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2003/03/03  産経新聞朝刊
【日本よ】イラク戦争をどう捉えるか
石原慎太郎
 
 誰しも、どこにも戦争を好む者はいはしまい。しかし予告の上に準備を重ねて用意された戦争には、突発して起こる事件を契機に勃発(ぼつぱつ)する戦争よりもその目的なり意味合いは周知され、それへの冷静な判断を導きやすいものと思われるが、アメリカのイラク進攻に関する今日の是非論議はおよそ逆の現象を呈している。それは多分、尊大なるアメリカのする戦争故に、ということだろうが、今日の世界的論議の態様はもはや本来の目的なり意味合いからはるか離れて短絡的に反米、親米といった情緒的次元での判断になってしまっているとしかいいようない。
 これは世界にとって危険な兆候で、巨大なるアメリカヘの反発は心情的にはあり得ようが、問題の本質から乖離(かいり)して後々、ほぞを噛む結果を招来しかねまい。ことの本題はあくまで多量殺戮(さつりく)兵器の拡散使用の阻止である。
 すでにそれをクルド族の制圧のために行使した前歴のある、先の湾岸戦争の当事者でもあるイラクへの制裁と規制がすでに重ねて行われてきたにもかかわらず、国連の安保理決議をふくめて十七もの決議の履行を一向に果たしていないイラクという国の存在の、世界に及ぼす危険性の除去こそが本来の目的なのではないか。
 しかしアメリカの大仰な戦争準備がさまざま視覚的に報道されるにつれ、本来の目的から外れてアメリカが行おうとしている「戦争」そのものだけが批判と指弾の対象になってしまい、その是非を論じるとき、ただ「戦争」の是非のみを問う一種魔女狩り的な雰囲気になってしまった。
 先般もあるラジオ番組で対イラクの進攻の是非を問われ、その本来の目的の意味合いや、戦いが行われた後の被圧迫民族の解放、イラクに限らず腐敗しきったアラブ産油諸国の政治の民主化や、原油価格の凋落(ちようらく)による世界経済再生へのプラスなどを挙げて説明しても、ただ、石原は「戦争」に賛成だというくくりかたでの聴取者の意見聴取という、いわば吊(つる)し上げのキャンペーンに仕立てられていた。
 アメリカが準備を進めている戦争を回避するためにはイラクが自分自身で武装解除しなくてはならぬが、それが有り得ぬなら世界全体が結束して行動する以外にありはしまい。ならば現況下、査察がなお続けられその結果イラクの世界への背信が証し出されたときには、今は反対しているフランスやドイツが果たしてアメリカに協力して世界の癌(がん)として証しだされたイラクの制圧に乗り出すことがあるのかどうか。
 もしアメリカが今日の国際世論に折れて早期のイラク進攻を思いとどまるとするなら、(私は出費がかさんでもその方がアメリカにとっても好ましいと思うが)それを強く求めたフランス、ドイツ、ロシアといった国々はやがてイラクの不実が立証されたとき、今度は望んでイラク制裁に協力するということを、今この時点で査察続行のための条件として世界に明示すべきだろうに。それは国連の抵抗と権威維持のためにもなろうが。
 過去十二年間での査察継続によるイラクの封じこめの失敗は、十七の国際社会からの要望への不履行という事実ですでに証明されているのではないか。
 反戦運動という、人間の本能的観念的な戦争への忌避行動の持つ危うさについて毎日新聞紙上では高畑昭男氏が、ナチス・ドイツとの戦争を恐れた国民の民意を背にヒトラーとの交渉に屈して一時期戦争を回避し歓呼して故国に迎えられたイギリスのチェンバレン外交の歴史的誤りや、一九八〇年代の欧米での反核運動が結果としてソヴィエトの核配備を促進させた誤り。そしてそれに屈しなかった欧米の指導者の決断が、中距離核全廃のいわゆるゼロオプションを導き出した事例を引いて冷静な警告を発しているが、何が何でも一途の「反戦」という観念に堕した運動の持つ危うさを我々は悟り直してことに臨むべきに違いない。そして対象となっているイラクという国はあくまで非人間的な独裁国であり、自らの存続のためには手段を選ばぬ相手であるということを再確認すべきだろう。
 さらにまた日本は他国とも違って、隣にイラク同様前近代的な異形な独裁国北朝鮮を持ち、すでに百人を超す同胞を拉致殺害され、膨大量の麻薬や覚醒(かくせい)剤を一方的に国中に散布されているという被害を甘受させられつづけているという事実を併せて考えなくてはならない。そしてその北朝鮮は唯一、イラクにスカッド・ミサイルの重要パーツを補給しつづけてきた、まさに同じ枢軸のうちにある国家である。
 そして今日、北朝鮮は核兵器保有に繋がる核の開発を揚言してはばからない。そうした多量殺戮兵器が万一この日本に向けて使用されるとき、我々は従来の一方的なアメリカ信仰に依る人任せの結果、それを自分自身で効果的に阻むいかなる手段も持ち得ぬままでいる。
 北朝鮮との紛争が爆発したとき、アメリカが責任をもって日本の防衛に乗り出すなどという保証は、安保条約のどこにも明記されてはいないのだということも、そろそろ日本人は知っておいた方がいい。もし北がかねて揚言しているように日本を火の海にしようと乗り出したときの生殺与奪の権はアメリカだけが持ってい、外部からの侵攻での日本の滅亡に同情的な国は実は周りに一つもありはしまいということも。
 我々は敗戦後このかた安易な人任せによってこの国家をこんな体たらくに仕立ててきたのだ。イラクへのアメリカの進攻をどう捉(とら)えるかという問題には、実は我々自身の安危が地下水脈として繋がっているという事実をようやく知るべき時ではあるまいか。
 天は自ら助ける者をしか助けはしまい。
◇石原慎太郎(いしはら しんたろう)
1932年生まれ。
一橋大学法学部卒業。
東京都知事。
 
 
 
 
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