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第2部 海洋世界のパラダイムシフトと新しい時代の安全保障、防衛・警備
3 海洋世界のパラダイムシフトと今日の海洋
 1957年5月、中国の南京にある明の時代の造船所跡から、全長11.07メートルの巨大な木製の舵棒が発見された。明の時代といえば、永楽帝の命を受けた鄭和が、8000トンともいわれる木造の「宝船」を旗艦とする大艦隊を率いて、南海大遠征を実施したという史実がある。発見された舵棒が鄭和の「宝船」のものであったか否かは別として、西洋による大航海時代よりもはるか以前の中国に、巨大な船舶を造りだす技術があったことを示すものとして興味深い。シナ海、インド洋を経てはるかアラビヤに至るまでのユーラシア大陸東南の海洋には、インドや中国の古代帝国の昔から、広大な海上の交易圏が開け、独特な海洋世界が栄えていた。その海洋世界は、ヴァスコ・ダ・ガマのヨーロッパからインド洋までの航海によって一変する。
 
 人類による海を越えての通商の歴史は、シーパワーの興亡の歴史でもある。時代に卓越したシーパワーが一つの「海洋世界」を出現させ、その「海洋世界」はやがて、より巨大なシーパワーの波に飲み込まれ、大きくそのパラダイムを変貌さる。本章は、人類と海洋との関わりの歴史を「海洋世界のパラダイムシフト」として捉えて回顧すると共に、新たに迎えつつある今日の海洋世界について考察を試みる。
 
(1)海洋史の中の海洋世界
a ユーラシア海洋世界
 鄭和が、第1回南海大遠征のために南京郊外の劉家港を出港したのは、1405年のことであった。鄭和の艦隊は大型船62隻、乗組員27,800名余をもって編成されていた。台湾海峡から南シナ海に入り、ジャワ海、マラッカ海峡を通過してインド洋に進出し、当時、胡椒や綿布の交易で栄えていたインド西岸の町カリカットに入港した。カリカットでは、永楽帝の詔勅と銀印を統治者に授け、記念石碑を建立し帰国の途についた。航海は足掛け2年に及ぶものであった。コロンブスのアメリカ大陸発見(1492年)、ヴァスコ・ダ・ガマのインド洋航路発見(1498年)のおよそ100年も昔のことである。因みに、コロンブスの航海は3隻・120名で、ヴァスコ・ダ・ガマの航海は4隻・170名によってなされた。これらに比べると、鄭和の艦隊は桁違いに大きかった。鄭和艦隊の南海大遠征は、その後6回実施されたが、度々北方を脅かすモンゴルに対する出兵、内政重視政策、経費削減の必要性等から、1433年の第7回目の航海を最後に取り止められた。第4回以降は、ホルムズ海峡、アラビア半島、アフリカの北東岸まで達している。
 
 鄭和艦隊による南海大遠征の目的は、海外の貿易相手に対して明の国威を示すと共に、朝貢、冊封の輪を確認し広めることにあった。鄭和艦隊の7回の遠征において、海上戦闘といえるようなものは生じなかった注54
 
 インド洋は冬季に北東、夏季に南西の季節風が吹く。この季節風を利用して、アジアの海人は遠く紅海にまで進出していた。インド古代帝国の経済を「ドラヴィダの海上活動」が担い、「百越の海人」の交易によって秦や漢の帝国が栄えたように、シナ海からインド洋、アラビア海にかけたユーラシア大陸東南に広がる海洋には、コスモポリタン的な海の民と商人の繰り広げるトランスナショナルな交易圏としての「ユーラシア海洋世界」が開けていた。鄭和の南海大遠征は、そのような海洋世界に入り込んできた国家による「覇権」の意思表示であった。東アジアの自然律的な縦社会構造の中で、敵の無い鄭和艦隊の航海が繰り広げられた注55。広東から紅海までの海路は、コロンブスが航海したスペインから西インド諸島までの約1.5倍、ヴァスコ・ダ・ガマのポルトガルから喜望峰までの海路とほぼ同じ距離である。大航海時代の幕開けは「ユーラシア海洋世界」にあったといえよう。
 
 アジアの海が最も活気溢れるのは、大元帝国の時代に入ってからであった。大元帝国の出現によってユーラシアが一つの世界となったことに加え、元がイスラム教徒に寛大で、さらには東西通商を保護する政策をとったため、陸上の「絹の道」と共にアジアから中東にかけての海上交通路、「ユーラシア海洋世界」のシーレーンも大いに栄えた。元が本格的な水軍を組織するのは南宗を統一した後のことである。南宗は常備水軍を保有していた。南宗が水軍を常備していたのは、江南にあって海洋との関わりの深い歴史があったことにもよるが、その第一の目的は中華帝国たる中原からの攻撃に対する備えであり、専ら長江における哨戒がその任務であった。つまり、南宗の水軍は国内に対する備えのためのものであった。元が南宗を平定したのが1277年であり、1281年の元寇「弘安の役」では、南宗水軍が侵攻兵力の主力を担っていた。元寇の失敗の後、旧南宗水軍の生き残りは倭寇に加わることになる。
 
 元が滅び、明の時代になると、内陸・農業国家としての伝統的中華帝国への回帰の中で、民間商人による海外貿易を禁止する「海禁」が発令される。これにより、海上交易は明帝自身、つまり国家によって統制されることになった。鄭和艦隊の南海大遠征の目的もそこから生じている。つまり、明による、いわば国営貿易のためのシーパワーの誇示であった。しかし、当時、鄭和艦隊に敵するような海軍力は「ユーラシア海洋世界」にはない。跳梁していたのは、倭寇や南越方面の海賊だけであった。鄭和艦隊の大遠征は、海軍力によるプレゼンス、砲艦外交の原形ともいえよう。 鄭和艦隊の南海大遠征は7回をもって終了した。北方から迫るモンゴルに対するための軍事力の強化、北京への遷都、膨大な人口を養うための食糧供給といったものが明の財政を圧迫する中で、遠征に要する費用は大変な負担となっていた。平時における海軍の維持は経済を圧迫し国力を疲弊させるものである。明帝にとって、敵無き海軍は浪費家としか映らなかったのであろう。その60年後、ヴァスコ・ダ・ガマが喜望峰を回ってインド洋に入る。インド洋に敵はいなかった。アジアに被植民地の時代が始まった。
 
b 閉鎖海洋世界と海軍
 鄭和艦隊が南海大遠征を繰り広げていた頃、地中海はルネサンスの春を迎えようとしていた。オスマン・トルコ帝国の隆盛によって地中海世界とオリエントとの陸路による交易が脅かされるようになると、ルネサンスの活力は地中海の海洋世界を中世の頚木から解き放し、大航海の世界へと導き出していく。スペインとポルトガルによる大航海時代が始まり、航海術、操船術、造船能力は飛躍的に向上していった。そのような中で、オスマン・トルコ帝国が地中海へと迫っていた。
 
 1453年になって、トルコ軍の侵入によって東ローマ帝国の首都コンスタンチノーブルが陥落すると、キリスト教連合軍とトルコ軍との戦闘は、やがて、黒海と地中海を舞台にして繰り広げられるようになる。1463年、トルコ海軍はエーゲ海に進攻しヴェネツィア海軍と戦闘状態に入った。ロードス島の攻防でトルコ軍の侵攻を食い止めたキリスト教連合軍は、キプロス島に守備隊を置き、持久戦となった。いわば冷戦であった。30年の沈黙を破って、トルコ軍がキプロス島を奪回すると、キリスト教連合軍は、トルコ海軍の地中海侵入を阻止するため、ヴェネツィア、法王庁そしてスペインから派出された海軍部隊をもって神聖同盟連合艦隊を編成することになった。この時、常備艦隊を保有していたのはヴェネツィアだけであった。ヴェネツィアの常備艦隊は、地中海に入り込んでシーレーンを脅かしていた北欧ヴァイキングに対するものであった。つまり、海賊対処の海軍だったのである。法王庁とスペインは、急ごしらえの海軍の編成とその司令官人事で手間取って出港を大きく遅らせてしまうという失態を演じている。
 
 1571年、ペロポネソス半島のレパント沖の海上で、トルコ艦隊と神聖同盟連合艦隊との大規模な海上戦闘が生じる。レパントの海戦である。トルコ艦隊230隻、神聖同盟連合艦隊208隻のガレー軍船を主体とする史上最大の艦隊決戦となった。神聖同盟連合艦隊が準備した大砲16門を装備するガレアッタ6隻が威力を発揮し、トルコ艦隊は壊滅する注56
 
c シーパワー・ルネサンス
 レパントの海戦以降、海軍力もまた閉鎖海となっていた地中海を抜け大西洋へと出帆していくことになる。大航海時代は既に幕を開けており、大西洋、インド洋への航路が啓けていた。「海洋の自由」(勿論、「海洋の自由」が慣習化されるには今暫くの時間を必要とするのだが)に海軍力が結び付き、やがて、「砲艦外交」、「シーレーンの防衛」、「プレゼンス」といった海軍の任務が形作られ、「シーコントロール」、「シーパワー」が、広い海洋を舞台として展開されていくことになった。海洋自由と海軍の合体を、「シーパワー・ルネサンス」と呼ぶことができよう。後述するが、シーパワーの発祥は紀元前の地中海にある。
 
 ところで、ヴァスコ・ダ・ガマが喜望峰を回ってインド洋に入ったとき、鄭和から引き継がれてきた艦隊がそこにあったなら、歴史はどうなっていたであろうか?装備や戦術の面で地中海の海軍力には劣っていたとしても、例えば、シナ海やアンダマン海に要塞艦隊として存在していたなら、その力は歴史に何らかの影響を及ぼし、「ユーラシア海洋世界」にもパワー・バランスの世界が生じたかもしれない。しかし、ポルトガルがアジアの海に現れる以前に鄭和艦隊は消滅していた。
 
d シーパワーの発祥
 地中海の歴史を2000年ほど遡ってみよう。B.C.480年、ペルシャとアテネの間で繰り広げられたサラミスの海戦は、大陸からの勢力(ペルシャ)と海洋の勢力(アテネ)との対立フロントで生じた争いであった。サラミスの海戦に勝利したアテネが地中海の東部を支配する時代が続くが、やがて大陸国家マケドニアの征服によってその支配力は消滅する。200年後のB.C.265年から始った第1次―第3次ポエニ戦争で、カルタゴを滅ぼしたローマが地中海西部に制海権を得ることになる。サラミスの海戦が大陸勢力と海洋勢力の地政学的な対立に基因する戦いの発祥であったとすると、ポエニ戦争は、海洋における覇権を巡る戦いの発祥であったといえよう。
 
 地中海における海洋活動の歴史は古い。ギリシャ史によれば、古代海洋民族フェニキア人は、レバノン杉で作った船を駆って地中海に乗り出し、紀元前1200年にはジブラルタルを抜けてアフリカ西岸から喜望峰を回りアラビア海に達していたという。ポエニ戦争で勝利したローマは地中海の海洋民族・海洋活動を統合し地中海に制海権を獲得する。シーパワーの誕生であった。ローマに敵する海軍力が消滅し、やがて地中海はローマの閉鎖海と化していく。ローマに敵する海上の脅威が減少するにつれて、ローマの海軍力もしだいに縮小され、地中海を守る主体は沿岸の陸軍へと移されていった。ローマはランドパワーに変質していくことになる。
 
 地中海には、「大陸勢力と海洋勢力との戦争」→「シーパワーの誕生」→「海洋勢力の覇権を巡る戦争」→「海軍力による支配・海洋世界の誕生」→「敵の不在」→「閉鎖海化」→「海洋世界のランドパワー化」、といった歴史が流れ、力の真空地帯にイスラム世界という異質のパワーが入り込み、レパントの海戦を生じさせたのである注57
 
e シーパワーとシーコントロール
 アメリカ海軍で閑職に甘んじていたマハンは、海戦史を研究し、第2次ポエニ戦争においてローマがカルタゴに勝利したのは、海軍力によって地中海をコントロール下においたからではないかと考え、さらに、スペイン、オランダ、イギリスなどの海洋史を紐解いて、古来、海洋を適切に利用し得たか否かが国の興廃を左右してきたという歴史上の事実に辿り付く。1890年、マハンは「歴史に及ぼしたシーパワーの影響(1660〜1783)」を著し海洋を適切に利用し得る力としてのシーパワーの重要性を提唱することになる。
 
 マハンのシーパワー論は、マッキンダーの講演「歴史の地理学的な回転軸」等、地政学に大きな影響を与えていく。しかし、第1章で述べたように、マハンの唱えたシーパワーは海洋を利用する国家の力であって、地政学的にランドパワーと対比されるシーパワーとは本来異質なものであった。マハンの「歴史に及ぼしたシーパワーの影響」が、日本では「海上権力史論」と訳されているが、これは誤訳ともいえる。シーパワーは「海上権力」というよりも「海洋力」とでも呼ぶべきものである。「権力」というと覇権的な力と解釈されがちであるが、「ユーラシア海洋世界」を形作っていたコスモポリタン的なシーパワーも存在していたのである注58
 
 シーコントロール(制海)は、有事において海洋を優位に使用し敵の利用を拒む、平時においてはそのような可能性を示唆する力を海洋に現存させておくことと解釈して差し支えないであろう。レパントの海戦によって、シーパワーの中核としてのシーコントロールが確立され始め、地中海にあった海洋世界は大西洋にその舞台を移すことになった。 大航海による航路の発見、そして「発見=占有」という時代を背景としてシーパワーは閉鎖海を作る力ではなく、領域の拡大を図るための力へと変貌していった。長く伸びたシーレーンの上には、他国のシーパワーが入り込んでくることを拒むための海軍力が必要となった。長く伸びていくシーレーンを守るためには、現存艦隊注59が必要となった。海軍力がシーパワーの中核となり、シーコントロールが海軍の目的となった。
 
 歴史上初めて、真の意味でのシーコントロールを為したのはイギリス海軍であった。1588年、スペインの無敵艦隊アルマダを壊滅させたイギリス海軍は、その後、オランダとの戦いにも勝利して、七つの海を支配するパクス・ブリタニカの時代の形成に貢献する。世界の海にイギリス海軍のシーコントロールが行き渡り、イギリスのシーパワーに対抗する勢力はなかった。第一次、第二次世界大戦を経て、海洋の主役はイギリスからアメリカ海軍に引き継がれる。
 
f シーパワーバランス
 太平洋戦争を日米のSLOCを巡る戦争として捉えることもできるだろう。シーコントロールを目指して、日米が海軍戦略に基づく作戦を繰り広げた。第2次大戦が終わり冷戦の時代、世界の海洋はアメリカ海軍とソ連海軍の戦略的対立の中にあった。太平洋戦争は、太平洋上に覇権を巡る戦争の形を作り、冷戦は、海洋にパワーバランスの世界を生じさせていた。
 
 第1、2章で述べたことの繰り返しになるが、冷戦の時代のシーパワーバランスを振り返ってみよう。1960年代、アメリカの軍事戦略は、それまでの大量報復戦略から柔軟反応戦略に移り、即応展開が可能で事態に柔軟に対応できる機動空母が海軍力の主役となった。アメリカの空母機動部隊を中心とする地球的規模の海軍部隊の展開に対して、ソ連海軍はアメリカ海軍のシーコントロールや陸上への兵力の投入を拒否することのできる兵力整備を進め、歴史上類を見ない程の大規模な潜水艦部隊を作り上げていった。アメリカにとって、ソ連の潜水艦は空母機動部隊の作戦と長く伸びた海上の兵站線に対する大きな脅威となった。1978年、アメリカ海軍は、SLOC防護のための「シープラン2000」を策定し、ソ連潜水艦に対する地球的規模のキャンペーンを展開していった。 しかし、このような地球的規模の対潜キャンペーンは、海軍がその目的とするシーコントロールを追求するのではなく、シーコントロールを拒否する潜水艦の排除に多大の兵力を割くという、海軍戦略のパラドックスでもあった。1986年の「海洋戦略」は、アメリカの戦略を大きく変更するものであった。「海洋戦略」は、平時のうちからソ連の近海にプレゼンスし、緒戦をソ連の防衛水域で戦い、開戦当初から敵中枢を破壊する作戦を敢行する極めて攻勢的なものであり、その構想の中では、ソ連の潜水艦は、ソ連海軍の他の海上兵力と共に、平時のうちから氷海にまで封じ込められるべきものであった。ソ連を地球的規模で海上から封じ込めることを意図した「海洋戦略」を実現するためのバックボーンは、15隻展開可能空母を含む600隻艦隊と同盟戦略であった。東欧の自壊によって冷戦は終結し、「海洋戦略」を実現するための600隻艦隊構想は未整備の状態で終わった。
 
 鄭和艦隊の遠征中止、イギリス海軍の展開規模の縮小は、共に国力の疲弊の中で決定されたものであった。アメリカの海軍力は、仮に冷戦が続いていたとしたならば、「海洋戦略」を実施するための、つまり“封じ込め”という形での完全なシーコントロールのための、600隻艦隊構想は実現していたであろうか。当時のアメリカは双子の赤字に苦しむ時代であった。アメリカ海軍によるパワーバランスを崩す試みは、東側の力を消滅させると同時に、アメリカの海軍力自体も縮小させることになった。ともあれ、冷戦の終結は、海洋のパワーバランスを消滅させた注60
 
 軍艦奉行を辞した後の勝海舟が、海軍の在り方を問う海軍士官を前して、「海軍など持たない方が良い。敵国の海岸線を戦線とするようでなければ海軍の意味がない。それをやろうとすれば国力が疲弊する」と諭したといわれる。海軍力の維持には叡智が問われる。海軍をいかに使いどのようにして維持していくか、それは全ての時代を通して海洋国家の大きな課題なのである。冷戦後、アメリカの海軍戦略の重点は、「From the Sea」に示されるように、沿岸海域に移された。広大な公海に、「力」が不在となっていく。
 
(2) シーパワーと海洋世界のパラダイムシフト
 シーパワーの形態の変化が海洋世界にパラダイムシフトを生じさせてきた。ここでは、それぞれの海洋世界のパラダイムと、それを形作ってきたシーパワーを類型化し、これからの新しい海洋世界を展望してみる。
 
[1] 「閉鎖的な海洋世界」とシーパワー
 − ポエニ戦争からレパント海戦までの間の地中海世界−
 サラミスの海戦とポエニ戦争を経て、地中海にローマのシーパワーが確立された。しかしそれは、地中海を閉鎖海とする海洋世界を形作っていくものであった。いわば、「閉鎖海洋世界を形作るシーパワー」であった。
 
やがてシーパワーが大西洋、インド洋に舞台を広げ、海洋世界は「閉鎖的な海洋世界」から「自由の海洋世界」へとそのパラダイムをシフトさせることになる。レパントの海戦は、「海洋自由」概念に海軍力を結び付けた。まさにシーパワー・ルネサンスであった。
 
[2]「トランスナショナルな海洋世界」とシーパワー
− 1498年以前の「ユーラシア海洋世界」−
 古代インド帝国を支え、また歴代の中国王朝に影響を与え続けた「ユーラシア海洋世界」には、鄭和艦隊に見られる、中華帝国による朝貢や冊封といったしきたりの強制や、倭寇、あるいは南越方面などに跳りょうする海賊などもあったが、その海洋世界を支配していたものは、コスモポリタン的な海洋の民を主体とするシーパワーであった。そのようなシーパワーを、トランスナショナルな海洋世界を形作るシーパワーと呼称することができよう。
 
[3]「自由の海洋世界」と国家のシーパワー
− シーレーンを延伸するシーパワーがもたらした海洋世界−
「発見」=「占有」の国際法概念の下、スペインやポルトガルが、植民地と市場を求めて、国家のシーレーンを延伸させていくためのシーパワーを育む。そのようなシーパワーは、海軍力を背景としたイギリスによって完成され、それが「自由の海洋世界」を形作っていった。「自由の海洋世界」は、排他的なシーコントロールを背景とするシーパワーによってもたらされたものではあるが、地球的規模のシーレーンの延伸によって、世界は一つになった。
 
[4] 「パワーバランスの海洋世界」とブロックシーパワー
− 冷戦時代における海洋世界−
 冷戦は海洋にパワーバランスの世界を生じさせていた。国際秩序は、基本的には「海洋自由」であったが冷戦構造が常に支配していた。覇権が生じなかった故に海軍力が減少することはなかった。海洋の戦略環境は固定され続け安定していた。アメリカの「海洋戦略」によってシーパワーバランスは崩れる。シーパワーバランスの崩壊が、新しい海洋世界への扉を開いていくことになる。
 
[5] 新しい海洋世界、「管理の海洋世界」とシーパワー
 冷戦後、海洋には新しい世界が生まれつつある。それは、次のような海洋を巡る五つの変化によってもたらされようとしている。
 
− パワーバランスの消滅と海軍戦略の変化
− 経済活動のグローバル化に伴う海洋世界のボーダーレス化
− 国連海洋法条約による国際海洋法の基本構造の変化
− 海洋レジームの地域化
− 海洋に関わる主体の三層構造化注61
 
 マハンは、シーパワーが歴史に及ぼした影響を説いた。歴史上、シーパワーが海洋世界を形作ってきたことは否定できない。しかし、新しい海洋世界は新たなシーパワーの出現によって形作られているのではない。それは、「自由の海洋世界」から「管理の海洋世界」への海洋世界自らの変貌であって、変化によって影響を受けるのはむしろシーパワーの方である。歴史上初めて、新しい海洋世界が、その海洋世界に適合するシーパワーを求めている。以下、新しい海洋世界のパラダイムについて考察すると共に、そのパラダイムを安定させるためのシーパワーの在り方について検討を試みることにする。
 
(3) 管理の海洋世界
a 海洋を巡る新しい動き
 前述した海洋を巡る五つの変化によって、海洋に新しい世界が開かれつつある。それは、人類による海洋との関わりの新しい歴史の始りでもあり、そこにおいて、新しい海洋世界に適合するためのシーパワーの変革が求められている。海洋を巡る変化は、次に述べるように、それぞれに相関関係を持って生じている。
 
[1] 冷戦構造の崩壊によるパワーバランスの消滅と海軍戦略の変化
 冷戦時代の海洋は、シーパワーバランスの中で揺れ動いていた。米国による対ソ封じ込めのための地球的規模の海軍部隊の展開と、それを支える同盟作戦に対して、ソ連はそれを拒否するための海軍兵力の展開を図った。世界のあらゆる海域に海軍力のプレゼンスがあり、海洋を巡る安全保障環境は、緊張の中にあって安定していた面があった。
 
 冷戦後、外洋における脅威の減少に伴い、米国とその同盟海軍の戦略の重点は、紛争の顕在化する地域の沿岸海域へと移行している。600隻艦隊構想のもと、地球的規模で兵力展開を図った米海軍は、この10年間でその兵力の1/3以上を削減した。外洋に、海軍力のプレゼンスと海軍戦略が不在になっている。
 
[2] 経済活動のグローバル化に伴う海洋世界のボーダーレス化
 冷戦後、グローバル化する経済活動の進展に伴って、海運の世界も大きく様変わりした。ここに、実在する外航貨物船がある。この貨物船の所有者はノルウエー人、船籍国はリベリア、管理者はキプロス人、保険会社はイギリスで再保険会社がアメリカ、乗員は船長がポーランド人で船員はバングラディシュとフィリピン人、用船契約はアラブ首長国連邦で、積荷はイタリア、フランス、ドイツに向けたものである。また、タイの日本企業用資材が、フィリッピン船員の運航するパナマ籍のコンテナ船によって、オーストラリアからハブ港であるシンガポールへ運搬されるケースもある。このような多国籍化あるいは無国籍化ともいえる状況は、漁業の世界にも広がりつつある。日中の漁業交渉が続く東シナ海の漁業暫定水域には便宜地籍漁船が多数入り込んで操業しており、問題を一層複雑化させている。排他的経済水域での漁業は、沿岸国が漁業資源の持続可能採取量を決定し、他国に対して漁業割り当て量に従った操業を認めることになっているが、便宜地籍漁船の取扱は厄介な問題を提起している。
 
 今、海洋の世界は想像をはるかに超えてボーダーレス化している。かつて遠洋漁業といわれたものは、今は、他国の排他的経済水域での漁業と呼ぶ方が相応しい。殆どの漁場はいずれかの国の排他的経済水域にあり、また多くの場合、その周辺には重要なシーレーンが通り、ボーダーレスな海運活動が展開されている。海軍力のプレゼンスは希薄であり、どこか、かつての「トランスナショナルな海洋世界」に似通っている。しかし現在の海洋世界は国際法によって「海洋管理」が規定されている。
 
[3] 国連海洋法条約による国際海洋法の基本構造の変化
 1994年に国連海洋法条約が発効し、沿岸国に排他的経済水域や大陸棚の資源や環境などに対する主権的権利や管轄権が認められるようになった。これにより、世界の海洋の約49%はいずれかの国の管轄下に置かれることとなり、「海洋自由」から「海洋管理」へと、海洋利用秩序の基本は大きく変化することになった。
 
 国連海洋法条約が審議された時代は冷戦の時代であった。沿岸国は国家管轄水域を得、伝統的な海洋国家あるいは大海軍力を有する国家は国連海洋法条約の規定を遵守することにおいて航海自由の権利を確保した。「管理」と「自由」の間には本来線引きが必要なのであるが、冷戦を背景として、大海軍力保有国家と沿岸国家との間でこの問題が話し合われることはなかった。外洋における海軍プレゼンスの減少の中で、沿岸国家間で海洋管理のための制度作りが進展している。しかし、国連海洋法条約と海軍活動は依然として離婚した状態が続いている。
 
[4] 海洋レジームの地域化
 国連海洋法条約は、海洋における資源乱獲や環境破壊、さらには海洋資源に対する沿岸国のナショナリズムを危惧し、「持続可能な海洋開発」と「海洋における紛争の平和的解決」という基本理念を謳い、そのための「予防的アプローチ」と「国際協力」の適用を規定している。この国連海洋法条約を枠組として、これに基づく、あるいは関連する様々な地域的取極や協定が締結されつつある。
 
 海洋資源・環境の問題への取り組みには、地域海洋における国際協力が不可欠であり、これが、海洋レジームの地域化の傾向を生じさせている。地域海洋レジームへの取り組みにおいて最も先行しているのが地中海であり、「地中海・黒海委員会」が設立され、資源・環境、海運、通航、安全保障等を対象とした、地中海・黒海の総合的な管理のための制度についての検討がなされている。かつて「閉鎖的な海洋世界」においてシーパワーを発祥させた地中海で、今、周辺諸国が管理の時代を迎えた海洋世界のレジーム作りを先駆けていることは興味深い。
 
[5] 海洋に関わる主体の三層構造化
 永い間、海洋は誰のものでもない「無主物」という国際法の基本概念の下で、真に海洋を利用し得る国家、いわば伝統的な海洋国家のみが海洋自由を享受して国家の繁栄と安全を得てきた。しかし現在、海洋世界のボーダーレス化と海洋管理の時代を迎え、あらゆる国家が海洋との関わりを深め、さまざまなアクターが海洋へのアクセスを試み、その中で、海洋管理のための多様な取極が模索されつつある。
 そのような情況下、海洋との関わりの主体は、これまでのような国家あるいは国際社会にとどまらず、海洋を「人類共通の財産」と捉え、人類社会の持続性ある発展のために、国家のみならず国家の枠組を超えたあらゆる主体によって海洋を適切に管理する、つまり、オーシャン・ガバナンス注62による海洋管理を提唱する動きも見られるようになっている。また、多国籍企業やNGOといった、国家の帰属を超えた主体の関与も盛んになっている。今、海洋と人類の関わりの構造は、国家(ナショナル)、国際(インターナショナル)、そして、国家の枠組みを超えた主体(トランスナショナル)の三層構造として捉えなければならなくなっている。
 
(4)「管理の海洋世界」としての「ユーラシア海洋世界」−考察−
a 安全保障環境
 海洋レジームの地域化傾向の中で、かつてトランスナショナルなシーレーンを特徴とした独特な海洋世界が存在していたユーラシア大陸東南方の海洋に、再び一つの地域世界が形成されつつあるように思われる。この新たな「ユーラシア海洋世界」には、以下のような国家間の主張の対立や未解決の問題、さらには国境を超えたグローバルな問題などがあって、国家間関係の発展を阻害し、あるものは安全保障上の不安定要因ともなっている。
 
・海洋資源取得権、国家管轄水域の画定、島嶼の帰属を巡る紛争や意見の対立
・沿岸国の不適切な管理による資源の枯渇
・陸上あるいは船舶を起因とする環境の破壊
・無統制の海上交通
・「海洋自由」と「海洋管理」、「海洋の平和利用」と「海軍活動」を巡る意見の相違
・過剰な管轄権の主張による海洋の分割化と、それによる「航行の自由」の阻害
 
 国連海洋法条約は、沿岸国に排他的経済水域における資源に対する主権的権利を認めると同時に、そこにおける資源管理と環境保護を義務付けているが、資源の需要が増大する中で権利の主張が先走り、資源取得権とそれに絡む管轄水域の境界画定や島嶼の領有権を巡る対立を生み出している。資源を適切に管理し得る能力のある沿岸国は少なく、不適切な管理が資源の枯渇を招き、国家管轄水域の境界を越えて広がる汚染がそれに拍車をかけている。海洋資源・環境の問題が安全保障に影響を与えることが危惧される。また、想像をはるかに超えて多国籍化するシーレーンにはそれを統制する国際機関が存在せず、むしろ無国籍化と称した方が適当な状態にある。そこには、船員教育や船舶の維持整備の面での不具合はもとより、有事において輸入所要量の確保が危うくなるのではないかといった、国家の生存基盤に関わる問題すらある。「海洋管理」と「海洋自由」の兼ね合いの問題については、インドネシアの群島水域における米海軍艦艇の通航権問題などで表面化しつつあるが、沿岸国による管理のための過剰な主張が、いずれ多くの海域で様々な形として他国の海軍活動に制約を及ぼす事態が十分に考えられる。沿岸国による管理の主張が過剰になると、海洋は国家管轄水域ごとに分割化されたような状況を呈し、国家と国際社会の経済発展に不可欠の航行の自由そのものが脅かされることになるだろう。
 
 新しく迎えつつある「管理の海洋世界」は「管理」が求められる世界であるが、沿岸国一国による管理では、航行の自由を阻害するケースなど、むしろ不具合を生じさせることの方が多い面がある。国際的な管理には、管理のための協定や取極、制度などが必要なのであるが、新たな「ユーラシア海洋世界」には未だそのようなものはない。
 
 海洋を巡る問題は、多種多様でそれが相互に密接に関連し合っており、総体として総合的に管理する態勢の中で解決の方途を見出していく必要がある。海洋との関わりの主体は、国家、国際社会そして超国家社会の三層構造化に向かっており、「ユーラシア海洋世界」における海洋の総合的管理には、海洋と関わるあらゆる主体による取り組みが求められるだろう。
 
b 求められるシーパワー
 海洋がいかにトランスナショナルな世界になろうとも、海洋利用が経済発展に不可欠の要件である限り、シーパワーが国家の繁栄のために海洋を利用し得る国力であることに変わりはないであろう。しかし、今迎えつつある「管理の海洋世界」を形作るシーパワーには、海洋を適切に管理する役割と機能も必要である。海洋の総合的管理にはあらゆる主体がアクターとして参画してくる。そこにおいて海洋を適切に管理するためのシーパワーの形成には、海洋国家のリーダーシップが不可欠なのである。
 
 「管理の海洋世界」におけるシーパワーに、海軍力をいかに調和させるかが、海洋を巡る安全保障環境を安定化させるための大きな鍵である。「管理の海洋世界」における海軍力には、国家の生存と繁栄のためのシーパワーを支えるシーコントロールとしての意義のみならず、海洋管理の実効性を確保するための執行力としての側面も必要となるはずである。「ユーラシア海洋世界」では、海軍力を有する伝統的な海洋国家は、海軍力によって海洋の安定が保たれると考え、歴史的に海洋との関わりが少ない沿岸国家の多くは、沿岸海域での海軍活動を規制することによって海洋の平和が保たれると考える傾向がある。沿岸国家と伝統的海洋国家が共に取り組む海洋の総合的管理に海軍力を適切に位置づけることによって、地域における海軍活動の正当性の合意を形成することができ「海洋の平和的利用」と「海軍活動」を巡る意見の相違も一挙に解決を図ることができるのではなかろうか。








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