日本財団 図書館


5 町家の変遷
 次に前で区分した時期ごとに、町家の変遷をみる。
 
図表13 島原街道筋の町屋と社会背景
(拡大画面: 191 KB)
z0050_01s.jpg
第一期 (1848〜1873年)
 この時期の町家は、桟瓦葺き屋根平入で、つし二階建、外壁は軒裏を含めて大壁造漆喰塗りである。主屋主体部分が街道面から後退し、正面下手半分には2間から1間半の深い下屋をおろし、上手側には坪庭を設け塀で囲み、門を開く。門は仏事のときのみに使用し、坪庭の上手に突出させる仏間、あるいは坪庭の下手側に下屋として整える仏間は、より古い要素である。
 キリスト教が邪宗とされた時代に、仏教徒であることを強調した、島原独自の建築文化として位置付けられる。
 なお、正面に強調させた仏間は、開国による時代の変化とともにその用途を失うが、座敷として姿を残し、弾圧の痕跡は建築が伝えることになる。
第二期 (前半1874〜1881年・後半1882〜1911年)
前半 明治6年(1873)にキリスト教禁制が解かれると、仏教徒であることを強調する必要がなくなり、主屋正面に突出させた仏間は姿を消す。仏間は主屋主体部上手表側の部屋に移行するが、どちらにしても街道に面して坪庭に接することは変わらない。仏間を突出させないが坪庭や門は名残として残る。
 同時に主屋正面下手側に付く深い下屋が第一期に比べてやや浅くなり、1間半前後におさまる。
後半 第二期前半と同じ形式の町家が変わらず建てられることと同時に、今までにない新しい要素をもつ町家が発生し、両者が混在する。
 新しい要素としては、仏間の位置が街道面ではなく裏側に移行すること、平入の主屋街道側に坪庭をつくらず1間前後の下屋が正面全面に付くようになること、などがある。
 なお、この時期に洋釘が普及し、和釘が姿を消す。
第三期 (1912年〜)
 大正時代になると島原の町家に大きな変化があらわれる。本二階建町家の発生である。これ以前はつし二階建で、居室空間としてではなく屋根裏の物置場とした形式であった。これに比べ大正時代に発生した本二階建の町家は二階に座敷を整える。加えて、主屋の向きが妻入の町家、外壁が真壁造の町家も、大正時代に入ってから発生した新しい要素である。
 本二階建町家の発生で、主屋正面に付く下屋が半間前後とさらに浅くなり、二階の間取りを意識し階段の位置が主屋中央から端へと変わる。
 これまでの、つし二階建、平入、大壁造漆喰塗りといった伝統的な町家の形式を破り、近代化が庶民生活に定着したことを示す遺構といえる。
島原の町なみの特徴
 島原街道筋に残る伝統的町家の多くは、江戸時代末期から明治・大正時代を経て昭和初期に建てられた建物である。この時代は、近世(江戸末期)と近代の狭間にあり、両社会の影響を受ける町家が混在する。近世の特徴を色濃く残す町家、近代の新しい形式の町家、あるいはこの両方の特徴を同時に持ち合わせる町家など、さまざまである。バラエティに富んだ町なみは、激動する時代の痕跡であり、島原の特徴のひとつといえよう。
総論−キリシタン弾圧の痕跡を残す町家−
 島原の町家で最も特徴的なのは、キリシタン弾圧という時代背景のなかで発展した「突出する仏間」の存在である。熾烈な弾圧に対しての用心として、キリスト教ではなく仏教徒であることを証明する必要があった。小さな仏間一室を主屋正面にあえて突出させてつくることで、だれが見ても仏教徒であることが分かるように建築で表現したのである。突出する仏間に付随して主屋正面上手側に、坪庭が設けられ、これを塀で囲み門を開く。この門は仏事にのみ開き、ここから直接仏間へと進むことができた。仏間、前庭、塀・門が一体となって江戸時代から明治のキリスト教解禁までの町家を特徴付ける。
 このことは江戸時代の古い習慣であったため、現代の人々の記憶から忘れられているものの、町家に残るキリシタン弾圧の痕跡として、現在まで静かに受け継がれていたのだ。しめなわを年中飾る習慣も同様の意図が読み取れる。
 島原の町家がキリスト教禁制に影響を受け、独自の発展を歩んできたことは、今まで明らかにされていないことであり、大きな成果である。同時に、建築が日本の歴史を物語る史料として、有効でかつ独自な役割を果たすことを、今回証明することができた。
 
(拡大画面: 167 KB)
z0052_01s.jpg
大正末期の島原町略図(出典「島原の歴史 自治制編」)








日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION