関する唐宋時代の資料は管見のかぎりでは見出せず、知られているのは、元朝初期の司農司所編『農桑輯要』巻七「蜜蜂」の条に、「新添」という語を付して「蜜蝋」を採取する方法を記載している記述である。「(蜜蝋は)人々はたいてい山野の古い窖(あな)から採取する。思うに小さな房か、あるいは荊を編んで、両頭を封泥して、一、二箇所小さな穴を開けて、蜂を出入りさせ、別に一つの小さな門を開いて泥封して時々開く。掃除して常に清潔にし、他の物に侵されないようにする。冬に蜂が食べる蜜を留めておき、残りの蜜脾(みつひ)(蜜を貯える蜂房)は割き取って蜜蝋を作る、云々」と説明されている。この記載は後世の農書でも引用されているが、元時代から養蜂が始まったとは考えられない。養蜂の技術はさして難しいものではなく、蜜蜂の行動を観察しておれば容易に思いつくであろうから、おそらくかなり古くから始まっているであろう。
 
三、ナンキンハゼとイボタロウムシから蝋を採取
 蜂から採取する以外にも蝋を採取する方法は二つが早くから知られている。ひとつは、ある種の植物の種子から採取する方法であり、他のひとつは、ある種の昆虫の分泌物から精製する方法である。
 まず、植物の種子から採取する蝋というのは、すでに述べた苴麻(しょま)の実、木天蓼(またたび)、胡麻、紅藍花などが古くから燈油採取用として知られていたが、唐代になって烏臼木(うきゅうぼく)の実から蝋が多く採取できることが知られ、主要な植物性燈油の原料となった。烏臼木は和名ナンキンハゼで、「たかとうだい科」に属し、江戸時代に日本にも渡来して蝋を採取するようになった。烏臼木の実から油を採って燈火に用いるという記事は、唐の陳蔵器(六八二〜七五七)の『本草拾遺』に初めて見えて、『政和本草』巻十四木部下品の引用では、「子(たね)はたいてい取って圧して油とし、頭に塗って白いのを黒く変えさせられる。燈にすれば極めて明るい」と記述されている。南宋の寇宗(こうそうせき)が政和六年(一一一六)に撰した『本草衍義』にも、「子を取って油を出す。燈を然やし及び髪を染める」という利用法が記載されている。詳細ではないが、これによって烏臼木が燈火として使用されていたことが分かる。では、烏臼木からどのようにして油を採取するのか。明(みん)の宋応星の『天工開物』巻中膏液第十三「皮油」の条に次のように説明されている。なお、皮油というのは、烏臼木の種子から取った油のことである。
 皮油で蝋燭をつくる方法は、広信郡(江西省)に始まった。この方法はきれいな(きゅう)(烏臼木の別名)の種子をとって、種子のまま甑(こしき)に入れて蒸す。蒸してから、臼にあけて搗く。(中略)皮膜の油がすっかりとれて落ちたならば、すくいあげ、盆の中にふるいこみ再び蒸す。包んだり搾木に入れたりするのは、いずれも前法と同じである。(中略)しぼり出された水油は、とても澄んでいる。小さな燈心皿に入れると、一本の燈心草で夜明けまで燃えている。
 『天工開物』の記述では、ここまでは烏臼木の種子から油を採るまでの過程であり、この油を固形化する過程は、これに続く記述である。
 皮油で蝋燭をつくるには、苦竹(まだけ)を切って二つに割り、水中で煮てふやけさせる(そうしないと粘りつく)。小さな竹のたがであわせて口のとがった鉄の杓子で油を流しこめば、すぐ一本ができる。芯を中にさしこみ、やがて固まると、たがをはずし、筒を開いてとりだす。或いは棒を削って型をつくり、紙を切り一端をその上に巻いて紙筒をつくり、それに流しこんでも一本の蝋燭ができる。この蝋燭は空気中に放置しても、また暑さ寒さを経ても変質することはない。
 このようにして精製された烏臼木の実から作った蝋燭は、南宋・呉自牧の随筆『夢梁録』巻十三鋪席の条によると、首都・臨安(杭州)では祐淳年間(一二四一〜五二)から名があらわれて今に伝わる店として、烏臼木で作った蝋燭を売る「燭鋪(きゅうしょくほ)」があったと記載されている。南宋時代には燭の商品名として流通していたのである。それが唐代まで遡れるかどうか分からないが、『新唐書』地理志には土貢すなわち土地の貢納品が記載されていて、そこには、蝋燭や蝋が土貢として献上されている地名が記載されているが、それらのなかには、『本草綱目』の記す烏臼木の植生(湖北省、四川省東北地域、江西省)
と重なっている地域がある。唐代に精製された蝋燭や蝋が貢納品となっていたとすれば、烏臼木の植生している地域では蝋や蝋燭が精製されて都市に運ばれていたと考えられる。
 
近年の蝋燭製造工具、蝋潰け用転輪
(『中国手工業誌』法政大学出版局より)
 
イボタロウムシ
(『中薬志』4 人民衛生出版社)
1はオスの成虫2は樹枝の上のメスの成虫と蟲白蝋
 
 
イボタロウムシ
(『原色日本昆虫図鑑』保育社)
 
 つぎに昆虫の分泌物から採取される蝋というのは、蜂ではなくて、タマカイガラムシ亜科に属するイボタロウムシEricerus pereのオスの成虫の集団が分泌する蝋分であり、この虫はモクセイ科のイボタの仲間やトリネコの仲間などの樹木に寄生する。この蝋は蟲白蝋と呼ばれて、明の李時珍『本草綱目』巻三十九虫部・蟲白蝋の条に登場している。明末の汪機の『本草会編』から、「蟲白蝋は蜜蝋の白いものと同じではない。小蟲が作るものである。その蟲は冬青樹(女貞に同じ。俗に蝋樹と称する)の汁を食い、久しくして白脂に変化し、樹枝にくっついたものである。(中略)秋になって削り取って水で煮て融かし、濾過して冷水の中に入れておけば、凝集して塊になる。これを砕くと白石膏のような文理があって、しかも瑩徹(えいてつ)である。人々はそれを油に和して燭に澆ぐ(そそぐ)。蜜蝋より大いに勝る」の説明を引用し、さらに李時珍自身が、蟲白蝋の産地、蝋が冬青樹に結ばれる経過を詳しく説明している。
 この蟲白蝋は元以来、人々は始めて知ったのであり、今では日用のものとなっている。四川、湖広、南、嶺、呉越の東南の諸郡には皆有るが、四川、(雲南省)、衡、永(ともに湖南省)の産が優れている。蝋樹は枝葉の形状は冬青に似ているが、四時凋まず、五月に白い花を開き叢(むらがり)をなしている。として実を結び、蔓荊の子ほどの大きさである。その蟲は虱(しらみ)ほどの大きさで、芒種(六月上旬)の後には樹液に延縁し、汁を食い涎(よだれ)を吐いて、若い茎に粘着し、化して白脂となり、蝋が結ばれる。その形状は霜が固まったようである。処暑(八月二十三、二十四日ごろ)の後に、それを剥ぎ取ったものを、蝋渣(ろうさ)という。もし白露(九月上旬)を過ぎれば粘着して削れなくなる。その蝋渣を煉り溶かして濾浄し、或いは甑(こしき)に入れて蒸化し、器に瀝下するとやがて凝って塊になる。すなわち蝋である。
 この記述はかなり詳しく観察しているが、もうひとり、現代の人による記述を補っておきたい。尚秉和『歴代社会風俗事物考』巻十一「古の蝋燭は皆密燭、今の蝋燭とは異なる、今の蝋は宋には尚お無し」からの引用である。本書は一九三七年に初版が出されている。
 今日の蝋燭は、四川省瀘州各地の樹上に産する。正月には土地の人は雲南の蒙自に赴いて蝋の種を購入し、帰って蝋樹の上に放して、その葉を食わせる。五月になると葉は食い尽くされ、どの樹も皆枯れ、枝も幹も皆白衣を着ているようで、遠くから見ると雪のようである。その白い膜を刮り(けずり)落としたものが、蝋油である。この蝋が行われてから蜂の蝋は用いられなくなった。しかし、それがいつ始まったかは分からない。宋の『海録砕事』に「仙人燭の木は梧桐に似ていて、それを燭にすれば数刻を延ばせられる」とあるが、これが蝋樹である。『海録砕事』は宋の葉廷珪の作であるが、宋代では、蝋樹はまだ少なかったようである。」
 後半の記述の通りだとすると、蟲白蝋の生産は宋代にまで遡れることになる。ただし、『海録砕事』の原文を見ると、「その皮が枯れて剥がれると筒桂(桂の一種)のようになる」という文を中間に補わなければならない。つまり、仙人掌の皮の枯れたのを蝋にするというのが、原文の意味であって、仙人掌を蝋樹としたのは尚秉和の誤読のようである。ちなみに、仙人掌という植物名は、本草書や物産書には見あたらない。
 それにしても、前にも烏臼木による燭が唐代にまでさかのぼれる可能性を『新唐書』地理志から推測したように、蟲白蝋についても同様に『新唐書』地理志の貢納品の産地から唐代にまでさかのぼれる可能性があると考えたい。
 この蟲白蝋は現在でも四川省では産出しているらしく、二〇〇一年版『四川省地図冊』には、四川省涼山彝(い)族自治区に属する西昌市や昭覚県などの特産品として蟲蝋が挙げられているが、蟲白蝋のことであり、その生産や運搬の状況については一九世紀終りごろにこの地域の植物調査をしたデーヴィやホイットルによる報告と写真が残されている。
 以上に私は、蝋燭の原料として、最も早くには蜂の蜜から採取する「蜜蝋」に始まり、唐宋時代になると蜜蝋のほかにナンキンハゼの実から採取する「燭」、イボタロウムシの分泌液から採取する「蟲蝋」もしくは「白蝋」が出現して、大都市の明るさを提供することができたという経過をのべた。
 
イボタロウムシを運搬している彝族の人々
(『雲南・インドと揚子江流域の環』古今書院)
 
・・・<関西大学教授>
 
参考文献
高豊孫建君『中国燈具簡史』北京工芸美術出版社 '91年
孫機『漢代物質文化資料図説』文物出版社 '91年
李時珍(鈴木真海訳木村康一新註校訂)『新註校訂国訳本草綱目』春陽堂書店 '78年
宋応星(藪内清訳)『天工開物』(東洋文庫)平凡社 '69年
深津正『燈用植物』(ものと人間の文化史50)法政大学出版局 '83年
関広重『燈火の変遷』河出書房 '41年
宮本馨太郎『燈火その種類と変遷』六人社 '64年
原田淑人「蝋燭の起源」(『人類科学』第二集 '50年)
P・ホムメル(国分直一訳)『中国手工業誌』法政大学出版局 '92年
坂出祥伸「蝋燭考」(『文化事象としての中国』関西大学出版部 '02年)
*文中に指示した参考文献は省略した。
 
図版出処
25頁『嶺南西漢文物宝庫 広州南越王墓』台湾・光復書局 '94年
26頁『中国美術全集(工芸美術編5)』文物出版社 '86年
30頁 P・ホムメル著(国分直一訳)『中国手工業誌』503頁法政大学出版局 '92年
30頁『中薬志』4 242頁 人民衛生出版社
30頁『原色日本昆虫図鑑』(下)Plate 40 保育社 '98年
31頁 H・R・デーヴィ著(田畑久夫 金丸良子訳)『雲南・インドと揚子江流域の環』218頁 古今書院 '89年







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