日本財団 図書館


いのちを助ける運動
―子どもへの新しい教育―
 20世紀は、故意に6600万人もの尊い人命を失わせたという意味では、人類の歴史の中で、最悪の世紀であったといえます。
 「人を殺すなかれ」とは、洋の東西を問わず古代からどの国でも叫ばれてきたことです。それにもかかわらず、今世紀に入る前後には青少年もが、罪のない子供の命を奪うという残虐な事件が相次ぎました。神戸での事件には、いまだに生々しい戦慄を覚えます。
 どの小・中学校においても、校長先生が講堂に生徒を集め「人を殺すなかれ、罪もないものに暴力をふるうことなかれ」と繰り返し説いています。しかしこの説教が子どもたちにはどのように伝わっているかを、検証したことはあるのでしょうか。
 私は教壇からの一方的なお説教は、ジョウロに水を入れ、口を開けさせた子どもにそれを注いでいるだけにすぎないように思えます。日本はこの教壇からの一方的な教育方法(didactic teaching)を長年とってきました。しかし、その効力はきわめて低いといわざるをえません。人間のいのちの尊厳を教えるにつけても、このような方法では成果は得られません。体験的学習こそが最も成果が得られることは、教育先進国である欧米の成果をみてもあきらかです。
 私は(財)ライフプランニングセンターを昭和48年に設立して、医療従事者だけでなく、一般の人々に健康の本当の意味を分かりやすく説明し、めいめいが「健康行動」をどう選択すべきかを指導してきました。そして、生活習慣病であるおとなの慢性病の高血圧の予防やその早期発見法として、小学校5年以上の少年や中・高生や主婦に、聴診器を用いての血圧の自己測定という運動を広めてきました。あわせて食塩の1日の摂取量も10g以内にとどめて、適正な食塩摂取を習慣化する行動もすすめてきました。これらの効果はかなりの成果をあげ、日本人の高血圧を中心とした脳卒中死は、国民死亡率の第1位から3位へと後退しました。
 これらの経験からも、何でも制限するのではなく、前向きによき生活行動を選ぶことこそが最大の防御であることを確信しています。いのちの尊厳を子どもが大人になるまでに徹底して教えるためには、「殺すなかれ」という説教的指導ではなく、「人のいのちを助ける運動」の実践を子どもたちの間に、また日本の社会に広めることが最も効果的な方法だと思います。
 私は小学生にいのちの大切さを知ってもらうために、聴診器を使って自分や友だちの心臓の音を聞かせたことがあります。生きている証である心臓の音をはじめて聞いた時の子どもたちの輝いた顔は、今でも忘れられません。
 そこで私は聴診器が使えるようになる10歳以上の子どもや中・高校生に、救命法としての人工蘇生術を、シミュレーター人形を使って経験学習させることを提唱したいと思います。米国のシアトル市などでは、25年以上前から市民が救命技術を身につけようという運動が盛んで、ここでは急死例が世界一少ないということも報告されています。
 また病院やホスピス、福祉施設などにおける学生ボランティアの受け入れも、もっと積極的にすすめることが必要でしょう。
 子どもの時から、人を救うための体験学習をすることによって、いのちを大切にする意識が育ち、その成果があげられるのだと思います。これからの教育は、実践的な発想へと転換するように叫びたいのです。
LPC理事長 日野原 重明








日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION