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 ところで平戸瀬戸は明治15年から昭和20年頃まで、銃殺捕鯨ということをやっていまして、そのときのいろいろな記録が残っています。それによるとクジラというのはおもしろい習性がありまして、潮と一緒に流れて海峡を通るのではなくて、潮に逆らって泳ぐ習性があったらしいのです。なぜかと言うと、生態の専門の先生方に詳しく伺ったほうがよかったのかもしれませんが、地元の方々の話では、海峡の向こうから海水がどんどん来るということで、(クジラは)この海峡は袋小路になっていなくて、向こう側にまた外海があるというのがわかるらしいのです。つまり向こうに外海があるのだったら抜けていこうということで、潮に向かって泳いでいくと言っておられました。
 それでこの潮に向かって泳いでいくクジラ、場合によっては潮が強すぎて海峡の入り口で待っているクジラを待ち伏せして、そこで銃を撃つと言っておりました。ただこれもうまく当たればいいのですが、当たらなかった結局驚いて逃げてしまうらしいです。そうしたらもう追いつけないと言っていました。しかし、もしクジラがそのようにある一定の場所で潮に逆らってゆっくり泳いでいく性格があるのなら、場合によっては待ち伏せして丸木舟で突いてとるといことも、可能性としてあり得るのではないかと考えています。
 原始古代では、そのあと捕鯨に関する痕跡が出てくるのは、今度は古墳時代になります。いまのつぐめの鼻の石器の図の右に、鬼屋窪古墳の「捕鯨線刻図」というのを紹介しています。ここにありますように、たくさんの櫂がついた大型の船の図から線が出て、大きな魚のようなものに命中しているというものがあるわけです。これはクジラを銛で突いてとっている図でないかと考えられているわけです。
 クジラを突いてとるというのも、実は2つの工程があります。まず一番原始なかたちとして考えられるのは、槍のようなとんがったものでクジラを刺し殺すというやり方です。たとえばクジラがあまり泳ぎができない状態だったり、または陸上に半分上がったような状態だったら、あとは止めを刺すために突いて殺せばいいわけです。しかしクジラがある程度泳ぐ力をもって泳いでいる場合に、まず刺し殺すことができるほどにクジラを弱らせる、疲れさせる必要があるわけです。そのときに銛というものが使われます。
 銛は先のほうから反対向きに返りがでていまして、突いた場合にそれが引っかかって抜けなくなるんです。抜けなくなったその銛からずっとロープがのびて、船などに結びつけられて、船を引っ張ることによってクジラを疲れさせるのが目的です。この銛というものを、よく武器と間違われる方がおられますが、これは大間違いです。
 最近の例では去年の大河ドラマで「北条時宗」というのがありました。この中で松浦党の領首が一生懸命銛を磨いて元の兵隊と戦っていましたが、銛は1回突いたら抜けないから、その間にほかの敵に切り殺されてしまいます。大昔みたドラマでも前に萬屋錦之介が奉行になって同じ事をやっていましたが、あれはちょっと無理ではないかと思って見ていました。
 結局銛というのは、引っかかって、引っ張らせることによって疲れさせるのが目的で、まさに鬼屋窪の線刻図というのは、銛から伸びた銛綱が船を引っ張っている様子を紹介していると考えるわけです。古墳時代には鉄の銛も出てきていますので、おそらく古墳時代の段階で、突取捕鯨法が行われていたのは間違いないと考えています。
 もう1つ付け加えておかなければなりませんが、日本の北のほうでは、別の系統の突取捕鯨法が行われていました。これがオホーツク文化や、そのあとのアイヌ文化の中で行われていた突取捕鯨法です。この場合は回転式離頭銛という先のほうだけが分離する銛を使うという特徴がありますが、先ほども申し上げたように、トリカブトの毒を塗った銛を撃ち込んで、それでクジラを弱らせるというのがいちばん大きな特徴です。50本も60本もたくさん毒つきの銛を撃ち込んで、クジラをしびれさせ、弱らせて海岸に上がったところを利用する。これは先ほど申し上げたように、日本の本州以南の方法とは少し違って、どちらかと言うと北の捕鯨の文化ではないかと考えます。
 そのあとの中世の段階では、捕鯨を行っていたのかどうか、またどういうかたちで行ったかというデータがほとんど出てきません。中世後半の室町時代ぐらいになると、どうも京都方面にクジラの肉がある程度入ってきているという記録が、当時の貴族の日記あたりで出てきます。おそらく室町時代の1400年代ぐらいには、そういうクジラのある程度の流通があったようです。
 しかしクジラが組織的に捕獲されていたという記録が出てくるのは1570年代、信長の時代です。そういう時代になって伊勢湾の三河湾を隔てる知多半島の師崎という、一番南のところを基地にして、七、八艘の船で突取りを行ったという、『西海鯨鯢記』という本に出てくる記事が、おそらく捕鯨が産業として始まった記録の最初ではないかと考えられます。
 捕鯨は原始古代でもやっていたのではないかと思いますが、今度は間違いなく鉄製の銛を使ってクジラを突いて、船などを引っ張らせて弱らせるという突取捕鯨法なわけです。それについての説明は7ページに載せています。さらに、重要な点としては、専門的な捕鯨集団が生まれたことです。「鯨組」と言いますが、これが捕鯨を行って、とれたクジラを遠隔地まで流通させていくという、産業としての面をもった捕鯨なわけです。
 そういうことが戦国時代の終わりに始まり、それから和歌山、そして東の千葉県の房総半島に行き、そして西のいまの高知県、土佐の国のほうに行きました。それから瀬戸内海を通って西に向かいまして、山口県から長崎県にいたる、朝鮮海峡の沿岸部にあたる西海漁場のほうに伝わっていくわけです。だいたいそのへんの場所には、江戸時代の最初の頃に、突取捕鯨法が和歌山や尾張から伝わっていって、その後急速に普及していくわけです。
 その突取捕鯨法は先ほども申し上げたように、江戸時代の最初17世紀の間に非常に盛んになりました。たとえば西海漁場では、だいたい1650年代には70組の突組と言われる鯨組が、操業していたのではないかとも言われています。また安房のほうでは醍醐組という鯨組ができまして、盛んにツチクジラをとっているわけです。
 そういう突取捕鯨法が江戸時代の1670年代になると、今度は網を使って、最初にクジラの泳ぎを遅くして銛で突くというやり方に変わっていくわけです。それについての説明が9ページ以降に紹介していますが、これを発明したのは和歌山県のいまの太地町というところで、昔は太地浦と言いましたが、そこの鯨組の太地角右衛門という方がこれを発明したと言われています。突取だけはもともとからあったわけですが、その突取に網を組み合わせる方法を発明したのが太地さんでした。
 この方法は長らく網取式捕鯨、つまり網でとるという方式の捕鯨だという言い方をされていましたが、僕はどうも言葉がふさわしくないのではないかと思いまして、「網掛突取捕鯨法」という言い方に変えています。どうしてふさわしくないかというと、実は網取式捕鯨という言い方で皆さんがイメージされるのは、クジラを網にからめてとるのではないかと思います。ところが実際にはクジラの前に1キロほどの非常に長い網を張るのですが、クジラを突破する部分の網だけがすぐにはずれて、あとの網は全部回収されるようになっています。1枚がおよそ40メートル四方の大きな網なのですが、それがずっと横に連なって1キロメートルぐらいになっています。その40メートルぐらいの網だけがはずれてクジラにかぶさりますが、結局クジラはそのまま泳いでいくわけです。ただ網がからまっているのでクジラは泳ぎが遅くなります。その遅くなったところで銛を突くというやり方をするわけです。
 つまり最初、網を掛ける目的は、ただクジラをがむしゃらに櫓で追いかけ回して、そして突いていると、とてもじゃないけどクジラのスピードについていけないということで、まずどうにかしてクジラのスピードを落として、銛を突きやすくできないかということで、網を掛けるという方法が導入されたわけです。漁法としてはあくまで銛を突くことが主体です。たしかに欧米のほうでは、同じ突取でも網を掛けることは行われていませんので、そういう意味では網を掛けるというのは日本独自のものですが、しかしやはり方法としては突取法の一種という位置づけをしているわけです。
 最初に和歌山のようでこの網掛方法が突取の始まって、高知県のほうに伝わります。それからさらに西の九州、西海漁場にも伝わってくるわけです。特に西海漁場のほうに伝わると各地の鯨組は次々に、その網を使った突取捕鯨のほうに、切り替えていくわけです。
 いま言った突取捕鯨法とか網掛突取捕鯨法以外に、幕末の頃に一時期、欧米で行われていました欧米の方法での突取捕鯨というのも、少し導入されているということについて補足しておきます。それについては8ページの下のほうに書いていますので、あとでご覧になっていただければと思います。
 それでは日本の中で行われました、網掛突取捕鯨法についてのプロセスについて、若干紹介していこうと思います。10ページからです。まず鯨組があるおかれた場所にクジラが接近してきたことを知らなければなりません。どうにかしてクジラがやってきたことを確認しなければいけないのですが、そのやり方として江戸時代から明治にかけての方法としては「山見」というのが使われました。建物は左下にも紹介しています。また右下には生月島の山見を紹介しています。
 こういう小屋を山の上に建てまして、そこからクジラが来ないかどうか、ずっと1日見張っているわけです。これは座ったままの作業ですが相当つらいものがあるそうです。とにかく1日中海を見ていなければいけない。ご飯を食べるときも、ご飯をかき込みながら目だけは海を見ていなければいけない。もし万が一潮を吹いたのを見過ごしてしまうと、結局クジラは操業海域のところを通り過ぎてしまうわけです。だから通り過ぎて結局とれない状態で去っていくのがもし見つかった場合には、非常に社長さんから怒られたそうです。よくそういうこともあったそうです。丁度漁期の終わりでそろそろ今年の自分たちの給料はいくらかとか、半分仕事そっちのけでやっていたそうですが、そんなときにクジラが浮上してきてシャーと汐を吹いて次のところでもまたシャーとやった。捕鯨船の前を通り過ぎてから気づいたもんで間に合わず「お前らなんば見とったか」と怒られて「雷をくらったことが何回かあるよ」と言っていました。
 そういうやり方でクジラを探していたわけです。ただ沖合を通るクジラは、やはり近くに陸地がないと山見というのは効果的に働きませんので、沖合を通るクジラに対しては「番船」という名称で、クジラを追跡する「勢子船」という船をだいたい1里間隔で沖合いに配置してそしてクジラが来ると旗を立てて合図するというやり方をしていたそうです。
 11ページになります。そうしてクジラがやってくるのを見て、潮を吹いたのを見ると山見は狼煙を焚いて合図します。そうするとクジラがやってきた方向に勢子船がどんどん出て行きます。また山見に待機していた船も出て行って、クジラを三方から追いかけていきます。追いかけていくときに勢子船は船べりを叩いて、音を立てて、海の中にこの音を響かせながら追っていくそうです。
 クジラは非常に聴覚に依存している生き物なので、ノイズを非常に嫌がり苦しむそうです。そのように音を立てながらクジラを一方向に追い立てていくわけです。そして追い立てていく先のほうには、先ほど言いました網を1キロほど張ってあるわけで、そこに向かってずっと追い立てていくわけです。
 ただその網の張り方に特徴があり、最初にこれが発明された和歌山とか高知のほうでは、クジラが来るとその周りに網を張る、包囲するようなかたちで網を張るようです。網をまず2つの船が両方延ばしたとすると、それからまた継ぎ足すような感じで回していったりするわけです。それを二重、三重に回したりすることがあります。
 対して西海漁場の生月や呼子の漁場のほうは、大きな網船が2艘1組になって、弓の字に網を張ります。そうするとその次の組が、その後ろに少し重なるようなかたちで網を張っていきます。さらにその次に第3組目の網船が今度はさらに反対側に重なるように張る。真ん中が三重張りになって、その横が二重張りになって、さらにその外側が一重になる。そのように弓なりに張った網を重ねるように張るのが西海方式で、西海の方では完全に包囲したり、継ぎ足して張るというやり方はしていないようです。
 古い言い方で網取式捕鯨、私が言うところの網掛突取法という方法が、日本では江戸時代に行われていたと一言で言われますが、実は地域によって網の掛け方とか、銛の装備はかなり違っているところがどうもあるようです。どうしてその違いが出てきたか、僕も調査中でよくわからないところがあります。ただ、和歌山の太地浦などでは、自分たちの浦の中で網を掛ける人たちも雇ってやらせていたようです。それに対して九州の、たとえば生月、呼子の網組では、わざわざ瀬戸内海から、たとえばタイだとかイワシをとるのに大きな網を使っていた漁師さんたちを、まとめて60人ぐらい雇って連れてきていたそうです。つまり自分のところの漁師さんたちを雇うのではなくて、網は網で慣れた人がいいだろうということで、瀬戸内海の人たちを雇っていたようです。
 当時の網というのは、現在みたいに化学繊維ではありません。非常に腐りやすい麻の「苧(お)」という材料です。しかしそれすら当時としては先端技術でした。というのは、それより前はワラ網しかなかったので、それに比べると麻というのは非常に丈夫で軽くて使いやすかったのですが、それでもそれをうまく使いこなす漁民集団というのがあって、それならその人たちに頼めばいいだろうということでやっていたようです。
 網にクジラを突っ込ませたあと、今度は本来的な銛を投げる、剣を突くという工程が出てきます。それについては12ページにあります。銛を突くというやり方については、前のほうに図を紹介してありますが、先端の両側に返りがついた銛を撃ち込んで、クジラを疲れさせるということです。いい加減疲れたところで、今度は先のとんがった剣という道具を投げつけて、クジラに深手を負わせていくわけです。そしてある程度クジラが行動を止めたところで、最後に日本独自の方法ですが、鼻切りというやり方を取ります。
 鼻切りというのは、聞いておわかりのとおり、鼻のところに包丁で切って穴を開けます。クジラの鼻は俗に背中と言われる一番高いところについています。そこから結局海に浮上したときに、呼気を出すのでそこで潮吹きというのが出ます。そこまで羽指(はざし)と言われている人が泳いでいって、クジラの背中に上っていって、鼻のところに包丁を入れて穴を切って、そこに綱を通して逃げられなくしてしまいます。
 そうすると最後には剣だとか包丁みたいなものを使って、どんどんクジラを突いて殺してしまうわけです。ただ殺すのではなくて、そのときに「三国一じゃ大背美捕すまいた」と、自分たちがとったクジラに対して尊敬する、自分たちはこんなに立派なクジラをとったと必ず言うわけです。その後に今度は「南無阿弥陀仏」という念仏を3回唱えたそうです。こういうことをやって自分たちがとったクジラの霊を非常に手厚く称揚し、供養して、そしてもって帰るわけです。もって帰る間にも盛んに刺すのですが、これには血をたくさん出してしまって、肉が焼けるのを防ぐということがあったようです。
 クジラをもっていくときは、2艘の船の間に柱を渡して、その柱に吊り下げて運ぶ持双掛け(もっそうがけ)というやり方が行われました。もって帰ったクジラの解体・加工法については13ページに紹介しています。これもどうも和歌山、高知の方面と、この西海方面では方法が若干違っているようです。資料では解体風景の写真を2枚並べています。左が太地浦の解体風景です。広い砂浜にクジラをつけて、轆轤で巻いて解体する。その解体された肉を砂浜にずっと並べています。そういう状態です。それに対して右側の西海の生月島の解体風景では、非常に丈夫な石垣を築いた上に、大きな建物が乗っています。これが加工をする納屋場という建物ですが、ここに解体した肉や骨や内蔵をすぐに持ち込んですぐに加工してしまいます。解体には納屋場の前の渚で行います。この図では納屋場の前でクジラを解体しているところを絵で紹介していますが、最初に皮を剥いでいく。絵で見ておわかりのとおり、轆轤という人力のウィンチを回しながら、その先のカギを皮の切ったところに引っ掛けて、力をかけながら包丁でずっと切れ目を入れて引っ張っていく。このやり方は、現在の南氷洋の調査捕鯨で行われている方法だということです。一方紀州のほうでは、どちらかと言うと、クジラをブロック切りしたり輪切りにするやり方ですので、解体の方法も違っています。
 何で違っているのかまだ調べている段階ですが、1つ可能性としてあるのは、紀州、土佐のほうでは結局浜で解体した肉を仲買人さんがすぐに買って、塩漬けにしたりして、そのままたとえば大阪方面などに出してすぐに売っていたようです。食肉みたいな使い方が主で、流通も問屋さんがすぐに入ってくるようなかたちだったからではないか。
 それに比べると西海のほうは、かなり遠隔地ですので、どうも自分たちのところの納屋場の施設の中で加工までして、製品を出していくようなかたちだったのではないか。特に西海のほうでは、最初の捕鯨からクジラの油の生産が非常に重要な部分を占めていました。クジラの皮身というのは、結局そのままにしていると当然肉だから腐るわけです。しかし皮の部分をかまで妙って、油にした状態で樽詰にしておくと、かなり長い間もつわけです。
 樽詰にしたらもつというのがあるので、たとえばアメリカの帆船でやってきた捕鯨船あたりは、船の船倉に全部で何百樽というクジラの油を樽詰にした状態で、4年間ぐらい航海することがありました。もし商品価値が落ちてしまうようであれば、とてもそういうことはできない。クジラは油に加工すれば商品価値が落ちないということが、たとえば日本国内でも、当時の消費地からは遠い地域である西海の漁場でもクジラとりが行われた一つの理由ではないかと思っています。
 クジラの油がどういうかたちで利用されたかというと、当時江戸時代の最初の頃は、明かりの油に使われていたようです。江戸時代の中頃からあとは、田んぼに撒いて害虫退治をする農薬に使われていたようです。特に享保の飢饉は南のほうから飛んでくる「うんか」という虫が、稲を食い荒らしたために起こったと言われています。そのうんかをやっつけるためにクジラの油を田んぼに撒いて、そして稲をばさばさ笹などで揺さぶってうんかを水面に落とすと死ぬという効用が発見されたわけです。
 稲作をだめにするということは、当時の各藩の財政に直接響くことでしたので、西国の諸藩では特にこれに非常に重大な関心を寄せて、たとえば福岡藩、熊本藩では何千樽という油を備蓄することも行っています。つまりそのように何千樽という需要が出てくると、鯨組の安定経営にもつながったと思われ、福岡藩や熊本藩には、生月の益冨組から非常にたくさんのクジラの油を売っています。おそらくそういう関係で、益冨組が5組も鯨組を経営することができるようになったのではないかと思っています。
 そのように銛で突いてとるやり方が江戸時代には非常に盛んでしたが、ほかのやり方として14ページにありますように文字通り網を使ってとる捕鯨も行われていました。たとえば断切網捕鯨法というものは、京都府の一番北の伊根浦だけで行われていた方法です。伊根浦というのは、何年か前の連続テレビ小説で出ていました。舟屋というのが有名ですが、非常に特異な地形をしていまして、深いリアス式の入り江が入り込んでいますが、湾の入り口のところに島があり、入り口が非常に狭くなっています。その中にたとえばブリの群れが入ってきたり、イルカが入ってきたりクジラが入ってきたりするわけです。
 例えばクジラが入ってくると湾の入り口を網で仕切って、さらに追い立てて行き、もっと狭い入り江に追い込んで、そしてまた網で仕切ってとるというやり方でした。このやり方は、どうも長門のほうでもやられたという話もありますが、どちらかと言うとこの方法はこのようなリアス式の、かなり特異な地形でしかやれないところがあります。そういう意味ではローカルな方法ではないかと思っています。
 この方法と同じやり方で、江戸時代には盛んにイルカ漁を行っています。ただクジラにしろイルカにしろ、沖合を頻繁に通るのでなく、入り江に入り込んでこないとこの漁は成り立たないところがあるので、そういう意味では偶発的にしかやれない部分があり、本格的な産業というかたちにもっていくのが難しいかと思います。
 もう1つ網を使う捕鯨法として15ページに紹介しますように、定置網捕鯨法というのがあります。この定置網にクジラが入るというのは、去年の7月ぐらいから、定置網に入った混獲したクジラも処分していいという水産庁のお達しがあったわけですが、だいたい定置には相当昔からクジラが入っていたようです。入ったときには目の粗くて丈夫な、格子という網を下にひいて揚げるということがよく行われていました。それならいっそのこと鯨専門の定置網をつくったらどうかということで、五島、能登半島のほうでは鯨専門の定置網がつくられました。簡単に言えば塵取りみたいなかたちをした網を設置して、そこに向かってクジラが入り込んできたときに入り口を揚げてから捕獲するという方法です。これも純粋に網でとるので網取捕鯨どしていいのではないかと思っています。







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