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選考を終えて
A report from the screening committee
 社会貢献をした方々を表彰する審査委員になるようにという話があった時、自分は甚だ不適任であるように思われてならなかったし、今でもその気持ちが消えない。しいて社会貢献したことと言えば、戦時中に学徒勤労動員で土木作業や農作業をやらされたことであるが、これは強制であるからどうということはない。
 正直に言うと私ども夫婦は社会貢献まで頭が廻らないうちに老齢に達してしまったという感じである。私は両親が老齢になってからの子供であったから、大学生の頃から両親を経済援助しなければならなかった。留学も両親の生活のため借金前借りで行ったので、帰国後は給料の五十パーセントを借金返済に当てなければならなかった。その後も、年金のない親を死ぬまで全面的に見ると同時に、三人の子供の教育をしなければならなかった。私の親をみたあとは、家内の両親をみるという負担が家内にかかり、私もそれを陰から支持した。最後の親が九十二才で自宅でなくなった時、われわれ夫婦は還暦を過ぎていた。末っ子の教育が仕上った時、私は古稀に近かった。つまり私共夫婦は家族貢献で生の大部分を過してきたので、社会に対しては申し訳けないような気がする。
 両親たちの世話をしたり、三、四人の子供を育てると、ボランティアにはもはや時間もエネルギーも余されていなかった、というのが私の実感である。それに本職の仕事が無限に時間を喰うのである。それで私がボランティアでやったことと言えば、ボランティア的に若い学者を育てることで、私費で学術誌刊行を助けたり研究部屋(ワンルーム・マンション)などを提供したぐらいだが、これも本職と関係があるから純粋のボランティアではない。
 そういう私が見て、文句なく頭が下るのは、命がけで救命活動をした人たちである。自衛隊の飛行機が故障した時、民家のあるところに墜ちるのを避けるため、河原のあるところまで飛行し、そのため脱出の時間がなくなり殉職なさった人(註1)などに対しては、胸がつまるような感動を覚え、是非、全国民の前に顕彰する機会を持ちたいと思った。こういう犠牲的行為は、古典的善行と言えるであろうが、この分野への顕彰は特に強調したいものである。アメリカでも勲章がもらえるのは、生命を犠牲にする前提で働く軍人と消防士だけだと聞いている。今年度の選考委員会は、自らの命を捨てて他の命を救った4名の方々を受賞者に選んだ。
 それから善行のために被害を受けた人たちも顕彰したい。電車の中で、あるいは道路などで他人迷惑なことをしている若者などに注意することは、近頃では生命がけになっているようだ。それでみんな見て見ぬ振りをしている。見て見ぬ振りのできなかった人は実に立派な人である。もしそういう方で被害を受けた人があったら、これを顕彰し、学校の公民の教科書に入れるような努力をすべきだと思う。私の幼・少年時代を振り返って見ても、修身や国語の教科書に出てきた善行によって、人生における「尊い行為」というものを教えられたように思う。小学校低学年生の教科書に、「木口小平は死んでもラッパを口からはなしませんでした」と言うのを読まされて、死んでも義務を果たそうということの尊さを知らされたのである。久田船長(註2)が自分の船が沈む時、最後まで残って船と運命を共にした話も、船長という「長」の立場の重さを知らされた。
 社会貢献をした人を顕彰することは国民のモラルを作ることである。その事実はなるべく幼・少年にも知らせるようにしたい。そのためには公民の教科書にそういう話を入れさせる運動とか、絵本にするのを助けるということも今後の視野に入れてよいのではないかと思う。
2002.12.7
 
渡部昇一
 
(註1)
平成12年度の受賞者、中川尋史さん、門屋義廣さん。
(註2)
久田佐助船長。明治36(1903)年10月、青函連絡船だった東海丸(1,121トン、日本郵船)は、青森から函館に向けて猛吹雪の中を航行中、ロシア貨物船プログレス号に舷側部に衝突された。東海丸の久田船長は、乗客を避難させながら自らは船に残り、身体を船橋の欄干に縛り付けて汽笛を鳴らし、プログレス号や沿岸に救命ボートの位置を知らせ続け、船とともに海中に没した。享年38。この話は日本だけでなく、船長の責任を表わすものとして、イギリスを中心に世界中の船乗りに語り継がれた。







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