2003/04/08 産経新聞朝刊
【斎藤勉の眼】イラク戦争 繰り返される歴史の教訓
■独裁崩壊には血のにおい
古今東西、二十世紀だけを見ても恐怖統治で鳴らした独裁政権が軍事力やクーデター、暴動など暴力によって打倒されなかった例はまれだ。自ら民主体制に変身しえた奇特な独裁王朝もない。歴史のこの教訓は、今回また、イラクで如実に裏付けられようとしている。
米英軍は七日、大統領宮殿などバグダッドの心臓部に突入、フセイン政権の命脈は実質的に尽きた。しかし、西側通信社は六日の時点でイラク南部の要衝・バスラ近郊や反体制・シーア派イスラム教徒の聖地・カルバラでフセイン大統領像が民衆に引きずり倒される写真を世界に配信した。
独裁者にとって、その個人崇拝のシンボルである巨大な銅像が公然と撤去される事態に至ったとき、その政権はもはや風前のともしびといってよい。
十二年前の真夏の夜、モスクワの国家保安委員会(KGB)前広場で人権弾圧の象徴だったソ連秘密警察の創始者、ジェルジンスキー像が撤去された時点で、ソ連帝国は脳死状態に陥った。
ブッシュ米政権は今月に入り、フセイン政権のスターリン主義体制としての本性がむき出しになったような「戦争犯罪」の例を公表した。
米英側に投降を試みたイラク軍将兵を処刑・殺害し、バスラから避難しようとした数千人の住民に背後から機関銃や迫撃砲を発砲し、フセイン政権批判者や米中央情報局(CIA)への協力者は舌を切って処刑した−などだ。
極めつけは、イラク南部ズバイル郊外でイラク軍が放棄した基地内の倉庫から頭蓋骨(ずがいこつ)に銃弾痕がある数百体の白骨遺体が発見されたことだ。十五年前に終結したイラン・イラク戦争の戦死者返還協定に基づき、イラン側が最近、イラク側に返してきたイラク兵の遺体との説もある。一方で遺体発見現場の脇には拷問装置付きの建物もあり、フセイン政権によるイラン兵、イラク兵のいずれか、あるいは双方に対する集団殺戮(さつりく)の可能性も捨て切れない。
もし後者なら「イラク版カチンの森事件」だ。一九三九年九月一日、ヒトラーが西方からポーランドに侵攻して第二次大戦が火を噴くや、スターリンも東方からポーランドに軍を進め、ロシア帝国の領土だった西ウクライナと西ベラルーシをあっさり奪回した。
赤軍(ソ連軍)はこの過程で二万五千人を超すポーランド将兵を捕虜にしたが、スターリンの右腕の秘密警察長官ベリヤは四〇年三月、「ポーランド捕虜には民族主義的反革命メンバーがいる」とスターリンに「銃殺」を認めさせ、二万二千人近いポーランド将兵を銃殺した。
このうちベラルーシ・スモレンスク州近郊の「カチンの森」で四三年四月、四千四百体の虐殺遺体がヒトラー軍によって発見されたが、スターリンは「ドイツ軍による犯行だ」と罪を着せ、ゴルバチョフ時代になってやっと真相が公表された。「スターリニズム」の象徴的事件である。
スターリンは三十年余の独裁治世でソ連を超大国に押し上げた。しかしスターリンに始まるクレムリンの軍事力最優先主義はブレジネフをしてアフガニスタン侵攻という無謀な冒険に走らせ、国家財政は疲弊した。さらに米国の軍事技術の粋を結集した戦略防衛構想(SDI)にもソ連は太刀打ちできず、結局「冷戦」に敗れてソ連は自壊した。独裁超大国・ソ連は広義では米国の軍事力の前に消滅したのだ。
スターリンに追い詰められたヒトラーは地下壕(ごう)で自殺、ムソリーニはパルチザン部隊に処刑された。
フィリピンのマルコス大統領は八六年二月、民衆蜂起などにより、国外逃亡という形で二十年余の独裁王朝に終止符を打たざるをえなかった。
ルーマニアのチャウシェスク大統領はベルリンの壁崩壊直後の八九年十二月、一時間だけの特別軍事裁判でエレーナ夫人ともども銃殺刑に処された。その贅(ぜい)の限りを尽くした大統領宮殿はフセイン大統領のそれと酷似している。コソボ紛争での「民族浄化」で悪名をはせたミロシェビッチ元ユーゴスラビア大統領は今は国際戦犯法廷の被告人席に座る。
独裁支配の末期には常に血のにおいが漂う。
(編集特別委員)
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