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ラーヤ・トゥール地域の考古学的調査(2002年度)
川床睦夫
 われわれは、1978年以来、「東西海上交流史の実証的研究」、「エジプト・紅海地域の物質文化研究」、「イスラームの都市生活史研究」を主要課題とし、フスタート遺跡、トゥール・キーラーニー遺跡、ラーヤ遺跡・アイザーブ遺跡(以上エジプト)、バーディゥ遺跡(スーダン)などの発掘調査を実施してきた(川床睦夫『エジプト・イスラーム考古学25年史 中近東文化センター イスラーム・エジプト調査隊の歩み』中近東文化センター、2002年)。
 2002年度の調査は、東西海上交流史における「海のネットワーク」と「陸のネットワーク」の有機的関係、港機能移動のメカニズムを実証的に研究するための資料を蓄積することを目的とした。
 この目的を達成するために、2002年7月27日から9月12日、そして12月24日から2003年1月4日まで、ラーヤ・トゥール地域(図版1、2、カラー図版1−1)の考古学的調査を実施した。港市ラーヤ遺跡の発掘調査(第6次)、ワーディー・アットゥール修道院遺跡の形質人類学的調査(第2次)、両遺跡の保存補修作業、港市キーラーニー遺跡上の近現代建造物の保存補修計画、ナークース山岩壁碑文群調査(第2、3次)、そして出土遺物の整理・研究を実施した。また、モスクから発見された数千点におよぶ壁画片の接合作業を実施した(43〜51頁)。さらに、調査期間中にポータブル蛍光X線分析装置を用いて、ガラス、コイン、壁画顔料、陶器の化学分析を行った(53〜65頁)。
 最も多くの時間を費やしたラーヤ遺跡の発掘調査では、城塞内モスク周辺の発掘に集中した。モスクを含む街区を確定し、モスクの建設年代、街区の成り立ちなどを明らかにする資料を収集することを目的とした。
 なお、1987年以降、われわれはトータル・ステーションとコンピューターを用いて層位、出土遺物、出土状況、そして遺構を3次元座標上に記録する方法を採用し、さらに写真測量による遺構平面図、立面図、発掘状況図の作成を実施している。掘りあがった遺構と出土品のみならず、発掘過程をも後世の資料として保存するためである。
 
調査隊員会議記念写真 (2002年6月28日) 前列左から3人目 イスラーム・エジプト調査委員会 名誉委員長 三笠宮崇仁親王殿下 前列左から2人目 委員長 櫻井清彦 前列左から1人目 調査隊長 川床睦夫
 
 
港市ラーヤ遺跡の発掘調査
 ラーヤ遺跡はトゥール市の南約10kmに位置する港市遺跡である。トゥール・キーラーニー遺跡と立地条件はおおむね同様で、小さな入江の北奥に遺跡が位置する。北と西は東の半島本土から伸びる岬の陸地で遮られ、南に向かって開かれている(図版3)。
 ラーヤ遺跡はおおむね平坦だが、海岸線から北東方向に向かって緩やかに高くなっている。海岸線から約200m離れた標高約10mの地点に城塞1がある。城塞は南北軸に対して約30度振れた基準軸を持つ。城塞の下には、同じ方向性で北西から南東に帯状に続く約150m幅の公共建造物群がある。そして海岸部西部には居住区と考えられる地区が広がっている(図版3)。
 われわれは、1997年の第1次調査時に城塞から海に向かって数箇所で試掘を行い、第2次調査から城塞部の発掘に専念した。以降、第3次調査までに、城塞部の規模が明らかとなったので、第4次調査から城塞の性格を明らかにするため、特定地区の掘り下げを開始した。その結果、正門、東門、中央街路、複数の街路、モスク、井戸遺構などが発見され、城塞の概要が明らかになりつつある(図版4)。
 2002年度は、城塞内部のモスクの南東方にある建造物ブロック15と北東方にある建造物ブロック18、両建造物ブロック2を囲む街路、そして正門第2門から中央街路(カラー図版1−2)を精査した(図版5)。
 
[正門と中央街路]
 海に面する城塞の南西外壁に正門(図版6、写真1)が設置されている。正門はタワー1とタワー9によって構成される塔門である。2つのタワーは幅が約5.70m、奥行きは約8.45mである。タワーの外面に沿って第1門があり、タワーの内面近くに第2門がある。2つの門は石灰岩造の門柱を持つ。門柱間の幅は1.45m、第1門と第2門の距離は5.63m(北東側は5.64m)である。2つの門に挟まれた空間(タワー1と9の間隔は2.96m)は衛兵の詰所の機能も持っていたと考えられる。空間の両側、第1門と第2門の門柱間にはタワーの壁に接して奥行き約70cmのベンチが設置されている。ベンチ間の間隔は、第1門側が1.56mで、第2門側が1.78mである(写真2)。第1門の扉は上下開閉式で、ブロック状に成形された石灰岩を組合せて造った門柱には扉がスライドする溝が切られている(写真3)。第2門の扉は前後開閉式で、玄武岩製の敷居石には軸受け穴が確認される(写真4)。
 門柱間の空間の覆土の堆積は、上部ではタワー1から9に向かって緩やかに傾斜しているが、下部4層(ベンチ間の部分)はおおむね水平で、頻繁な人の歩行の痕跡を示している。断面図中央部に見られる窪みは城塞内部から外部に続く溝で、雨水などが流れた痕跡である(写真5)。
 中央街路(図版7)については、その堆積状態を確認するために、正門から第5タワーに向かって南東半分を1999年に発掘した(写真6)。今次調査では北西半分の発掘を実施した。街路面は9面あり、第3面まで発掘を終了した。その結果、中央街路は正門からモスクを含む街区が終わるあたりまで、緩やかに上昇することが確認された。第2門敷石のレベルが、6.996mで、第3面のレベルは、正門第2門を入った所で7.299m、街路4との交点で7.358m、モスク正面玄関で7.397m、街路5の手前で7.678m、すなわち、約100分の1.5勾配である。
 中央街路は城塞内で最も広い街路である(写真7)。正門第2門を入った部分の街路幅が2.18m、街路4の手前で2.35m、モスクの部分で4.47mである。中央街路が街路5と交差する地点付近、すなわち建造物ブロック18の部分では6.97mに広がり、広場の様相を呈する。しかし、部屋22−9の部分で急に狭くなり、1.80m程度になる。
 中央街路は特別な街路である。モスクに相対する側の第3面では、部屋3−10、3−9、3−8、3−12、10−1(写真8)およびモスク側の部屋18−5、18−6の戸口前にポーチ状の張出し構築物が確認された。日干レンガ1枚幅または半枚幅の長方形の枠が戸口から張出している。
 中央街路の手前から見てゆくと、部屋3−10のポーチ状遺構は半枚幅の枠で、内部にはレンガ、石灰岩板、モルタルが敷き詰められていた(写真9)。遺構の戸口側南西端には石灰岩製礎石が置かれ、その上に大理石製柱基が設置されている。その上には大理石柱が立てられていたが、街路中央部に向かって倒れている。一方、北東端には礎石の痕跡はあるが、すべて失われている。立面図を見ると、戸口が2本の柱の間に存在したことが明白である(写真10)。
 部屋3−9のポーチ状遺構は1枚幅の枠の半分が残存している。部屋3−8では確認されなかった。
 部屋3−12のポーチ状遺構は半枚幅である。枠の内部にはレンガが一枚残っているが、その他は抜き取られていた。部屋10−1は1枚幅で、内部にはレンガが2枚残っているのみであった。なお、部屋10−1の戸口脇の北東端にはヤシの柱が立てられていた(写真11)。
 2003年に実施する予定である建造物ブロック3および10の内部の発掘調査は、ポーチ状遺構の意味を明らかにすることであろう。
 
[街路網と街区]
 街路はまさに都市の血管である。一辺約84.5m四方の城塞内には、8本あるいは9本の街路が設けられている。主要街路は中央街路で、城塞南西壁中央部に設置された正門から真直ぐに北東壁中央部のタワー5に至る。
 そして、南東壁の内側に街路1、北西壁の内側に街路2、北東壁の内側に街路3が走っている。中央街路はタワー5の手前で街路3に直交する。左に曲がると、街路2に直交する。しかし、右に曲がると、街路3は街路1に通じていないようであった。以上が2001年度までに、明らかになった状況である。
 今次調査では、1999年に発見されたモスクを含む街区がどのように構成されていたかを明らかにすることを目標のひとつとした。このために周辺の街路と考えられる部分を精査し、街路1と街路4のT字状交差部(写真12)、街路1と街路5のT字状交差部(写真13)、中央街路と街路4(写真14)および街路5(写真15)とのT字状交差部を明らかにした(図版5)。
 街路1は建造物ブロック15と14の間を走る街路で、1.67m〜1.88mの幅員である。街路4は中央街路のモスク手前から東門に向かって走る街路で、1.34m〜1.74mの幅員である。また、街路5は中央街路と街路1をつなぐ街路で、建造物ブロック15、18と建造物ブロック19、22の間を走っている。幅員は1.98〜2.02mで、中央街路に次ぐ広さである。
 この結果、モスクと建造物ブロック15、18、20が、中央街路と街路1、4、5に囲まれた街区を構成していることが明らかとなった。
 
[建造物ブロック15]
 建造物ブロック15はモスクの南東方向にある10室からなる建造物ブロックである(図版8)。このブロックは、現時点では性格が明らかにされていない約13m四方の空間をモスクに改築するためにできたキブラ壁と長い三角形状の部屋20−2、20−3の南東方に位置する。この建造物ブロックの南西部は街路4、南東部は街路1に接する(写真16)。
 建造物ブロック15の10室は3つまたは4つのユニットに分けることができる。街路4側から部屋15−8〜10、部屋15−1〜3、5〜6、そして部屋15−4、7がユニットをなしている。
 部屋15−8〜10(写真17)が構成するユニットの出入口は15−10にあり、街路4に面している。15−9と15−8の北東部にはレンガが敷き詰められている。15−8が階段室(写真18)で、地階床面や街路面より高い部屋の床面である可能性があるが、部屋の性格は不明である。15−8は街路1側に窓あるいは狭い出入口(写真19)を持っている。
 部屋15−1〜3、5〜6はひとつまたは2つのユニットを構成している(写真20)。部屋15−6は15−2と15−3に通じる出入り口(写真21)を持つが、倉庫であろうと考えられる15−3(写真22)との出入り口は後に炉で塞がれた。15−2(写真23)は寝室などの機能を持った部屋であると考えられるが、南隅では炉と厚い灰層(写真24)が検出された。
 部屋15−5は15−6に隣接する歪な部屋(写真25)で、2つの部屋のL字状間仕切壁が建設当初から存在したものか、後に付加されたものかは今後の発掘結果を待たなければならない。L字状壁体の西の隙間が15−5と15−6を繋ぐ出入り口(写真26)である。
 部屋15−1(写真27)は南東壁の東端に15−6に通じる出入口を持っている。また、南隅には意味不明の張出し部がある。
 部屋15−6はこのユニットの主要な部屋(写真28)である。この部屋は街路1に面し、2つの戸口を持っている。最初に南の戸口(写真29)が作られ、街路面が高くなった時期に北の戸口がつくられたようである。部屋の東隅にはこの戸口に至る階段が設けられている(写真30)。東隅には、階段の一部を覆うように炉(写真31)が造られている。また、西コーナー部は小部屋状に南に張り出し、そこに15−1への出入口が設けられている(写真32)。
 部屋15−7と4が構成するユニット(写真33)は複雑である。現時点では、部屋18−1、7との繋がりが不明である(写真34)。15−4は倉庫あるいは廃棄物置き場として使用されたと考えられる。ガラス器片、陶器片、石製容器片など738点の登録遺物とその数十倍の小破片が発掘された(写真35)。15−7の北東壁側には間仕切られた小空間がある。小空間はさらに2分割され、内部はプラスターで上塗りされている(写真36)。また、東の小空間からは1本の土管(写真37)が15−7の主空間に傾斜するように設置されている。
 なお、この建造物ブロックの最終床面はまだ検出されていないので、結論は発掘完了時に譲ることとする。
 
[建造物ブロック18]
 建造物ブロック18はモスクの北東壁に接する建造物ブロック20の北東にある7部屋3からなるものである。この建造物ブロックは中央街路そして街路1と街路5に接している(図版9、写真38)。これらの部屋は部屋18−5、18−6と18−7を除くと、街路5に戸口を開いている。
 部屋18−5と18−6は中央街路に戸口を開き、北西外壁の外に2部屋共有のポーチ状張出しを持っている。この2部屋は中央街路面の間口は狭いが、奥に向かって細長く、奥には間仕切り壁が設けられている(写真39)。また、中央街路はこの部分で最も広く、広場上の空間となっている。これらの事実はこの2部屋が店舗であった可能性を示している。
 部屋18−7は街路1側に玄関を持っている。部屋内部の状況は極めて複雑であるが、今後の調査で明らかにされるであろう。
 上記3部屋以外の部屋18−1、2、3、4は、広めの街路5側に戸口を持っている(写真40)。間口の広い18−2は2つの出入口を持っている(写真41)。
 部屋18−4は1室で成り立っている。この部屋はナツメヤシの柱が倒壊した部屋(写真42)で、602点の登録遺物が出土した。
 部屋18−3は部屋のほぼ中央部に新しい時期の間仕切壁が確認された。しかし、古い時期には間仕切壁は存在しなかった。この部屋からは多数の遺物が発見されたが、特に重要であるのは出土した屋根材である(写真43)。城塞内部の建造物の屋根材はナツヤシ材とドームヤシ材が一般的である。ヤシの幹を梁とし、その上に繊維を綯って作ったロープで繋ぎ合せた枝を敷き詰める。さらに、その上に葉あるいは葉を編んで作ったムシロを敷き、泥モルタルで固めるのである(写真44)。
 ここで発見された屋根材はナツメヤシの枝に穴を穿って、その穴に別の枝を差し込んで繋ぎ合わせているのである(写真45)。なお、この部屋は部屋20−5に通じる出入口を持っている。
 部屋18−2は広い部屋で、日干レンガ造の角柱がある(写真46)。上から見ると柱には円柱を立てた穴があいている(写真47)。
 部屋18−1は15−4に通じる出入口を持っていたが、すぐに塞いで塗り込められた(写真48)。
 建造物ブロック18は建造物ブロック15、20と同様、最終床面までの発掘は完了していない。今後の調査の結果を踏まえて、考察を加えることとする。
 
 
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