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◆偽造だらけの「革命活動史」
 こうした第一部の「接見記集成」に続く『主席、金日成』第二部「金日成主席革命活動史」は、金日成主席存命中はその名の通り通用する「革命活動史」であったとしても、余りにも加工、造作された記述の故に、いずれ葬り去られる運命を予感させずにはおかない。
 ソ連が崩壊しロシア共和国のもとで一段と進む情報公開(グラスノスチ)は、機密文書扱いから解除された旧ソ連政府の公文書の公開を促し、スターリンによって樹立された金日成政府(一九四八年九月九日)の生い立ち、朝鮮戦争開戦(一九五〇年六月二十五日)、さらにはいわゆる満州抗日武装闘争時代の金日成主席の前歴までも、しだいに明らかにする勢いである。
 二月十六日、満五十歳の誕生日を迎えた「親愛なる首領」金正日書記の出生地も、白頭山中の革命聖地ではなく、ハバロフスク市郊外、北東七〇キロの地ヴャツコエ村であったことは、ソ連側資料はもちろん、ソ連に亡命中の朝鮮人民軍元副参謀長(李相朝)、元作戦局長(兪成哲)らの証言を通し、さらにはヴャツコエ村当時金正日書記の乳母となった北京在住の中国人女性(李在徳)の回想談からも、もはや動かぬ史実となろうとしている。
 満州での抗日武装闘争の生き残りを集めて、一九四二年七月ヴャツコエ村で編成された中国人周保中大佐の率いる第88特別旅団の第一大隊長として、ソ連軍大尉の肩章をつけていた金日成主席に、先の兪成哲がはじめて会ったのは一九四三年九月だった。
 ところが、第二部「金日成主席革命活動史」によれば、まさにその年四三年九月十五日、なお満州で抗日武装闘争を続けていた主席は、朝鮮人民革命軍の幹部を前に「朝鮮の革命家は朝鮮をよく知るべきである」と題する歴史的な演説を行った――というのである。
 兪成哲証言にもある如く、四三年九月現在ヴャツコエ村の金日成ソ連軍大尉は、家庭的にはロシア名ユーラ(金正日)、同じくシューラ二児の父親であり、そのような歴史的、綱領的演説などなしうる立場になかった。さらに又、満州で日本軍の討伐隊と戦った抗日パルチザンは、中国、朝鮮人混合の「東北抗日聯軍」であり、第二部「金日成主席革命活動史」がくり返し登場させる金日成率いる「朝鮮人民革命軍」は、当時この世にまったく存在しなかったのである。
 ところが「金且成主席革命活動史」は、存在しなかった「朝鮮人民革命軍」がいつの間にか主役を演ずることで成立する活動史である。
 「四五年八月九日(ソ連対日参戦の翌日―注)ついに朝鮮人民革命軍に、祖国解放の最終攻撃命令が下された。人民革命軍各部隊は総攻撃を開始し、対日戦争に参加したソ連軍との緊密な連係のもとに疾風のように進撃した。人民革命軍と人民の果敢な攻撃に、日本帝国主義は祖国解放作戦を開始したわずか一週間後の一九四五年八月十五日、ついに無条件降伏した」と臆面もない記述をくりひろげている。
 先の李相朝、兪成哲証言によれば、日本軍がソ連軍に降伏した直後、ヴャツコエ村の第88特別旅団に軍解体命令が下り、武装解除されたままソ連軍の命令によってハバロフスクを出発、日本軍との交戦はおろか、銃の一発も撃つ間もなく秋夕の前日の九月十九日、元山に上陸、祖国への第一歩を漸くにして印したのだった。
 
 
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