日本財団 図書館


大きな壁を 乗り越えた今思うこと
 藤山 小百合
 解剖実習──それは聞きしに勝る厳しい日々の連続であった。今、私の中には、筆舌に尽くし難い充実感とぽっかり穴が空いたような喪失感とが同居している。非日常的な日常と隣り合わせの、尋常な感覚が麻痺した日々……そんなつらかった日々が今は愛しくさえ思える。
 思えば、毎日が新しい発見や知識との出会いで、刺激的な満たされた期間であった。しかし実際は、体力的にもそして精神的にも崖っ淵であった。日ごとに積み重なる疲労と睡眠不足、常にテストのことが頭から離れないストレスに加え、予習しなければ、復習しなければ、解剖用語を覚えなければ、といった焦燥を伴った強迫観念が私の心をんでいった。ふと我に返ったら自分から優しさや柔らかさや笑顔さえも失われていた時だってあった。そんな時は、自分なんて所詮我が儘で弱虫でちっぽけな人間なんだと思い込むことで自己を肯定しようとした。しかし、荒廃した私を常に奮い立たせ、鼓舞してくれた存在があった。同じ班や気心知れた親しい友人達、尖っていた私を暖く支えてくれた家族、ともすれば気を失ってしまう心の中の自分を律する心、そして只只無言で私たちにその身をまるごと委ね、教えることを喜んで下さっていたご遺体である。そして私は時折見失いそうになる医者になりたいという夢、それを手にするために使わせて頂いているご遺体への畏敬の念を思い起こして、真摯な気持ちで最後まで実習に臨んだ。
 それにしても、改めて人体というものは、宇宙に匹敵する果てしない深さと精巧さを兼ね備えた、まさに神の領域のものであった。骨、筋、神経、脈管、その他あらゆる組織がそれぞれの働きをこなしながら、互いに見事に調和して驚異的なバランスを以て一人の人間として存在していた。このことに対する感動は一生消えることがないであろう。
 医学は人体の中だけにとどまった閉じた学問であると邪喩する人もいるが、解剖実習を終えた今、そんなことは全くないと断言できる。これからも医師を志す一人の人間として、人体の秘密を知りたいという飽くなき欲望を追い求めながら、少しずつ着実に医学を自分の血肉にしていけたらと思う。
 最後になりましたが、解剖実習を通して私を支え導いてくださった全ての方々と、ご遺体を提供して下さった故人及び遺族に深く感謝しています。








日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION