日本財団 図書館


京都発祥の京都の音楽について(日本語版)
柳川三味線
 古くより京都に伝承されている柳川流の三味線は、しばしば京三味線と呼ばれるが、元来この名称を用いる人は、他国の人であり、京都の人はそうは呼ばなかった。しかしこの頃は生粋の京都の人でもそう呼称する人が多い。これは柳川三味線が他の三味線とは異なるの意味で用いられているのであり、これにはすべての三味線の元の形という意識に欠け、京都の貴重な文化遺産の一つという認識が希薄であることを示している。
 三味線という楽器は、それぞれの音楽分野に於いて、少しづつ異なるが、その差異が音色を微妙に変えている。柳川三味線は、日本へ三味線が楽器として輸入され、日本化されたものの原型に近いものを、そのまま今に伝えている。
 三味線が渡来して後、はじめての芸術作品「三味線組歌」のほとんどは、元禄以前に柳川検校により整理、補調、作曲されているが、そのとき用いられた三味線は、今の柳川三味線であった。
 この柳川検校の響きを350年余の長い間伝承できたのも、當道組織に保護された検校により、京都の風土で京言葉にのった三味線音楽が作られ、それが京都の人々によって受容され、家庭に浸透し、また逆に千年の歴史をもつ文化に磨きをかけられて更に円熟したことによる。その文化性と優雅さを柳川三味線がその響きをもって伝承した。音には関係ないことであるが、柳川三味線は京都で育っただけはあって、京都で育った他の芸術と深い関わりをもち、蒔絵、彫金、組紐などを用い、古い歴史を示す総合芸術としても見逃せない面をもっている。
 検校とその後裔により伝承されてきた音楽、家庭を場として発展、展開した京都発祥の音楽も、戦後の家族構成の変化、及び担い手の意識の変化により、その歴史的、文化的価値にもかかわらず、展開の場が狭小となり、消失の道を辿りはじめた。検校の残した音楽芸術の伝承のためにも、また京都の文化遺産を保存するためにも、社団法人 京都當道会は柳川三味線音楽の伝承保存に努力し、また次の時代の伝承者を育成している。いまその響きを構成するものについて述べる。
 柳川三味線の響きが他の三味線のそれと異なるのは、三味線の形状だけではなく、使用する付属品、すなわち「駒」、「絃」、「ばち」の形状の差異と、その演奏方法が、すなわち「ばち」の使い方と左手の用い方に特徴がある。(柳川三味線は、その形成する音に特徴がある。雅やかさの中の艶のある音色がそうである。この音色を出すには、単に、柳川の「ばち」を用いるだけでは無理で、口伝に従った「ばち」使いを必要とするのは勿論であるが、三味線およびその他の付属品も口伝にそったものを必要とする)
 
 三味線の特徴をあげると、その長さは他の分野のものと変わりはないが
(1)棹が細い。鳩胸は緩やかに丸みをもつ。海老尾は棹の太さに比し大きい。
(2)胴は華奢で軽い。京口は厚いが、中は抉ったように薄い。
(3)皮は作法として「八つ」を用いる。(薄くしなやかである)
(4)駒は鼈甲で作られている。台が大きく背が高い。
(5)「は」は高い。
(6)絃は 第一絃:#11、第二絃:#10、第三絃:#8と細い。
(7)根緒は金糸、銀糸で房。根緒掛の座に金銀のすかし金具を付ける。
(8)「ばち」は小さく、ばち先より手元の方が薄く、しなやかである。
 
 奏法の特色は、「ばち」で皮を叩かないことにある。
 
(1)「ばち」をもつときは、手のたなごころに、卵一つもったつもりで、軽くもつ。
(2)口伝は、「練るように弾く」。「ばち」のシナリを用いて(叩かない)練るように。
 
 左手の勘所の取り方は、原則として、指で直接に(スリをせずに)勘所をとる。以上を、柳川三味線の演奏に生かすことが、よい音色につながる。
 
 詳しくは「京都の響き 柳川流三味線」(津田道子著:社団法人京都當道会発行)をご覧下さい。
柳川検校
 生年は不明であるが、延宝8年(1680)没。一名(いちな)は「応一」。(名前の一は琵琶法師の所属流派を表す。某一のように号する。都、市も使用する)
 現在京都を中心に伝承されている三味線の流派「柳川流」の鼻祖。三味線の名手であり、また三味線組歌(三味線が日本に渡来後、当時の琵琶法師が手にし、苦心の末はじめて芸術作品としての三味線曲を作曲した。この一連の曲をいう)の改訂、補調、作曲をしたことで知られている。
「糸竹初心集」(寛文4年 1664)に「近代山井の弟子柳川検校、この道に心をよせ寤寐に忘れず、天性その骨をえて当代の名人也。色あい揆(ばち)のしなやかなる事、中々の凡人とは覚えず、さるによって、世に柳川流といふ」とある。また「色道大鏡」(延宝6年 1678)に「寛永(1624−44)のはじめ、摂州大阪に「加賀都」、「城秀」という「座頭」両人世に出、三味線を引き出すに、その堪能なる事、古今に独歩たり、東武にわたりて、大家高門の翫者となり、既に盲目の極官に昇進す。……
 「加賀一」は「柳川検校」、「城秀」は「八橋検校」となれり。今にいたり三味線において「柳川流」、「八橋流」というは是也。其後、出世したる検校、勾當の内に、此両検校をあざむくほどの名人あまたあれども、柳川、八橋検校は、三味線の曩祖たり云々」とある。
 また「松の葉」(元禄16年 1603)には「柳川検校」が補調、作曲、編集した組歌は「本手」、「端手」、「裏組」各7曲、および「秘曲」8曲で、これに浅利検校作曲の1曲を加えた30曲を「柳川流」の伝承曲としたことが記されている。これらの曲は京都を中心として伝承されている。
 なお「柳川検校」が実際に作曲したのは「端手」以下のものといわれているが、「端手」は「本手」の作曲者の一人の「虎沢検校」との共作ともいわれてる。いずれにしても何らかの手を加えたことは間違いのないことである。
 検校の表芸の琵琶は「三代関」によると「妙観派」に属し、「藤下いさ一」の下で寛永16年(1639)に検校登官、その弟子には「篠原きん一」があるが、この「篠原」の弟子には三味線を習った形跡の人はなく、三味線の系統は琵琶には関係なく続いたと思われる。
 柳川流の系統を示すと(名前の下の数字は検校登官年を示す)
 
柳川おふ一(1653)→浅利せう一(1656)→早崎そよ一(1712)→野崎とだ一(深草官一とも)(1716)→田中城訓(?)→安村らい一(1731)→河原崎(たみ一)(1776?)→上原検校(?)→桂くの一(1804)→富士岡検校(1831)→古川滝斎(1838−1908)→渡辺正之(1872−1937)→萩原正吟(1900−1977)
 
上記は上派の免状にある柳川流の系統であるが(ただし富士岡検校は下派に属する)、下派は「安村検校」以後は箏の系譜と同様に伝承されている。すなわち
 
安村頼一(1731)→浦崎了栄一(1801)→八重崎壱岐之都(1815)→初代松崎通信一(1823)→二代松崎孝謙一(1845)→松阪春栄(1854−1920)→津田青寛(1882−1946)→津田道子
 
注 名前の下の数字は、上派の古川、下派の松阪以後は検校登官年ではなく、生存年をあらわす。
京都當道会
 明治4年、太政官命をもって當道組織は廃止されたが、旧官途に属する男性盲人(検校、勾当などの職屋敷に属した人)により、地歌・箏曲の古典の伝承・保存、及び
 日本音楽を以て女子教育に従事する事を目的として、明治17年設立契約、翌年創立された。当時の有名邦楽家が組織し、「琴優社」と称した。事業としては前記のほかに祖神を拝し琴絃を弾奏、免状を発行することであった。(免状発行は検校のみが出来、それ以下の人は札下といって札元の検校を通して発行できた)この一方で固くななまでに古典を伝承・保存し今日に至っている。なお。大正11年に「京都當道会」と名称を変更、免状は當道会が発行し、女子も免状を発行できるようになった。平成2年「社団法人」京都當道会となり、京都発祥の柳川三味線、腕崎流胡弓、生田流箏曲の伝承・保存を会の目的として、新人の育成・演奏活動・研究を事業として現在に至っている。
 
 
(津田 道子)








日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION