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伊勢湾の変貌に想うこと
気象解説家 島川 甲子三
☆はじめに
 暑かった今年の夏は、楽しい海での思い出も多かったことと想われます。しかし、ほんの五、六十年前の海辺と今の海岸を比べたら、どんな違いがあるでしょうか。私の経験から申しますと、伊勢湾の景観や、海岸の松林、海水の色の四季の変り具合、海辺の香り、浜に打ちあげられた海藻の量や種類、貝殻の数や種類、波打際に住む貝や蟲の多さ、それらを追い求めて集る鳥たちの有様に加えて、普段の浜辺で遊ぶ子供たちの姿が、ここ五十年ですっかり衰えてしまいました。それは、海辺にも、開発という名の自然破壊が押し寄せてきて、街から海への玄関にあたる海岸の松林帯は、歩くための道が無視されて、車用の舗装道路に変り、十数年に一回の台風の猛威に対抗して、延々とコンクリートの堤防を張り巡らせました。或地区は波打際に、他の地区は松林帯の町側に沿って造られたのです。これによって、昔の町から松林を通して見えた身近な海は、突然プツンと切り離されました。その巨大なコンクリートの長壁は、輝く海辺と普段の人々とを、別々の世界へ遠く分断する効果を兼ね備えていたことに、誰も気付きも心配もしませんでした。ひたすら快適で便利な生活を追うことに専念して、歩くことをやめさせた車で、排ガスが増え、大量生産と大量消費の悪癖がしっかりと身についてしまいました。こうした便利快適安全防護の、物質的目標達成のために出発してから、凡そ半世紀を経たいま、地球温暖化やオゾン層の破壊などという地球的異変に驚き、国際会議も開かれましたが、現代の生活習慣を我慢縮少して、地球環境を正常化へ戻すための実行案さえ、同意が得られないままです。
☆日本列島の誕生と伊勢湾
 大陸の一部として東の端にくっついていた列島が、大陸から離れて南へ動き始めたのが、今から約千六百万年前です。しかしその頃は海が広がる勢力を増していた時代で、九州や四国以外の大部分は海面下に沈んでいました。そして五百万年位前になると日本列島は全姿を現わし、中部地方には東海湖という巨大な湖ができて、今の琵琶湖の六倍もありました。北は大垣市から岐阜市多治見市を掩い、南は津市、伊勢市から知多半島が湖の底になり、渥美半島から志摩半島は陸続きでした。また三重県の西部から滋賀県の南部にかけて南北に細長く、今の琵琶湖の南に垂れ下るように古琵琶湖がありました。この古琵琶湖へ流れ込んで固った粘土がタヌキの置物で有名な信楽焼の原料となりました。その後、東海湖も古琵琶湖も干上って縮小したり、土地が隆起したり沈降したりを繰り返し、約七万年から一万年前までの、ウルム氷期には、日本列島にも山岳氷河が現われ発達しました。南極の氷は厚く積り、海は世界中で後退して、遂には古代伊勢湾は干上り、海岸線は今の渥美半島のはるか沖合になり、瀬戸内海も盆地状になりました。この頃、日本海も干上って大陸と一部陸続きになり、ナウマン象が渡来しました。この氷河期が終ると、海面は上昇を始め、現在の海岸よりずっと内陸へ入り、名古屋市の瑞穂区の天白川あたりや、多治見、岐阜の北辺あたりが波打際だったのが、約六千年前です。それから三千年後の弥生文化の時代になって、海岸線の後退が始まり、ようやく現在の海岸線に落ちつきました。
☆伊勢湾の地形概要
 伊勢湾に注ぐ三大河川の木曽川、揖斐川、長良川は、伊勢湾の奥部に大量の砂と栄養物を運び続けて、三角州が発達しています。湾奥部の水深二米以内の浅瀬は、昔から重要な干潟として多数の生物の宝庫なので、今も一部が、保護干潟としてようやく保存されています。一方湾の中央部の水深は三十五米ほどで、平らな部分が広っています。伊勢湾の西岸にあたる三重県側は、鈴鹿山脈から流れる川が小さくて、三角州は発達せず沖合一〜二キロメートルくらいまで砂礫堆積層が広がって、遠浅の海岸が多く、いわゆる白砂青松の海辺でした。その対岸の知多半島西岸は、海底の地形がやや複雑で、野間灯台のあたりは珍しく畳状の岩場の続く海岸になっています。また師崎沖合から湾口の神島にかけては、強い潮流に洗われて、古代の岩盤が直接海底に露出している所があります。また白塚から松阪沖には砂の下に広く粘土層があり、白子若松沖は粗砂に掩わわれ、四日市沖から桑名沖の湾央にかけては主に粘土層に掩わています。湾奥の木曽三川河口部の三角州部分は砂質と泥の層が十メートル前後の厚さで覆っていますが、その下深く百メートルくらいまでの厚さで湾央につづく古伊勢湾層(七〜九万年前の埋没層)が広がっています。先述の伊勢湾口にある神島は、湾の玄関番にあたる灯台島で、島の東端の崖に建っている美しい灯台は、三島由紀夫の「潮騒」で有名になりました。しかし、日本の航行の三大難所の一つで、昔の日本の軍艦(朝日)が、神島近くの伊良湖水道で座礁し、そこを朝日礁と名付けました。これがきっかけで設けられたのが神島灯台です。初点灯は明治四十三年(一九一〇年)ですから百周年ももうすぐです。今は無人ですべて自動で輝き、航海の安全を助けています。私がこの神島を知ったのは、終戦後間もなくの、昭和二十三年頃に初めて訪れました。目的は釣りです。当時は、名古屋から鳥羽までJRか近鉄宇治山田下車バスで鳥羽へ着き、鳥羽から「神通丸」という定期船で神島まで一時間と少々。少し荒れると一時間はとても長く、二度に一度は船酔いでダウンしました。それでも通ったのは、釣れて釣られて帰るのが嫌になる夢の島だったからです。
 
東海湖時代〔500万年程前〕
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☆伊勢湾に住む魚と貝
 中部山地に源流を持つ木曽山川と、伊勢平野を流れる中小河川から、常に大量の淡水の補給を受けて、春夏秋冬それぞれに水質の変化に富んだ伊勢湾は、様々な魚たちの住みかとなっています。生れてからずっと一生を伊勢の海で暮らす魚としては、ハゼ、カレイ、アイナメなどが挙げられます。どれもそれぞれ適した料理をすれば美味しい魚です。十月から十二月が釣り時ですが、ハゼは誰にも釣れて謂ゆる釣入門の代表です。短時間に確実な数を釣るには、やはりよい潮時をねらい、なるべく細仕掛に軽い錘りで、その土地のそこのハゼが喰べている餌を使うのが最高です。カレイは早合せせず、居場所を早く発見するのがコツ。アイナメは足で釣れと言われるくらいで、アイナメの居場所へ餌を持って行くのがコツ。伊勢湾の到る所にある小さな漁港の突堤で、テトラポットの全くなかった時代に、捨て石の隙間を探り釣りすると、面白く釣れました。テトラポットという怪物が、突堤や潮流の如何にかかわらず、やたらに投入され始めてから様子は変って、つまりは釣れなくなりました。土地の値段が上りっぱなしで、謂ゆる高度成長時代が働いて、今から思えば伊勢湾も急に濁り始めたのです。産卵と子育てにやってくるのは、サヨリやヒイラギです。大潮の港では、釣り竿のカーテンができるほど賑ったものです。少し大物としては、スズキがあります。幼魚のセイゴもハゼ釣りの外道としてよく大騒ぎして釣れました。港から釣船で沖へ出れば、春を告げて釣れ盛るのがメバルです。漱石の坊ちゃんが釣れたのは、縞のある金魚のような魚で、肥料にする魚だと馬鹿にしましたが、伊勢湾のメバルも、春の大潮にはバカ釣れしたものです。しかし今はそうやたらに釣れなくなりました。スーパーの魚屋で昔のように大きな目をして堂々とパックに納まり、値段も目張っています。初夏から夏にかけて、どこの砂浜からも、ハゼなみに釣れたのがキス。手頃な大きさで淡白な風味は、刺身・フライ・吸物種に抜群の人気です。さて釣魚のほかに、忘れてならぬのが、マイワシの群、伊勢湾を所狭しと泳ぎ廻って海の色を変えました。夏の夜明方前から船を出して張りめぐらせた網を引く地曳網が山場にさしかかると、法螺貝の音の合図で家を飛び出します。バケツ片手に、松林の細道を駆けぬけて、一目散に波打際の地曳網を引く列に加わります。やがて、丸く脹らんだ網に満杯のイワシ。大人から子供達までバケツに半分くらい(一杯入れると持ち上らない)無料でくれた。ピチピチ踊るイワシは家に着く頃殆んど動かなくなっていたが、これも美味しかった。昭和一桁の頃の伊勢湾の漁村風景は、いま想えば、生きた魚人の心も、海を通して天国のように豊かでした。さて秋の雲の一つに鰯雲、鯖雲というのがあります。どんな雲を指すか御存知でしょうか。夏の終りから秋にかけて、晴れた空によく現われる雲で、バックの青空は透けて見えるが、雲は薄くまだら模様になっている。そのまだら模様が、鰯や鯖の背から腹にかけて見えるまだらの斑点模様にそっくりだというのです。昔の人は、身近によく見る動植物にたとえて、実に上手な表現です。
 そう言えば、釣りあげた時グウグウと声を出す魚を、釣られて愚痴をこぼしてるとみなしてグチという名の魚も沢山釣れました。名に反して白身のあっさりとした味、殆んど煮つけで喰べられます。この他にヒイラギと呼ばれる小魚もギュウギュウと鳴く魚の仲間です。さて釣仲間で技を競い合うように釣る魚は、黒鯛です。伊勢湾には潮通しのよい突堤や岩場に好んで棲み、眼がよく利き、音や光には敏感で、釣り餌を見つけても、すぐには食べず、その餌を廻るので鯛とか。生れた当年をチンタと言い、二年から三年ものをカイズ、四〜五年ものを黒鯛と呼んだりしました。五年以上を特にズナシと呼んで、料理のためにお腹を開くと、雄か雌かが判ります。
 黒鯛は、生れて五年目には、全部雄だったのが、雌に変ることもできる性質が特徴です。したがって黒鯛の四年もの以下は全部雄です。春の乗っ込み、夏の夜釣り、秋のチンタと黒鯛専門で通いつめる釣り人は今よりもっと多かったように思われます。そして伊勢湾台風後に構築された高潮防潮堤の一部が、海釣り公園として整備され、ハゼから黒鯛まで、釣枝に応じて、一年中海釣りファンの竿の往来が絶えません。図は近年の漁業全般の操業季節の一覧です。
 
伊勢湾の操業時期
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 このほか伊勢海老やサザエをはじめ、桑名のしぐれ蛤、アサリ、シジミ、マテ貝にマンジュウ貝と沢山ありますが、貝というものは生きているのは必ず横でなく縦に埋っているのです。ですから例えばマンジュウ貝は、海水浴のとき、干潮の砂浜の沖合で、ちょうど背丈くらいの深さの沖合に立って、足で砂底を叩くように蹴ると砂が堀れ、縦になったマンジュウ貝が足裏で判ります。すぐにもぐって抜き採り、腰に付けた海水帽子を一杯にして帰ったものです。火にかけて口が開いたら、しょう油を少し入れて熱いのを食べると、潮の香りが甦えるのでした。マテ貝も今は極めて少なくなりましたが、津の海岸などで実に沢山採れました。干潟を歩くと、まん丸でなく少し楕円形で微妙に色の違う太い穴を数個見付けておいて、腰に下げた缶の食塩を竹べらですくって、リズムよくチョイチョイチョイと少しずつ各穴に入れて五〜六秒待つと、塩を入れた順番に、穴らマテ貝がヒョイヒョイヒョイと姿を現わしますから、そのリズムに合わせて、スポスポスポと引き抜きます。このように沢山とれたマテも、今は人の数こそ増えましたが、血眼で探して数本という淋しさです。
☆伊勢湾の香りについて
 昔の幼い頃は、昼の海辺に立つと、海風が陸に向って吹きます。松林を通る海風の音は、寄せる波の音の間をつないでおりました。松風のことを、松籟と申しますが、身近かな海辺の普通の音でした。この松籟の音の下で、春から夏のはじめ頃、松露という春茸の一種が採れました。松の根が、砂浜の上に少し出て伸びているあたりに、ソラ豆を丸くしたくらいの大きさで、クリーム色をしてふかふかと弾力のあるマシュマロに似た茸です。朝の味噌汁に入れたり、キスの身の澄し汁の椀種などにして、海辺の初夏の香りを味わったものでした。つい最近、故郷の砂辺に立寄る機会があったので、松露のことを尋ねてみたら、何のことか意味不明で通じることなく、キョトンとされてしまいました。僅かに残った松林は枯れ、当時松露を竹ざらえで掃き集めた浜砂のあたりは、住宅地や舗装道路のアスファルトで黒々と掩われていました。ところが不思議なことに、名古屋の駄菓子屋さんに、松露と書いた札を付けた袋入りのお菓子が、ちゃんと売られていました。丸い飴玉を白い砂糖皮で包んだもので、一見して松露のイメージを残しているのに感心した次第です。しかし本物の松露とその香りは、伊勢湾台風を境にして、消えたように思はれます。
 さて浜風に乗る一番の香りは海苔です。海苔、の養殖が伊勢湾で始まったのは明治の末頃からのようで、のり粗朶式から、網式に替り昭和三十年頃から養殖技術と機械化が急速に進歩して、全国生産の量と質はトップレベルです。でも私が想い起すのは、青のりのことです。青のりは、概ね自分たちで採るもので、漁港の内海の小川に通じる汽水混りの石まわりに沢山生えていました。干満の潮流につれ方向を変えて、水浴する女性の髪の毛のようでした。その青のりを手で摘みとって、さっと水洗いして笊に延し、数日天日に干すと出来上りです。カラカラに軽く干し上った青のりを、掌でもむと、ぷうんと芳りが広がる粉になり、朝食の納豆に振りかけたり味噌汁に入れたりして、その鮮やかな緑と、正真の海の香りが満喫できました。その青のりが伊勢の海岸から、ふっと姿を消してしまったのは、あの猛威をふるった伊勢湾台風以後のように思われます。澄んだ碧い海と清水のように汚れのない小川の水の中でしか育たないような、繊細な青のりはいま幻の香りです。
☆伊勢湾の水の色は変った
 本州のはるか南方洋上一千キロメートルに散在する小笠原諸島は、戦後しばらくは米軍が管理していましたが、昭和四十三年に日本に戻されました。開発という名の自然破壊が全く無しに済んだその当時の小笠原諸島は、まことに幸運な自然の宝庫だったのです。その頃、某釣具店の主催で小笠原遠征釣大会が行われ、某民放の録画班も参加して、終戦時の引揚げ船「日本丸」をチャーターし、約百名の釣り狂を乗せ、返還直後の父島の沖港へ向ったのです。準備させられた釣具は、それまで使ったこともない頑丈な両軸受リール、巻き納める釣糸はナイロン五〇号から一〇〇号。釣針は五寸釘を曲げたような鈎。ハリスはワイヤー、道具にペンチ、ニッパー、大型の金槌など。肝心の竿は当時の小笠原イレブンという強靱な太竿。餌入れは大型クーラーでその中に冷凍サバ、冷凍イカを詰め込む。ビクは大型スカリ(網ビク)という出で立ち。
 季節は六月上旬末の四泊六日(船中泊三)、名古屋港出発夜十時で翌日丸一日船の中、その翌日の日出前、散々船酔いした体に明るい太陽とざわめきに目覚めると、何とそこは父島の沖港。現地の棒受舟(漁業用大型和船)に五〜六名づつ乗換えて、私は母島の石門岬へと向った。六名を乗せた棒受船が、紺碧の海を滑るように母島の石門岬に近づいてゆくと、後方から六月の太陽が靄を通して照らした。船影と乗った我々のシルエットが、コバルトブルーの海の面を滑るように走った。なんてきれいなんだろう。皆息をのんで無言である。十五米はあろうかと思う絶壁の塔柱が、紺碧の海に突っ立って迫ってくる。これが石門岬か…船から下り立つ足がふるえた。石門岬の断崖の下は五米巾の平坦な岩場を残して、すき透る海に垂直に黒々と深い。だが十米ぐらいまで水中の断崖が丸見えだ。採とりどりのサンゴ類が展示場のように連っている。一瞬でも見ていると吸い込まれそうに美しい。その日一日夕刻まで、龍宮の浦島太郎よろしく釣った。三十号の糸を十秒で切られ、五十号の糸に替えて仕留めた真赤なバラハタ九十糎あった。夜はどんな巨魚が掛るか想像もつかないので釣りはしないことに決めて専ら星を観た。満天くまなくびっしりの星である。天の川はくっきりと、今にも動きだして流れ始めそうな錯覚に耐えた。蚊と蛇は全く居らず、素っ裸で大の字に寝ていると、耳を噛む者がいる。キャップライトを外して、あたりを見廻すと、堀り飯くらいの蟹がゾロゾロと動いてこっちを見ていた。つかまえて茹でで喰べたがいい味がした。真夜中、グチャグチャという音で目が覚めた。石門の断崖柱から聞えてくる。ライトを当ててよく見ると、驚いた。何と烏瓜くらいの頭をしたタコの行列である。その行列は水中から続いて、ずっと上へ断崖の頂上付近まで連っている。その小ダコたちの登る音だったのです。そして翌朝、もちろん梅雨前線の南で、快晴域に入っている小笠原の日の出は、素晴らしく赤くきれいで、その朝日がさし込んだ足下の絶壁の海面下には、サンゴの色に少しまぎれて、大きな伊勢エビが一匹、おや二匹、いやもっと三匹、四匹と探せばいくらでも手の届きそうな所に居るのです。現地漁業者の許可なしに伊勢エビだけは取るなとの約束はなるほどと、しばし見とれるばかりでした。こうして丸一日半を夢の釣り天国で過しましたが、一人八キログラムまでの釣魚を冷凍で持帰りました。やがて帰り船は伊勢湾の沖合から神島を右前方に見て、いよいよ懐しの伊勢湾にさしかかりました。わずか数日間でも、あの吸い込まれそうなコバルトブルーの海の色を見た眼には、伊勢湾の水の色は何とも言いようのない悲しい色に見えました。釣に同行した人の中には、伊勢湾に入って間もなく叫ぶように言いました。「こりやあ、まるでコーヒーの中を走っとるみたい!!」実感でその時の情景をよく現わしていたと思います。
 ところでつい先日、久し振りに神島へ釣行しました。伊良湖岬を午前六時に出発する定期便で、六時半には神島の南の浜辺を歩いておりました。潮の香りは少し残っていました。チッチ蝉、熊蝉、油蝉、ミンミン蝉と鶯が、同時に鳴いていました。昔のような大釣りはとても無理でしたが、ジャンボキスの入れ喰いに満足して納竿しました。海辺はかなり雑多な漂着物が散乱していました。帰りの峠で島の人達と出合い、伊勢辮で声をかけると、昔と同じ調子の言葉で「あんたどこから来なした」「名古屋からや」と返して「わしゃ年くってもう思うように岩場渡れんであかんわ」というと、「あんた幾つや、わしゃ昭和三年生まれやでな、もう孫も島を離れとるが」と話が弾んだ。深い皺の割には足もとがたしかだ。下り坂で港へ出る近道のところでその人達と別れ、少し下った所で、一休みして汗を拭いた。そこはNTTの無線中継所で、向い側にロボット気象観測所もある。何れも無人で、休むことなく忠実に働いているのでしょう。眼下の海の青さは、遠い昔の海と、違わないように見えました。しかし北側に向って名古屋の方角は、霞んでいて、海の色は靄にかくれていました。こうして気軽に、神島へ釣りにでかけて、まだ正午を少し廻ったころに、戻りの船に乗って、日の高いうちに名古屋の家に帰り着く便利さ、この便利さと引き換えに、海の色、風の香り、相手になってくれた魚や貝、食べた味、面白いイベントを見せてくれたタコや蟹の姿が、ここから見ている伊勢湾の遠く霞んでゆくように、どんどん見えなくなるのかなあと、もう一ぺん額の汗を拭いて、久し振りに重くなったクーラーボックスを肩に掛け直して、急な下り坂を港へと向いました。
二〇〇一年八月
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神島灯台








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