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私はこう考える【北朝鮮について】

 事業名 組織運営と事業開発に関する調査研究
 団体名 日本財団(The Nippon Foundation  


◆安明進証言の登場
 ちょうどその日、二月三日、電波ニュース社のディレクター高世仁氏はタイでのにせドル事件で赤軍派の男が逮捕されたことに関連する取材のためソウルに出発した。成田空港で、彼は横田めぐみさんの記事の載った産経新聞と『AERA』を買った。そして、翌日、取材許可の下りていた安明進と会い、この記事を安に見せ、知っていることはないかと質問したのである。安企部職員の立ち会いのもとである。
 安は記事の中の横田めぐみさんの写真をみて、しばらくして「この女性には見覚えがあります」と答えた。八八年から九一年にかけて、金正日政治軍事大学の式典会場で、何度か見た、日本人教員の中に彼女がいたと述べた。さらに同席していた大学の大先輩である自分の教官が、清津連絡所に属していた折り、自分が日本の新潟海岸から彼女を拉致してきたと話してくれた、それで式典がおわったあと、廊下で教官を質問攻めにして、さらに拉致の状況をきいたというのである。新潟に侵入したのは三人組であり、二人が任務を終えて、海の方に戻ろうとしたところ、「彼女に姿を見られた」ので、二人で無理矢理拉致した、「通報され侵入ルートがばれると困る」からだと説明された(注)。
(高世仁『娘をかえせ息子をかえせ』旬報社、一九九九年)
 
(注)『サンデー毎日』二〇〇〇年一一月二日号の記事「『日本人拉致事件』の真相」によると、テレビ朝日の画面の安の言葉は、韓国語からの逐語訳では、「新潟から海上に船に乗ろうとしたのだけれど、待っているところまで、そこを通りすがりながらずっと見ていた。連れていこう」となるとのことである。高世仁氏が自分の本の中で書いていることは、すこし修正を加えているようだ。
 
 これは驚くべき証言であった。九三年に亡命した安は九四年に亡命したという石高情報の工作員(B)ではない。しかし、安に話をしたという教官は拉致を実行したという石高情報の工作員(A)ということになる。(A)から安が直接聞いたということなら、伝聞としても石高情報よりもはるかにレベルの高いものである。しかも、横田めぐみさんを幾度も見たということは本人の経験であるので、目撃証言としても一級である。さらに石高情報では、精神に異常をきたして、病院に入っているとなっていたものが、安によると、工作員の日本化のための教師として、働いていることになったのである。ここは大きく修正したものである。高世仁氏の安明進インタヴューは、安の本名を伏せ、モザイクをかけた形ではあったが、二月八日にテレビ朝日で放映され、大きな印象を与えた。この匿名の元工作員は一躍「時の人」となった。
 だが、ここでもっとも深刻な疑問が発生する。ほかならぬ石高氏が一九九五年一一月に拉致問題で安明進に二回目のインタヴューしたときに、彼が語った内容と、このたびの証言とはあまりに異なっているからである。安には、このたびのようなきわめて印象的な内容の記憶が九五年当時はまったくなく、九七年に横田めぐみさんの写真をみたら、にわかに記憶がよみがえったということになる。亡命した工作員は、亡命直後に安企部に北朝鮮について知っていることをことごとく供述させられるので、安は九三年の亡命時点で、重要なことはすべて思い出させられていたはずである。とすれば、九五年に記憶になかったことが、九七年に記憶の中に浮かび上がるということはあるだろうか。
 食い違いはあまりに甚だしい。九五年には、安は、大学では日本人は講義を会議室で自分たちだけで受けていた、その空いたドアから中をのぞいて、日本人の顔をみたと証言した。ところが、九七年には、日本人は、大学の式典の会場に朝鮮人学生と一緒に入ってきたと言っている。九五年に女性の写真を示されて、見覚えがないかと聞かれたとき、安は「ありません。私が大学の会議室で見た日本人のなかで、女性は都合二、三人しかいませんでした」と語っていたにすぎない。ところが、九七年には、横田めぐみさんだという女性を式典のさいにみたとして滔々と話しているのである。さらに安は、九五年には、大学の先輩で、清津連絡所に属する工作員で、大学に教官として配属された人から、「俺は日本へ潜入し、日本人を二人連れてきたことがある」と聞いたが、「二人の日本人をいつ、どこから連れてきたかは口にしませんでした」と述べたのである。ところが、九七年には、その人物を質問攻めにして、横田めぐみさんを新潟の海岸から拉致してきたくわしい経過を聞いたと語ったのである。
 さて橋本総理は二月七日に西村議員の質問に対して答弁書を出した。まず第一点、横田めぐみについて韓国政府から問い合わせがあったかという質問に対しては、「ご指摘の失踪者の安全に配慮する等の観点から、外国政府とのやりとりの有無を含め、答弁は差し控えたい」と回答した。韓国側から問い合わせがあったことは確認されていないということだろう。第二点、横田めぐみが北朝鮮により拉致されたという可能性を検討したかという質問に対しては、「拉致されたか否かについては、現在までのところ確認されていないと承知している」と回答した。この答弁書作成の日付けは、安明進の証言のテレビ放映の一日前である。日本政府は、石高情報のみを前提にした情況では、横田めぐみさんが北朝鮮によって拉致されたと疑うにはいたらないと判定したのである。第三点、北朝鮮に拉致された疑いのある日本人は六件、九人、未遂が一件、二人であると承知しているが、氏名住所はあかせないと回答した。日本国内で横田めぐみさん拉致というニュースが人々の意識を支配した一九九七年二月はじめの段階で、日本政府はそれまでの情報では、横田さんの拉致疑惑を証明できない、とはっきり否定したのである。
 石高氏の方は、三月はじめに発売された『諸君』一九九七年四月号での西岡力氏との対談の中で、少女拉致の情報は、「韓国の情報機関の複数の高官から」聞いたと話をくわしくし、次のように肉親の心情を揺さぶる新しい情報を加えていた。
 「少女は賢く、一生懸命勉強した。『朝鮮語を習得すれば五年後にお母さんのところへ帰してやる』と言われたからです。そして、十八歳になった頃、それを拒否され、それならと彼女は、戦闘工作員の監視下でいいから、新潟へ連れていって、遠くから親の顔を見させて欲しいと頼んだのです。自分は声もかけないし、密かにじっと黙っているので、お母さん、お父さんの顔を見せてくれと。しかし、これも聞き入れられずに、そのことがきっかけとなって、精神に破綻をきたしてしまい、病室に収容されて長期治療を受けた。このときに、件の工作員が少女のことを知ったというのです。」
 帰れなくてもいい、せめて両親の顔だけでも見せてくれと言ったという情報が前年十月の『現代コリア』への寄稿には述べられず、ここにいたって付け加えられたのも、奇妙である。それほどにくわしい情報をもっていたのに、それを伏せておいたのはなぜだろうか。この石高、西岡対談において、西岡氏は安明進の証言について言及している。「最近の情報で注目すべきなのは、二月八日にテレビ朝日系の『ザ・スクープ』が報じた、番組では顔を隠して匿名でしたが、亡命工作員の話です。私は放映されなかったものも含めて、その証言を入手しています。」と述べているが、なぜかテレビ朝日系のディレクターである石高氏は、この新証言の内容について一切言及していない。西岡氏の説明に対して、「私の情報源がその工作員でないことは当局に確認しています」と述べ、さらに「私がソウルで取材した亡命工作員の安明進は『拉致日本人』は平壌に二十人いると話していました。」と続けている。つまり、この時点では石高氏は、この新証言の主が安明進であることを知らないのである。しかし、彼は放映後ただちに「当局」、すなわち韓国情報機関と接触し、自分の情報源と新証言の主が違うことを確認していることが明らかにされている。
 さて安明進は、続いて九七年三月はじめ、産経新聞の大田明彦記者のインタヴューをうけた。それが三月一三日の同紙に掲載された。横田めぐみさん問題についてのはじめての実名報道である。そこでは、ほぼ高世仁氏インタヴューと同じ内容が繰り返されたが、拉致後の彼女の様子について、「彼女は北朝鮮に連れてこられてからも泣きっぱなしで、食事もしなかった。北朝鮮では、“なぜ子供を連れてきたのか”としかられた。そこで『朝鮮語を勉強したらどうだ。勉強するなら日本に返してやるし、仕事もある』と持ちかけた。しかし、朝鮮語を話せるようになっても、帰れないので病気になり、大学近くの九一五病院に二回も入院したと聞いた」という新しい証言が付け加えられた。これは明らかに、二月はじめの証言にはなかった点で、石高氏が『諸君』四月号で語った情報をとりいれたものだと思われる。また彼女の顔の特徴についても、立ち入っている。「顔は丸顔でポッチャリしており、髪はおかっぱスタイルだが、北朝鮮女性より化粧が濃く、雰囲気も異なっていた」。一ヶ月もたたないうちに、安の証言は相当に進化している。
 石高氏はすでに新証言の主が旧知の安明進であることを知っていた。石高氏は自分の情報源の工作員に横田夫妻を会わせるように努力することを約束していた。しかし、韓国の情報部はそれを拒否した。そこで、石高氏は横田夫妻を安明進に会わせることにしたのである。彼はこの年秋の著書の中で、この面会は「私が韓国政府側に『横田めぐみの両親は娘に関する情報ならどんな小さなことでも知りたがっている』と伝えた結果実現したものだ」と誇っている。いずれにしても面会は韓国情報機関の判断で実現されたのである。九七年三月一五日安明進は石高氏に連れられた横田めぐみさんの両親と対面した。ここで安はさらに次のような新しいことを話した。横田めぐみさんを拉致してきた工作員は三人だった。うち二人のあとを彼女が歩いてきたので、脱出を見られたらまずいとして拉致した。しかし、当時は工作員は可能性があれば、無制限に拉致して来るように命令されていた、横田さんは子供には見えなかったので、拉致したのである。船に乗せると、泣き叫ぶので、子供だとわかった、その後安の先輩の工作員は再度新潟に潜入して、街に貼られている横田めぐみさんのポスターをみて、その子に関心をもち、調べたら、精神破綻で入院していた。彼は気がとがめて、さらにそのあと新潟に潜入したとき、ポスターをはがしてきて、ずっと所持している。この拉致を実行した先輩の名はチョンだとされた。石高に九五年に話したとき、日本から二人を拉致した先輩の姓はぺだと言っていたのを修正したのである。あるいは別人だというつもりであろうか。
 安明進の話がどんどん詳しいものに進化していることがわかる。最初九五年に石高氏に話したところからの食い違いもはなはだしい。拉致した理由も、微妙に修正され、誰でもいいから、進んで拉致してきたという要素を織り込んでいる。聞いていた石高氏は複雑な気分であったろうと思われる。しかし、横田夫妻の前では彼は安を弁護しなければならなかった。
 石高氏は、このときのことを、この年、九七年一一月に出した本『これでもシラを切るのか北朝鮮』(カッパ・ブックス、光文社)の中で書いている。そこで彼は安明進証言の信憑性ということについても触れている。九五年のインタヴューのさいに少女拉致についてふれなかったのに、九七年にそれについて語っていることについて、石高氏は、説明しなければならないと考えたようだ。石高氏は亡命工作員は拉致ということに「我々が考えるほど情報として重要な価値があるという認識はないようだ」、「相手が重要だと意識していない事柄は、……具体的に踏み込んで聞かなければ出てこない場合もあるだろう」と述べ、九七年には高世記者が少女拉致の話をつきつけたから、安が証言したのだと弁護している。
 しかし、これは説得的でない。安明進は九四年の『月刊朝鮮』のインタヴューのさいでも、拉致について力を入れて話しているし、九五年の石高氏自身も、最初から拉致事件を話題にして、安に写真を見せて、質問しているのである。それでも安は少女拉致の話をしなかったばかりか、くりかえしになるが、「俺は日本へ潜入し、日本人を二人連れてきたことがある」と話した先輩工作員は「二人の日本人をいつ、どこから連れてきたかは口にしませんでした」とはっきり述べていたのである。
 さらに石高氏は、亡命工作員は韓国の生活になじむと、「人間性」を取り戻す、自分のしたことを恥じて話したくない心境になると弁護する。
 「インタビューの最後になぜ私と以前会ったとき、今日の話をしてくれなかったのかと安に尋ねた。『こういう話をすると複雑な気分になるし、北朝鮮でのことを思い出すのが嫌で話したくないのです。昔を振り返りたくない。今回は自分がしたことでないのに、それを証明することになって余計にいい気がしない』。彼なりの複雑な思いの中で、横田めぐみさんの両親に語ってくれたのだった。」
 これもおかしい。九五年のインタヴューのさい、安は「日本人を拉致して帰ったなどという話を聞いたことがありますか」という石高氏の質問に対して、拉致は「とりたてて難しい任務ではない」と説明した。石高は、拉致について「安明進は、一般のサラリーマンがなんでもない仕事の話を聞かせるように実に淡々と語る」と書いていたのである。「北朝鮮のことを思い出すのが嫌で話したくない」という気分はまったく感じられない。
 結論的に石高氏は書いている。「証言内容に矛盾点はなかった。前回会ったとき、『横田めぐみ』のことを思い出さなかったのか、あるいは知っていて黙っていたのか。私はそれ以上突っ込んで問いただす気にならなかった。」証言内容は変化しているのである。変化の理由を問いたださなかったのはジャーナリストとしての責任の放棄にはならないのであろうか。
 日本政府では、三月二六日に韓国に捜査員をおくり、安明進からの事情聴取をおこなったことが報道されている。安の話したことは、横田夫妻に話したところに近いものであったろう。この結果、警察は横田めぐみさん事件の評価を変えるにいたったようである。五月一日に参議院で警察庁伊達警備局長は、「北朝鮮による拉致の疑いのある事件は、従来、六件九人と判断していた」が、「これまでの捜査を総合的に検討した結果、・・・新潟県における少女行方不明事案も拉致の疑いがあると判断し、全体で七件十人と判断するに至ったところでございます」と答弁した。これは安明進証言を根拠とする断定であろう。
 石高氏は、この年秋の本、『これでもシラを切るのか北朝鮮』において、自分が得た少女拉致の情報のソースについても説明している。彼はこの情報を九五年六月二三日にソウルの料理屋で韓国情報機関の高官から聞いたものであることを明らかにした。
 石高氏は、この情報について、最初、「あまりにも情報量が少ない」、「『この情報だけでは放送のネタにならない』と思った瞬間に緊張感が薄れたのを覚えている」と書いている。ところが、帰国して、彼は追加の情報をえたというのである。駐日大使館、領事館、警察庁を取材した結果だというのだが、大使館か領事館にいた情報部の係官が彼に話したのだろう。そちらの新情報は、一八歳になったとき、彼女が日本の親の家の近くまで行かせてほしいと頼んで、断られ、精神に異常を来し、九一五病院に二度入院したというものである。九一五病院に二度入院したが、今は元気であるというのが安明進の話であるから、石高氏の追加情報は、安の話を取り入れていることがわかる。くりかえしだが、このような追加情報まで九五年の段階で得ていたのなら、石高氏が九六年一〇月に出した本に少女拉致のことを一言も書かなかったのは、やはり奇妙なことである。また追加情報部分を得ていたのなら、なぜ九五年一〇月の最初の文章にそれを加えなかったのも、奇妙なことである。
 九五年一〇月の最初の文章を書いた気持を石高氏は、『現代コリア』が「マイナーで、あまり読まれていないから、・・・密かに私のところに情報が寄せられるかもしれないと期待してのことである」と説明している。それも奇妙である。情報がほしければ、メジャーの朝日新聞社から出す本に書くのが当然ではないか。メジャーの朝日新聞社から出す本には書けないが、マイナーの『現代コリア』なら書けるというなら、情報の信頼度について本人が疑っていたということではないのだろうか。
 さらに石高氏は横田さんのご両親の住所をつきとめるのには時間がかかったとして、九七年一月二三日に、自分が横田夫妻を訪問して、「二〇年ぶりの娘の消息を伝える」という役割を果たしたかのように書いている。「経緯の最後に、『新潟の懇親会の席で佐藤さんがそう言うと、横田めぐみは生きていたのかという声が上がったのです』と言った瞬間、滋は、身体を震わせて泣き顔になった。ガクッと頭を落とした。・・・母親の早紀江は、頭を横に振り大きく深呼吸をした。」
 これもおかしい。すでに兵本達吉氏が二一日に横田滋氏に会い、資料をわたしているのである。母親の横田早紀江さんの手記でも、二一日こそ決定的な日であったと書かれている。
 
 
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