日本財団 図書館


解剖学実習を通して
 市川 訓基
 「黙祷」
 坂井教授の言葉とともに目を閉じると、私の心はもはや緊張と興奮のピークに達していました。本来なら、ここで深呼吸でもして心を落ち着かせ、「さあこれから頑張ろう!」と気持ちを高めるところですが、私の手には汗がにじみ、「これからこのご遺体にメスを入れるのか」という不安と恐怖心に苛まれていました。亡くなっているとはいえ相手は人間なのです。頭の中は真っ白になり、解剖室でご遺体に向かっている怖れと厳粛さが私の不安を一層大きいものにし、私はその場に立っているだけで精一杯だったような気がします。
 そんな私は、最初の一カ月くらいというのは、ただ必死に解剖についていくだけでした。それは、手引きを読んではご遺体に目を移し手を動かす、という作業を繰り返すというものでした。しかし、二カ月もたてば、心の中にも余裕が生じ、自らのお体を提供してくださった方のことを考えるようになっていました。すると、ご遺体と何か無言の会話をしているような気がするようになり、ご遺体に対しどこか親しみを感じるようになっていました。それは私だけに限らず、その日の解剖中、及び解剖後にご遺体が乾かないようにそっと湿らせたり、ご遺体の周りを整理整頓してきれいな状態を保っていたことなどに表れていたように思われます。
 そして、年も明け最初の解剖のとき黙祷を捧げましたが、そのときの私は、解剖初日のときのような不安はほとんどなく、心は驚くほど静まっており、「後少しですが、これからもよろしくお願いします」と、心の中でご遺体に挨拶できるくらい落ち着いていました。このときは、私自身、一回り大きくなった気がしました。私がこれほどまでに精神的成長を遂げられたのも白梅会の方々のおかげだと思っています。というのも、知識はもちろんのこと、それ以外で多くのことを感じ取れることができたからだと思います。それは、解剖初日私が抱いていた「期待」と関連しているのです。
 解剖初日、不安とともに抱いていた期待とは、講義では学ぶことのできないことを体全体で感じ取れるのではないか、というものでした。人間は霊長類の長で、この地球上で最も高等な生物であり、死後でも魂が残るといわれています。人間の意志というのは、死んでもこの世のどこかで生き延びて、残っている人々にある種の影響を与えています。例えば、古今東西の宗教家、哲学者、芸術家などみなそうでしょう。しかし、彼らだけでなく、誰もが死後も熱烈なメッセージを後世の人々に残しているのです。そして今回、私は、白梅会の方々から簡単なことではありますが、この世で生きていく上で大切なものを受け取った気がします。それは「友愛」です。それは、私が高校生だった頃に思い描いていた理想の医師像には欠かせないものだったのです。
 私がまだ高校生だった頃、将来は「草木の根」のような人になりたいと考えていました。それは、自分が花を咲かせられなくても、誰かが美しい花を咲かせることができるようにその人をしっかりと支えていきたいという考えです。医師こそが「草木の根」ではないかと思い、医師を志すようになりました。人間にとって最も大切なことは自分が健康であることであり、それを支える手助けをしているのが医師だと思ったからです。私たちは医学教育を受け、医師とは何たるかを学び取ろうと日々一生懸命励んでおりますが、白梅会の方々と出会ったことで「深い友愛」というものを感じ取れた気がします。「草木の根」のような医師になることは、友愛があってこそ為し得ることだと思います。最後になりましたが、これまで私たちは教科書等の図、解説をもとに頭の中で想像することにより医学を勉強してきました。それは、ヒトの体の構造を見たことのなかった私たちにはやはり難しいことです。そんな私たちのためを思い、白梅会の方々が、医学の将来のため、自ら医学教育に参加し、学識、人格ともに優れた医師を養成するための礎となってくださったことに深く感謝をするとともに、私たちが医師になっていく上で必ず活かしたいと思います。そして私たちも、白梅会の方々の思いを胸に、人々に対して深い友愛をもって接し、立派な医師になりたいと思います。








日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION