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授業につい変えるマンガとは
○谷川 フロアの方から、ご意見、ご質問がありましたら挙手をお願いします。
○会場 高校で数学を教えています。絵本やマンガやアニメは何かのテーマを表現するものですが、教室の教育活動にもねらいがありテーマがあります。我々現場の人間が、その教育のねらいに合っているテーマの絵本なりマンガをどのようにして選べばよいか、できるだけ効率よくしたいと思うのですが、何かいい方法があればお教えください。
○会場 私も高校の教員です。アニメの「サザエさん」は一番視聴率がいい長寿番組ですが、あれは長谷川町子さんのマンガで完成してますから、わざわざ動かさなくてもいいと思いますが。ちなみに私は、授業中に自分のキャラクターでマンガ描いて説明しております。
○谷川 最初の方の問題ですが、実は手塚治虫さんは常々、学校の教師たるものは自分の顔くらい自分で描けなきゃだめだと言っていました。黙れとかうるさいとか言うのでなく、自分の顔を黒板にかいて「黙れ」と書けば必ず生徒は黙る、口で言うより絶対強いというのです。だから、そのくらいの工夫はしなさいと言っていたのをよく覚えています。
 佐々木先生、絵本の場合はどんな観点で選べばいいのでしょうか。
○佐々木 そのためにデータベースを作っています。自我、自己形成、心、あるいは家族、遊びなど、大きい主題を280とって、分析して、データベースとして提供しているわけです。それを利用していただいて、五つくらいの項目をクロスして、例えば、いじめ、小学校低学年、女の子というように選ぶと、それに該当するデータが出てきます。また、近代絵本100年の中で現在でも読み継がれているものをいくつかに分けた本もございます。例えば、『絵本の心理学』『絵本と子どもの心』などです。
 先生方が教材として使われる場合は、やっぱり本人が徹底的に読むのが前提でしょうけれども、時間の関係がありますから、総合的学習に役立つマンガデータベースとか絵本データベースが絶対必要だと思っております。
○谷川 数学の世界でマンガを使うというと、学習マンガだったらあるかもしれないけれど、それではつまらないですね。一つ、「名探偵コナン」を使った数学の授業があります。小学校対象ですが、推理力、論理能力を養うためにコナンはすごくいいんですよ。殺人場面などはたくさん出てこないし。「金田一少年の事件簿」は結構そういう場面が出てくるので、学校で使えないのですが。
 ただ、僕の経験でいうと、マンガを使える学年っていうのは、実を言うと中学校、高等学校なんです。小学校は難しいんですよ、逆に。例えば、さっき私が話したように、マンガのアイデアを使って何か活動させることはできるんですが、マンガを読ませてそこから考えさせるのはすごく難しい作業なんですね。中身的には、自然科学系統はどうしても学習マンガみたいになるので、社会、国語、道徳などです。「家栽の人」という作品は、あれで少年犯罪の問題が全部できます。これは高校生対象にやりました。「ブラックジャック」でドクターキリコとブラックジャックが対立する話で、生命の尊厳の問題とかね。そういう価値判断をするような、あるいは意志決定するようなところにマンガはすごく使えるんです。僕の今までの経験の中でそう言えます。
○牧野 数学を扱ったり、初級英語を扱ったりする児童番組があります。(セサミストリート、ポンキッキなど)あそこでのアニメーションは数学にぴったりではないかというふうに思います。止まった絵よりアニメーションの方が活かされると思うんですね。「サザエさん」の方。実は私、20代の一定期間、現在も「サザエさん」を制作し続けている「株式会社エイケン」が独立する前の会社(TCJ)にアニメーターとして働いていたんです。おっしゃるように完成されたマンガをアニメ化するということは大問題ですね。しかし、これは好むと好まざるとにかかわらず作り上げられてしまっているので、別のものだとお考えになったらいいんじゃないでしょうか。長谷川町子さんのマンガには、タラちゃんの声とか、ワカメの声とか、サザエさんの声とかはありません。「サザエさん」というタイトルはつけていますが、絵も線もあらゆるものが違ってしまった別の「サザエさん」ができて、それがほかのあらゆる長寿番組をしのいで生きているわけですね。これは何か引きつけるものがその番組にあると考えなくてはいけない。ですから、同じものと思っていると腹が立ちますけど、長谷川町子さんの本来のマンガとテレビのアニメは別だ、物語構成の基本線や、雰囲気を伝えているだけだと解釈したらどうでしょうか。
 多少弁護しますと、アクションもので物を壊したり戦ったりというアニメの中で、「サザエさん」だけはそういうことが一切なく、ほとんど悪人が出てこないですね。流血もセックス描写も無い!朝日新聞という「場」に連載する、作者の厳しい姿勢でもあったわけです。
○谷川 「サザエさん」の場合はまたほかの問題もありますが。山本先生「サザエさん」に対してご意見ありますか。
○山本 見たことがありませんので、申し上げようがないんです。でも、「磯野家の謎」という本まで出ているということは、やっぱりそれだけ多数の読者がいて、人をたくさんひきつけていると思うんですね。何となくイメージからすると、昭和20年代か30年代の家族の雰囲気を表しているんでしょうか。
○谷川 山本先生のご専門は家族問題ですね。実は社会科の授業で「サザエさん」を使ったら、クレームがついたんです。昭和20年代、30年代の家族のイメージで、家事はお母さんがやるんだとか、家庭の役割を固定化しているのはおかしいという意見です。こういうことはよくあって、「ドラえもん」は東南アジアで人気がよくないけど、それはジャイアンなどがノビ太をいじめているんじゃないかということで反対の意見があると思います。
 河合先生は、何か意外と思われるような反応ってありませんか。
○河合 私のファンレターはほとんど大人から来るので、そのままストレートに理解してもらっていることが多いですね。
○谷川 先生のはそんなに暴力があるというものじゃないですからね。
○河合 ですが、やはり少年マンガですから、当初は競艇のギャンブルの部分はあまり描いてくれるなと、自主規制するような動きがあったんです。でも、公営ギャンブルは社会に存在しているものですから、その矛盾とまでは言わないけども、存在してるものをどうして隠さなきゃいけないのかというので、ギャンブルシーンも描こうと思い、それは押し通しました。送り手が理性を持ってやればいいのでは。
○佐々木 さきほど牧野さんが言われたように、アニメーションになると別物というのは、絵本もそうなんです。アメリカのウェストウッズが過去の著名な絵本をアニメ化しましたし、イギリスでも「ピーターラビット」が全部アニメーション化されています。ただ、言えることは、1本1本見て、これはうまくいってるなとか、これはつまらないとか判断するしかないような気がします。おもしろいのは、同じ話を、最初に絵本で読ませたグループと、アニメーションを見せたグループにどっちがいいか聞くと、どちらも最初の方がいいと言うのです。私は以前から気がついておりましたが、人間には、最初にインプットされたものがかなり大きい影響を与えるようです。
○牧野 「ムーミン」も、原作者がかいたペン画と、色がついた講談社の絵本と、アニメとそれぞれ違いますね。それは「北欧の民話がベースになっている」ということだけが共通していて、あとは違ってしまった。そういう違いを認識して、原作と絵本とアニメとを読み解くのも一つの「リテラシー」だと私は考えます。さっきの入れ子型の視点で、そういったものをまた上から俯瞰して判断していくと、マンガ作品や、アニメ、絵本を作っている過程も、環境も見えてくるわけですね。それは作品そのものではない、業界の体質とか、システムとか、あらゆるものがそこから見えてくるということです。否定してしまうより、それがあることに
 
残酷な絵を書くのは子供の本能
○会場 高校で国語の教師をして、夜間の大学院でマンガを研究しております。
 高校生にマンガになったものと原作とを比べて読ませて、アンケートをとったんですけれど、読み取りという点では、マンガのほうが3分の1ぐらいの時間でほぼテキストで読んだのと同じぐらい深い内容まで読めたという結果が出ました。しかし、それ以前に絵柄について、萩尾望都のマンガを使ったんですけれども、男子が女の子のマンガみたいだとか、萩尾望都のマンガでももう古臭いという意見が出て、非常にショックを受けました。こちらにマンガなら生徒はすべて喜ぶだろうという思い込みもあったのですが、絵柄というのはデリケートなものなのかなあということで、授業でマンガを使うときにはそこに神経を使わなければいけないと思っています。そういう男女差、絵の受け取り方、好き嫌いということで、何かお聞かせいただきたいと思います。
○河合 絵柄の好き嫌いというのは、本当に個人個人の好き嫌いですから、そういうのはあんまり気にしなくていいんじゃないかなと思います。ただ、少女マンガというのは、若干男の子には読み取りづらさというのはあるとは思います。少年マンガと少女マンガでは、文法というか表現の仕方に少し差があります。
○谷川 一般的に言うと、女の子は男ものも読むけれど、男は女ものを読まないです。
○牧野 精華大学の図書館には3万冊のマンガが入ってますが、それでもほんの一部ですよね。ですから、「タンクタンクロー」とか「のらくろ」のころは選択肢が非常に少なくて、日本じゅうの人が同じものを読んでいた。今は、4年生と1年生とで全く好みが違ったりする。【爆発的に増えてしまったマンガ作品の種類によって、多用で豊かな選択肢を持っている】ということなので、それでいいのではないかなと。もう一つは、今発言された先生がなさったような調査をもう一歩深めていただくと、そこに何かが見えてくるんじゃないかと。好みだけじゃなくて、少女マンガっていうのはなぜああいうものが描かれ、それをなぜ同じ女性たちが好むかというようなことは、まだほとんど究明されてません。ちなみに私は【四字熟語と一コマ・マンガ】に取り組んでいます。中国故事とか諺⇔例え話はほとんど四字熟語の中に込められていますから、それと一コマ・マンガを合わせたデータベースをつくろうと考えていますので、いずれ国語ともドッキングできるんじゃないかなと思ってるんですが。(世代による好みの違いに左右され難いマンガ表現)
○谷川 はい、どうぞ。
○会場 中学校で美術を教えています。これからの社会には絵で視覚的に自分の気持ちを表現することが必要かなと思って、四コマ・マンガやパラパラマンガを教材に選んでいろいろしています。最近気になるのは、四コマ・マンガは起承転結のストーリーでやらせているのですが、四コマ目の落ちで、けがをしたり死んだり車にひかれたりというのがよくあることです。すごくおとなしく頭もよく温厚な生徒が、すごく残酷な絵を描くこともあります。そういうのに遭遇した場合、私は一体どうその生徒に接していけばいいのか悩むことがあります。
○牧野 それを印刷して売り出すというわけではなくて、先生がその生徒さんと対話するために、そこにそういう四コマがあったとき、私だったら、「うわあすごいなあ!!ドキッとするよ!でも、これ描いてスキッとしたかい?」というふうに聞きますね。つまり、残酷な作品を作り上げてだれかに影響を与えようとしたのではなく、彼はそこにそういう落ちを描くことで、体の中にある心理的な澱を排泄しているんだと解釈します。こんなこと描いていいのかと思いながら、ドキドキしながら描いてるんですよ。「何これっ!」と言われるとまたストレスがたまりますから、「すごい!!」と言ってあげるのが一つの手かなと。そして「こういう落ちもあるけど、こういう持っていき方もあるよねっ」っていう指導の仕方があるのではないかな。そういうのを描くこと自体はマンガの本質だと私は考えています。私の研究テーマはブラックユーモアでして、それはみんなの心にあるどろどろしたもの、解決し切れないものを何とか形に出したいけれど、こんなもの描いたらいけない、恥ずかしいと日常的には自己規制しているのが、「マンガ」という手段を得て出てしまうんです。そのときに、びっくりしないで、これは「排泄物」と解釈する。おできの膿が出るように出てきたんだと解釈してあげるというのが、私のスタンスです。
○谷川 これは重要な問題なので、全員に聞きましょう。河合先生どうですか。
○河合 牧野先生のおっしゃられる通りだと思います。そういう残酷な絵を子どもが描くのは本能のようなものだと思いますし、まさに排せつだと思います。それをいけないものとしてねじ曲げてしまう方がよくない。ただし、それを想像することと、実際に手を下すことの違いを教えるのが教育じゃないでしょうか。
○山本 私も同じように思います。子どもには結構、残虐性というのがあると思うんです。それを描くことによって発散するということもあるでしょうが、逆に言えば一部ですが、描くことによってどんどん自分自身を強めていくという怖さもあるんですね。そちらの方に向かないように受けとめながら、いろいろな方向を示してあげるのが先生がなされるベきアドバイスではないかという気がします。
○佐々木 幼児教育の場合は、子どもがやったことに必ず「なぜそうなんだろうね」と言うのが鉄則です。コメントは与えないで、何があっても「どうしてそうなったんだろうね」というふうに聞きます。むしろ表現する子はいいので、表現できなくて内側にこもっちゃう子のほうが怖い。そういう意味では、マンガという形式が、文章では書けなかったことを表現させたということです。ですから、マンガを読むことは、同時にマンガによって自分を表現することに最後はつながっていくのかなあと思います。描くことがむしろ健康かなという気がしました。
○谷川 4人の先生方は肯定的でしたが、僕はちょっと意見が違うんです。中学校ということですが、今一番問題を起こしそうなのは14歳児と16歳児の男の子なんです。一般的にいうと、マンガなどの暴力描写に関しては二つの見解があります。一つは今出たように、ある意味で自浄力というか、表現することによって自分自身が楽になるというか、自分で納得するというか、そういう面がある。マンガ家の世界ではだいたいそれを支持します。一方、暴力描写があるからそれをまねしてしまうんだという意見もあるわけです。この二つめ理屈に関しては実証的な研究が全くないのです。私は、発達段階によるのではないかという仮説を持っています。幼児の段階で乱暴したってどうしたって、全然関係ないと思います。ところが、中学校2年生とか高校2年生ぐらいが、本当に殺すような場面を描いてきたとすると、ちょっとそれは考えなきゃいけないと思う。ただ見過ごすことはできないと思います。
 牧野先生はブラックユーモアについて話されたけれど、ユーモアで終わっている部分はいいんです。例えば、あるイラストレーターの一貫したテーマは嫁と姑の戦いなんですが、ナメクジの姑さんが寝てると、お嫁さんがお薬ですよと言って塩を持ってくる、というのがありました。これなんかユーモアだから見逃せます。そういうユーモアで終わってる部分はいいけれど、そこを越えていったら、子どもたちの中で問題が起こる可能性はあるという感じがします。一つも立証的ではないんですが。
○牧野 ブラックユーモアは、劇薬だと思うんです。劇薬を使うについては、医師や薬剤師の力量が要るんですよ。ですから、おっしゃるようにこれを肯定するについては、先生側の勉強も大いに必要であって、この子にこのブラックユーモアを与えていいのか、この子が描いているのは何かという分析が必要なんです。もう一つ大事なのは、私どもは小さいころにカエルを無残に殺したり、ザリガニを踏みつけたり、随分ひどいことをしました。そういう過程で【命】というのは大切なんだということを実感していくわけです。そういう体験がない子が、マンガだけで人を殺す絵を描いたときは危険だと思います。ですから、ある程度「生命体の死」とか手応え、痛み、思いがけない力(断末魔の恐ろしさ!)といったものの体験をする。子ども時代の一定の期間、実際に「体感」する必要がある。(指導は実に難しい。環境を与えることが現実的?)単純に、クラスの学生が全員同じ劇薬を使えるかといったら、ほとんど無理だろうと思います。これからその劇薬の処方についての研究を、マンガ文化研究所でもやりたいと思っています。
○谷川 マンガと教育をどうかかわらせるかということで、いろいろ話をしてきました。「総合的学習」というテーマがついていますが、きょうはたまたま高校の先生方が多いみたいで、高校はもう1年あるのでまだ切実感はないのかもしれませんけれど、教育の問題としてマンガというものが、高校生、中学生、小学生にどういう意味を持っているかについて、いろいろな角度からのご議論をいただいたので、何らかの参考にはなるかと思います。教師を対象にしたマンガシンポジウムは、私も東京では1、2回やっていますが、大きな形でやるのはたぶんこれが初めてだと思います。内容的にはいろいろな問題が出てきたし、具体的な例も挙げましたので、参考になったかと思います。
 残された時間は10分弱です。4人の先生方に、今後の展望、あるいは言い残したこともあると思いますので、2、3分をめどにお願いします。
 
教育の場でもマンガの面白さを活かしてこそ意味がある
○佐々木 私は絵本中心にやっていますが、アニメーションでもマンガでも同じだと思いますが、教育を意図して作られたものは基本的にはあまりおもしろくない。やはり、既成の教育や価値観にとらわれない部分で、芸術家の感性が作り上げた人間などがおもしろいのです。それを教材に使うとなると、教育を意識してマンガが作られることが恐らくはあるでしょう。歴史の中でもそういうことがすごく強調されるときがありました。そういう時代が来るとは思えませんけれども、教育に使えるということと、それに対して作家の人たちがどう反応なさるのかというあたりで、また新たな問題が生じてくるのかなと思います。
○山本 きょう何度も話に出てきましたが、マンガが感性、発想を鍛えるのに非常に有効な手段だということはわかると思います。これを教育に使わない手はないと私は思っています。ただし、使う上で十分に注意していただきたい。下手な教師がいくらしゃべるよりも、マンガ1枚見せた方が生徒をよく引きつけられると思うのですが、その安易な手段に頼って結局、自分自身の教える力を落としていかないように。また、年じゅうマンガを使うわけにはいきませんから、ポイント、ポイントで使うと思うのですが、その合間の授業をどうするかというと、やはり教師の語りかける力、教える力がベースとして必要だと思います。ということは、マンガを本当に使おうと思えば、教師の力量が問われるのではないかという気がしております。
○河合 僕が子どものころマンガを読んでいると、学校の先生方は十把一からげで叱りつけたものですが、今のニュアンスでは、読んでいいマンガと読んではいけないマンガというのがあるみたいな感じです。手塚治虫先生はマンガを一言で言うと何かという質問を受けたときに、「批評」と答えたのです。ですから、子どもがおもしろいと思って読んでいるマンガは、必ず時代の何かを映し出しているはずなんですね。ですから、そのへんを理解して、マンガと子どものかかわり合いを見守ってほしいと思います。
○牧野 もうすぐ、たぶん11回目?のマンガ甲子園が、お隣の高知県で行われます。全国から第1次選考を通った高校生が5人1組で高知にやってきて、非常に難しい「課題」をもらって、朝の10時から夕刻の4時まで新聞1ページ大のマンガに挑戦するわけです。そこで感じるのは、これは≪審査員と高校生の知的ゲーム≫なんだ、ということです。例えば、黒潮という課題に対して、きっとこういう絵を描いてくるだろうなと思っていると、高校生は意外な形でアプローチしてくる。それを審査員が評価し、その評価した審査員をまた高校生が評価するというように、「入れ子型の評価が」行われるんです。私はそれを通じていつも、高校生の知的反応レベルと、表現レベルというのは相当高いと感じます。しかも10年の間に見違えるように進歩してきているのです。機会があったら高知県のその現場も見ていただきたい。マンガを使った教育も、子ども自身が隠れて描くマンガも、隠れて読むマンガも含めてすばらしい。お母さんの前では読めないマンガと、高知県知事に招待されて描くマンガの両方があることによって、日本のマンガがまだまだほかの国に負けないという自信を持っているわけです。
○谷川 ありがとうございました。
 私はメッセージを二つお話したいのですが、一つは先生方に向かってです。
 私はいろいろなマンガ家と話していて、マンガの本質はおもしろさだと思いました。おもしろくなければマンガじゃない。変に教育に近寄って描いたマンガは全然おもしろくないですね。勝手に描いてくれた方がいいです。それを教育にどう利用するかは別の問題です。そのおもしろさというのは、ただ滑稽だとかおかしいというのではなく、私が講演の中で取り上げた「百日咳」のような作品、ああいうのをおもしろいと言うんですよ。本当に人間の心を打つような作品でないといけない。子どもは両方を見ているんです。一方でマンガを見ておもしろいのに、どうしてうちの先生の授業はつまらないんだ、と思っているわけです。そのあたりのところを心して、ぜひ授業をおもしろくしてほしいと思います。
 それからもう一つは、子どもたちに生きるということを伝えてほしいと思います。ストーリーマンガには基本的キャラクターというのが存在しています。例えば、もう長く続いている「あずみ」(小山ゆう作)という作品は、いつ終わってもいいくらい、ストーリーがどんどん飛んでいくんですけれど、でもキャラクターは死なせられないのです。ストーリーマンガではキャラクターが死んだらおしまい。出版社も死んだら困るみたいなところあります。だから、教育界ではよく生きる力と言いますが、マンガのキャラクターこそが一番強い生きる力を持っているんです。そういう意味でのマンガの力強さ、たくましさは、子どもに伝わっていってるはずです。
 ちょうど5時になりました。シンポジウムはこれで終わります。大変お忙しいところ、ありがとうございました。







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