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解剖学実習を終えて
 加藤 新
 解剖学実習の最終日を翌日にひかえて、実習のテキストをパラパラとめくっていたら、一ページ目の鉛筆の走り書きが目に止まった。「七十六歳、男、遺体番号一三六六、死因肺癌・肺炎」僕が解剖させていただくことになったご遺体について、教えてもらうことができた唯一の情報だ。そんな事務的な記載の下に消え入るようなひょろひょろっとした文字でひとこと「あなたの人生教えてください……」とある。そういえば実習初日に、なんとなく釈然としない複雑な気持ちで書きなぐったことを思い出した。そしてまた、その時のちょっと複稚な気持ちがよみがえってきた。
 「人生教えてください」などとは安易なセンチメンタリズムだ、と言われてしまえばそれまでかもしれない。だが、約三ヶ月の実習を通して、折りに触れてそんな気持ちに捕われた。このご遺体の方にも、ご家族や兄弟や友人がいらっしゃるに違いない。たくさんの人間関係を築きながら、七十年以上の人生のなかで笑いもし、泣きもし、時には火のように熱い恋もしたのだろうか。かなわぬ希望だと知りながら、このご遺体の一生の一部でも知ることができたらと思った。人の人生を知るということは、その人に敬意を表すことだと思う。
 実習には真剣に、一所懸命取り組んだ。ただそれでも、献体をして下さったこの方の尊いご意志やご遺族の方々のご理解に見合うものだったのかと問われれば反省の点もある。
 「ありがとうございました。僕はあなたの納得のいく学生だったでしょうか? あなたは僕に合格点を下さいますか?」
 そうご遺体に問い掛けて、実習を締めくくりたいと思う。








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