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解剖学実習を終えて
 牛島 寛
 人体解剖、それは多数派を常とする世界で非日常的な感覚を抱く言葉だろう。私は約半年の間、しばしばそういった意識に囚われながらも実に現実的な実習を進めていった。
 人間を治療する職業に就くにあたって、その構造を実際に把握することは至極当然であるだろう。だが、それは我々と同じ人間の大きな勇気と貢献の元に成り立っているという真実を忘れてはならない。それ故、私は死体に対する恐怖感や嫌悪感は全く感じなかった。その様な感情は献体者への冒涜だとさえ思った。メスを入れたその瞬間から、私は他人を治療によって救う義務があると確信した。
 実習はいたって現実的であった。先人達の付けた人体の様々な名称は、如実にその位置や形状を表していた。その功績と構造には感嘆せずにはおれなかった。人体の構造は何一つ無駄なものはなかった。そしてその全てが生命維持のためのものだった。どんなに精密な機械も比べものにならない程、生命というものは複雑で機能的な構造であった。
 だが、どんなに解剖してみても、一つだけ見えないものがあった。それは、「心」。
 私は、今、自分の心の存在を意識することができるのに見ることはできない。心はどこにあったのだろう。心臓や脳に心があったのだろうか。脳は記憶や意識を司っているが、何の手掛かりも残してはいなかった。
 生きているということ、それは心があることなのかもしれないと思う。私よりも、はるかに長い年月生きていた献体者の、その日々を私は直接その体に触れても全く知ることはできなかった。人は死んでしまうと、その心は永遠に閉ざされてしまう。無言の体だけが残される。
 しかし、私は無言の死者も他人の心に働きかけているということにも気付いた。献体という、その意志、それは解剖を行って見ることができないと実感していながらも、私はその勇気に敬意を表していた。私が知り、見ることができた心があるとすれば、その遺志であるだろう。
 まだまだ、一人前には程遠いが、この遺志を私の心の中に留め精励していきたい。解剖実習を終えて、私は何よりも生死について学ぶことができたと思う。最後になりましたがこの場を借りて私に実習の機会を与えて下さった人々に感謝します。








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