日本財団 図書館


II. 平戸とポルトガル
1. ポルトガル貿易の概要
 13世紀の末、マルコポーロの『東方見聞録』によって黄金の国ジパングとして日本が紹介されてから、世界の目は東洋に集まりました。その後積極的に海外政策に着手したポルトガルはバスコ・ダ・ガマの喜望峰廻りインド進出を機にマレー半島、中国沿岸に基点を得ることに成功しました。
 そしてはじめて日本(種子島)の地を踏んだのが1543年(天文12)のことです。
 当時のポルトガル国王ドン・ジョアン3世は当初この極東地域を一種の辺境とみなし、香料の産出で有名なモルッカ諸島に主たる関心を注いでいたため、日本に来航するポルトガル船も私的商船でした。しかし政府は日本貿易を観察し、その利益が莫大であることに着目すると、それに誘発されて中国沿岸の寧波に根拠地を設け、日本貿易を大資本のもとに着手することにしたのです。
 ポルトガル人が日本貿易に参加するということは、中国人の商売敵になるものでしたが、たまたま状勢は変転しました。当時倭寇と称せられる日本人の暴力的海商(海賊)の活動が全盛期をむかえ、中国沿岸諸地方を盛んに破壊していたのです。その結果1550年代には中国人の日本渡航は停止され、日本人もまた海外に出るものが稀となり、ポルトガル人にとっては思いがけない好機が訪れました。彼らの日本貿易は、中国人に代わり中国産の生糸を日本に運び、日本の銀を中国に運ぶという「肩代わり貿易」で、幸運にもそれを独占することが出来たのです。ちなみに16世紀日本・ヨーロッパにおける金の銀に対する価値比率は10倍〜15倍というのが相場でしたが、中国では特有の商慣行のせいもあって金・銀の価値にそれほど大きな差異はありませんでした。すなわち、日本で安く手に入れた銀は中国市場においてはね上がり、多額の利益をもたらしたというわけです。
 しかしポルトガルの独占貿易も永くは続きませんでした。なぜならば17世紀に入るとオランダ、イギリス、スペインが日本貿易に参入しようと、あらゆる手段を使い日本幕府に働きかけを行うようになります。それに加え徳川幕府のキリスト教禁止政策の中、ポルトガルは貿易とキリスト教の布教を切り離すことがでず、ますます不利な状況に陥りました。そして1637年島原においてキリスト教徒を主とした農民の一揆がおこると、益々幕府のキリスト教徒、及びポルトガル人に対する憎悪は高まり、結局1639年にポルトガル人の来航が禁止され、約97年間に及ぶ交流に終止符がうたれました。
 
*主な輸入品 生糸、絹織物、びいどろ、白粉、陶器、麝香、鉛、砂糖
(輸入品のほとんどは中国、南洋の物資であり、ヨーロッパの品々は諸侯への贈答品としていました。)
*主な輸出品 銀、小麦、漆器、船材
(日本からの積出しは銀が大半を占め、その船を「銀の船」とさえ云われたほどです。)
 
2. 平戸におけるポルトガルとの貿易
 中国人海商王直の手引きによりポルトガル船が初めて平戸に入港したのは1550年(天文19)ドワルテ・ダ・ガマの船でした。時の領主松浦隆信(道可)は中国貿易の経験により、外国貿易の有利なことを知っており、大いにこれを歓迎し、貿易と分離することの出来ないキリスト教の布教も認めました。宣教師フランシスコ・ザビエルの平戸布教もこのときです。1553年以後は毎年1隻から2隻のポルトガル船が来航し、1557年からはポルトガル政府の官許船が入港するようになると、やがて平戸には京都、堺の豪商はもとより、多くの商人が集まり「西の都」と呼ばれるほどの賑わいを見せました。
 しかし、領主松浦隆信はポルトガル船の入港は歓迎しましたが、かならずしもキリスト教に好意を抱いていたわけではなく、布教活動が盛んになると、そこに複雑な関係が生じるようになりました。宣教師の処遇で仏教徒との板ばさみになり、加えて1561年には言語不通が原因でポルトガル人と日本人の間に争いが起こり、ポルトガル船長以下十数名の死傷者をだす事件(宮ノ前事件)が生じました。その結果ポルトガル船は平戸を出て大村横瀬浦、福田港を経て長崎に移るに至りました。こうして平戸の対ポルトガル貿易は15年間で絶えることになりました。
 
「松浦隆信(道可)画像」
江戸時代後期の写し
 
 この間平戸における布教の信望は極めて厚く、ポルトガル船が平戸を去った後も信仰は衰えることがありませんでした。しかし1587年(天正15)豊臣秀吉のバテレン追放令に始まったキリスト教に対する弾圧は、江戸時代に入ると益々厳しさを増し、キリスト教徒は表面跡を絶ちひそかに潜伏切支丹として信仰を続けました。
 明治初年信仰の自由を許されてから、多くの潜伏切支丹はカトリック教会に属し自由の信仰に入りましたが、弾圧当時の永い伝統と風習を守り続ける信者は「カクレキリシタン」と呼ばれ平戸・生月地方には現存しています。
 
「豊臣秀吉バテレン追放令」
天正15年(1587)
 
3. ポルトガルが日本文化に与えた影響
 ポルトガル貿易は16世紀から17世紀にかけ、日本文化にも多くの影響を及ぼしました。その中で代表的なものが、科学(火薬式鉄砲・医学・航海技術)、教育(セミナリオ・コレジオ)、印刷技術、美術(教会建築技術・洋画・銅版画)、芸能風俗(オルガン・ヴィオラなどの楽器類、演劇)、食生活などです。その多くはイエズス会を中心としたポルトガル宣教師たちにより伝授されましたが、彼らにとって幾多の危険を冒し極東の地日本までも旅立たせたのは、やはりキリスト教の布教という情熱にほかならなかったのでしょう。
 最後に16世紀後期、いかにポルトガル風俗が日本中に浸透したかを物語るものとして、日本語化したポルトガル語を紹介いたします。
 
羅紗(らしゃ) 合羽(かっぱ) 襦袢(じゅばん) 弁柄縞(べんがらじま) 更紗(さらさ) 牛肉(わか) マント ビードロ ビロウド カルサン 石鹸(しゃぼん) ビスケット メリヤス 大平(ちゃるめら) 南瓜(ぼーぶら) カステラ フラスコ パン 煙草 カナリヤ 金平糖(こんぺいとう) ボーロ 釦(ぼたん) カルタ
 
参考引用文献 日葡交渉史 松田毅一著
ポルトガルと日本 ジョアン・パウロ・オリヴェイラ・イ・コスタ著







日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION