◎四合院
四合院はきわめて閉鎖的である。高い塀に囲まれ、大門は分厚い木製の扉で閉ざされている。外から、中の様子をうかがい知ることはできない。
厦門の四合院は、二つから三つの中庭で構成されるものが多い。また、前庭をもつものも多くみられる。そして、主屋群を囲むように両側には、付属屋がある。左右対称であるという強い印象を受ける。厦門の住居のほとんどは、清代中期以降のものである。調査した中で最も古いものは、清代の乾隆年間(一七三六―九五)であった。
さて、四合院を覗いてみよう。図(3)大門を潜ると、そこには前庭が広がる。前庭は花崗岩できれいに舗装されている。前庭に限らず、住居内の外部空間は全て舗装されている。聞くところによれば、雨水を地下に蓄え、徐々に排水されるようにしているという。これは、風水によるそうだ。
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図(6)一つ棟で二階建ての厦門の街屋・・・二階の街路に面した部分には、ヴェランダが設けられ、ヴェランダには洗濯物が干され住人の生活が垣間みえる。 |
この前庭に面するのが「客庁(きゃくちょう)」だ。前庭に面した壁は、石や磚もしくは漆喰の壁になっており、閉鎖的である。写真(4)間口は三間で、中央に広間が取られ、左右に寝室が配される。なかには、五間のものもみられる。中央の広間は家族が共有する空間であり、観音菩薩などの神仙が祀られる。
客庁の広間を抜けると、四つの棟に囲まれた中庭にでる。中庭の規模は北京などと比べるときわめて小さい。なぜなら、北京では四つの棟が分棟で建てられているのに対して、厦門では棟が接しているからだ。日差しが強く、雨の多い気候がそうさせているのかも知れない。中庭の左右にある棟を「廂房(しょうぼう)」という。居室となることは少なく、物置や厨房として利用される。
そして、正面にあるのが「大庁(だいちょう)」であり、四合院の主屋だ。写真(5)大庁の中央の間口には、精巧な透かし彫りの施された木扉が並ぶ。大庁の棟高が敷地全体の中で一番高くなっており、奥行も深い。平面は大庁も客庁と同様に、中央に広間をもち、左右に寝室が配される。奥行が深いことにより、左右の寝室はさらに、前後に分けられ計四つの部屋で構成される。一つの広間、四つの部屋からなることから「四房一庁」と呼ばれる。そして、寝室には、「擱楼(かくろう)」と呼ばれる中二階が屋根裏に設けられ、物置として利用される。
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図(3)厦門の四合院・・・厦門の四合院はきわめて左右対称である。中央に設けられた大門は、冠婚葬祭などの際に開放された。住人は日常、左右にある「辺門(脇門)」を利用した。 |
図(4)祖先が祀られる祖堂・・・祖堂の正面に祖先が祀られる。そして、左右の壁に沿って椅子が並べられていた。 |
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図(5)州の街屋・・・この街屋は二間の間口をもつ。北側に運河があり、もともと店舗併用住居であったと考えられる。
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大庁の中央にある広間を祖堂といい、祖先が祀られる。図(4)かつては、三代から四代前の祖先の位牌が並べられた。頭上を見上げると、棟木の中央には八卦が描かれている。写真(6)これには、天上から入ってくると考えられている悪い気を封じるという意味がある。
図(3)では奥行はここまでだが、さらに後庁がつくものがある。後庁に面した中庭は、大庁に面した中庭よりも小さい。棟高も低く、奥行も浅い。が、部屋の構成は客庁、大庁と何ら変わりない。
これらの主屋群の外側には、「護 (ごせき)」という付属屋がつく。主屋群に沿って一列に並び、基本的に間口は三間である。付属屋に面した中庭は、間口三間ごとに壁が入り見通せないようになっている。付属屋には使用人などが住んだ。
ここまで見てきて、便所がないことに気付く。便所は、「馬桶(マートン)」と呼ばれる蓋のついた桶で各寝室に置かれ、そこで用を足す。かつては、定期的にくる農民に売っていたという。
写真(4)前庭からみた客庁・・・北京などの大都市と比べ、厦門では分割が進んだ今日でも前庭や中庭に増築した建物が建てられることは少ない。 |
写真(5)大庁と廂房・・・大庁の広間は間口いっぱいに木扉が並ぶ。全て開け放つと、祖堂が中庭からも一望できる。 |
写真(6)棟木に描かれた八卦・・・悪い気は高い場所から入ってくるといわれる。 |
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