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解剖学実習を終えて
勝島 詩恵
 「百聞は一見に如かず」ということを身をもって実感した解剖実習の六ヶ月であった。今まで筋の起始・停止や脈管・神経の走行、骨の形態的特徴などを文章やアトラスを見ながら必死で覚えてきた。しかし、どんなに理論づけて覚えていても、そのことを非常に忘れやすく混同、混乱してしまうのが私の悩みであった。また机上の勉強だけでは筋なら筋だけ、脈管なら脈管だけと分野ごとの理解は深まる一方で、各々の分野の相互関係を理解するのが非常に難しかった。しかし、実際に御遺体を解剖することで、いつも自分の頭の中で混乱していたことがうそのように明解に整理されていった。まさに、「百聞は一見に如かず」である。
 私達の解剖実習は、あらかじめ剖出箇所を知らされ、ここに何があるはずだということを念頭に置いて進められる。しかし、まだ医学が十分発展していなかった時代には、体のどこに何があるのか全く分からない状態で解剖が進められ、各器官の形態や機能が解き明かされていったのであろう。あるはずであると分かっていながら、結局それを傷つけてしまったり剖出できなかったりすることもあった自分の解剖実習をふり返ると、注意深さや観察力のなさを反省しなければならない。また、この自分が行っている解剖が医学の発展の原点であることを考えると、驚きと共に深い感動を覚えた。私たちの解剖実習は、医学の先達たちが残した偉業に立脚しているのである。しかし、マニュアル通りの知識ばかりをつめ込んでいると問題にぶつかることも多い。御遺体には破格が多いからである。私たちのグループでは御遺体に大動脈や坐骨神経の破格を発見した。それでは一体、破格の意味とは何なのだろうか。それは単なる発生過程における「事故」あるいは「偶然」にすぎないのかもしれない。しかし、大脳動脈輪において、中大脳動脈の破格が脳梗塞時に致命的となるような例を考えてみると、破格は進化や自然淘汰の一部なのかもしれないと思った。前述の例のように生存に不利な方向にはたらく破格もあった。しかし、大動脈や頸部の筋の破格は、より効率の良い血液循環の獲得や生存上あまり有用な機能を果たさない器官の自然淘汰を意味しているのかもしれない。
 今、四ヶ月間の解剖実習をふり返ってみると、自分自身の解剖実習に対する態度・姿勢が大きく変化していったと思う。最初は御遺体を見る、触れることに対しての恐怖感と、その御遺体に自らがメスを入れることに対する罪悪感や嫌悪感さえも感じられていた。しかし、次第に慣れていき恐怖感や嫌悪感よりも、解剖を進めていくうちに今まで文章として、またはイメージとして持っていた解剖の知識が、実際自分の手で確認できるということに喜びを感じ、さらなる興味がわいてきた。解剖実習は、医学を学ぶということの究極の形なのではないだろうか。しかし、ここで私たちが忘れてはならないことがある。それは解剖実習というものが献体という貴い行為があって初めて成り立つということである。最後には四肢や頭部までも離断されてしまう御遺体の姿を見ていると、自分だったら献体をする勇気があるだろうかと考えてしまう。私たちが最先端の医学を学べるのも、このような多くの方々の好意があってこそなのであることを、決して忘れてはならないと思った。そして献体をして下さった方々のご好意には将来医師となる私たちによりよい医療を行ってほしいという期待や願いも込められているに違いない。それを思うととても身の引き締まる思いがする。また、ご献体下さった方々にはご家族がおり、そのご家族は私たちの解剖実習が終わるまで納骨を待っておられることを聞いた時、私は大きな衝撃を受け、感謝の気持ちで心から頭の下がる思いがした。これほどまでのご好意に私は十分応えることができたのだろうか。今ふり返るとやり残してしまったことも多く、慣れが怠惰へと変わってしまうこともあった自分の態度を心から反省している。
 今日、半年にわたる解剖実習をふり返っていちばん強く思うことは、もう一度解剖をしたいということである。しかも高学年になってからもう一度解剖をしたいのである。今回の私たちの解剖実習はその日に決められた剖出箇所を出すだけで精一杯なところがあり、単純に各器官の確認作業のようになっていたように思う。しかし、高学年になって臨床を学び、様々な器官同士の関連を考えるようになったとき、もっと高い目的意識をもって解剖に臨めるのではないだろうか。せめて後輩の実習見学だけでも許可してもらいたい。
 本来、患者中心の医療を医者中心の医療のように錯覚し、医師の人間性が問い直されたり、医学の進歩が人間とは何かという問いまで浮上させている今日、私は解剖実習を通して医学の原点を見つめ直し、自分のこれからの学習に対する態度を改めるきっかけを与えられた。このような貴重な体験ができたことを私は心から感謝している。








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