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◎2 弁当箱とカメラ◎
1 役場職員−好井との出会い
 中学を卒業すると、好井萬二郎から飛弾野家に声が掛かった。好井は若くして東川村の初代助役となり、退任後も設計士として役場工営課の嘱託のような立場にあった。そして、後に再び助役に抜擢されるほどの人物で、立派な髭を蓄えていた。昭和6(1931)年4月、飛弾野は東川村役場(現・東川町役場)の臨時職員として勤務する。
 「弁当箱とカメラは忘れたことがない」という飛弾野の役場生活がはじまる。給料はもっぱら写真を撮って無償でプレゼントすることに使われた。祭りで着飾ったといえば、撮影を頼まれ、菊が綺麗に咲いたといっては声を掛けられた。飛弾野は嬉しそうに述懐する。「日給が70銭でした。乾板が12枚入って35銭、キャビネの印画紙が1ダースで35銭くらいです。乾板と印画紙を買えば一日の給料がパーです」。
 半年後に正式な職員となり、工営課土木係に配属。好井の指導を受けて、測量から設計まで、土木建設に関わるあらゆる仕事を叩き込まれる。好井は飛弾野を気に入り、どこへ行くにも同行した。
2 徴兵−カメラの行方と結婚
 昭和9(1934)年、父・平次郎が他界する。享年48歳。戦前とはいえ、あまりにも若くしての別離である。平次郎は写真嫌いで、全然撮らせてもらえなかったのが悔やまれる。そして同年、徴兵検査があり、甲種合格。飛弾野によれば、甲種合格は100人中21人だったという。翌昭和10(1935)年から、旭川にある歩兵第二八連隊に現役入隊する。
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写真を撮り始めたのが14歳。翌年15歳の時の飛弾野さん
 「入隊の時、軍隊では使わないだろうからオレにくれと言われて、友人にカメラや三脚をあげました。その後、友人は記念写真を撮ってサービスする葬儀屋をはじめて繁盛してね。あのカメラは小さな名刺判だったから、儲けた金でキャビネ版の暗箱を買って、サービスを手厚くした」と飛弾野は語る。それでカメラを返してもらったのか、と尋ねると「いや、戻ってこないよ。あれは、あげてしまったからねえ」。
 軍隊では月5円50銭を10日毎に1円85銭ずつ支給された。班長から、″満期服″を新調するために毎月3円貯金するようにと指示され、10日毎に1円を貯金した。当時は、兵役を終え帰郷するときに″官服″を返し、″満期服″と称する私物の軍服と靴を新調して、故郷に錦を飾るのが慣わしであった。飛弾野は「軍服と靴は早く注文しておくと安くしてくれるそうです。貯金を下ろさせて下さい」と班長に伝えると、「見上げた心がけだ」といって許可がでた。飛弾野の足はカメラ店に向かう。ポケットには八ヶ月分の貯金があった。翌年、新調のカメラで飛弾野は故郷に錦を飾る。
 除隊の翌年、飛弾野は谷口ヨシヱと結婚する。母ヤイが勝手に決めてきた結婚であった。ヨシヱは飛弾野の自宅から数軒隣にある好蔵寺の次女である。男勝りともいわれたヤイは、寺を訪ね「あんたんとこの娘を一人、うちの嫁にくれ」と突然申し出た。住職も話に応じようということになる。数日後、ヤイはどこで用立てしたのか、100円札を一枚、袂に入れ、結納金として届けた。住職はその唐突さに驚き固辞するが、ヤイは「媒酌人を立てると互いに金も掛かるから、これで直に決めるべえ」と譲らなかった。
 当事者同士は全く知らずに結婚が決まった。飛弾野によれば、「母が喜ぶなら、母の決めたことには、いつも従った」。この年から、妻となったヨシヱが写真のなかに頻繁に登場する。そして5人の子供たち民子(昭和13年生)、哲宏(16年生)、正幸(18年生)、終戦後には弘尚(21年生)、堅司(24年生)が主演俳優たちのように画面を賑わしてゆく。








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