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2003/05/27 読売新聞夕刊
[イラク戦争からの問い](2)ホッブズの世界 帝国型防衛迫られる(連載)
 
 米・新保守主義の論客、R・ケーガンが単独行動主義を肯定した昨年六月の論文「力と弱さ」には、<ホッブズの世界>という言葉が頻出する。ホッブズは、宗教戦争の渦巻いていた十七世紀英国の思想家。人々を威圧する共通の権力が存在しない時には、<各人の各人に対する戦争がつねに存在する>と論じた。この状態を克服するため、秩序を守る近代国家が確立され、国連などの国際機関も生まれてきたわけだが、ケーガンは十七世紀に立ち帰るかのように、軍事力による威圧が不可欠な<ホッブズの世界>という現実認識を強調する。
 この展開を見通した本が実は十年前に出版されている。国際テロなど非国家主体と国家間の紛争に着目した桜美林大学教授、加藤朗の『現代戦争論』(中公新書)。兵器や航空技術、宣伝に利用できるメディアなどの発達はテロの暴力性を拡大・激化させた。だが国境を超えたテロに対して、国家による抑止は困難を伴う。新たな管理システムを構築しなければ、<世界はホッブズの「万人の万人に対する闘争」の無秩序な状況に陥ってしまうだろう>――。懸念は9・11同時テロで的中した。
 米国による以後の軍事行動について、加藤は、国境を超えたテロに対抗するため、「近代国家による線的な『境界防衛』から帝国型の『辺境防衛』に転換しているのではないか」と分析する。かつての中華帝国のように、いわば中原である米本土の防衛を強化するとともに、夷狄(いてき)であるテロリストを辺境に遠ざけ、姿が見えれば追い払う。「砦(とりで)を築き、何かの時には騎兵隊が出ていく西部劇のイメージにも似ています」。前近代的にも見えるが、それを地球規模で展開している点で、米国は新たな世界帝国に変貌(へんぼう)しつつあるとも言える。
 米国の“帝国化”をめぐり、グローバル化時代ならではの反発も見られる。イラク戦争に対する反戦デモの情報は携帯電話のメールなどで次々に転送され、世界各地で予想を超える規模のデモが続いた。インターネットには空爆におびえるバグダッド市民の書き込みや戦場写真があふれた。国際大学グローバル・コミュニケーション・センター助教授の土屋大洋(もとひろ)は「こうした運動は、特に仏独の世論を反戦へと導き、政府の方針に影響を与えた。ネット上の議論が一国の政府を超えた支配的言論として結実すれば、けん制勢力となり得る」と考えている。
 また、「軍事力は他国の協力がなくても行使できるが、経済は協力抜きだと何も動かない」と指摘するのは、昨年秋、『デモクラシーの帝国』(岩波新書)を刊行した東大教授の藤原帰一。グローバル経済下では、確かに単独行動主義には限界がある。仏の人類学者、E・トッド『帝国以後』(藤原書店)も米国の貿易収支赤字を例に、<アメリカは世界なしではやって行けなくなっている>と断じる。
 ともあれ冷戦終結後、情報・経済のグローバル化が図られ、国家の役割が相対化されたと言われた中から現れてきたのが、米国の“帝国化”だった。反発もあるが、東大教授の北岡伸一が述べるように<アメリカが(世界の)警察官の役割を返上してしまったら、誰がその代わりを務められるだろうか>(「中央公論」5月号)との問いは重い。
 理不尽なテロや民族・国家間の紛争――。<ホッブズの世界>はどうすれば克服できるのか。(敬称略)
 
 写真=原田晋「Window Scape - war『a tank』」
 
 
 
 
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