「航空事故調査のしくみと思い出」
Ken OB/AAIC
日本のエアラインの大型旅客機は世界の空を飛び回っており、また外国の旅客機は日本の空を飛んでいます。そして私たちは、その利便性を甘受していますが、米国で航空機によるテロが発生したため、航空需要が低減している中でもこれら大型旅客機は世界中昼夜を問わず飛行しています。不幸にして航空事故が発生すると調査は世界的に同一の手法で行わなくてはならないため、国際民間航空条約第13付属書に手続き及び手順が規定されています。各国々で調査の手続き、調査手法がまちまちだと報告書もばらばらな内容になり記載されるべきことが記載されていなかったりします。これでは、この報告書を読み是正措置を取る際にも適切に実施できない可能性があります。これでは、類似事故の再発防止という重大な目的が達成できなくなります。日本の領土、領海上空で発生した民間航空機の事故は、日本の事故調査当局が外国機の事故であれ調査を実施するよう規定されています。即ち事故発生国の政府機関が調査を実施するよう義務づけられており、我が国では国土交通省航空・鉄道事故調査委員会が事故調査を所掌しています。
私が航空事故調査官として大阪航空局から昭和52年10月異動したときは、マレーシア・クアラルンプールでの大型機の現地事故調査の最中でした。ほとんどの調査官はゴム園の山中を高温多湿の環境で調査を実施していたとのことでした。当時調査官は、全員で12名ぐらいでしたから私も着任そうそう装備工場で飛行計器の調査を担当しました。もちろん国内でもその他の事故は発生していましたので、私も直ぐさま事故調査に連れて行かれました。事故調査のジンクスがあり、「初回の事故の形態がその後に担当する事故のほぼ同様の形態となる」というものでした。即ち、初回が死亡事故でなければ、それ以降の事故調査は死亡事故を担当する件数が少ないというものでした。私の場合は、小型機が土曜日にゴルフ場の脇の河川に墜落した死亡事故で、ベテランの調査官に連れられ、ゴルフ場の脇に飛行機を川から引き揚げて、残骸の調査を実施しました。もちろんジンクスどおりそれ以降に担当した事故は、死亡事故ばかりでありませんが、でも大半はそうでした。
当時の事故件数は、年間40から50件の事故があり、主に豊薬散布の際の送電線に接触した事故が多発した頃でした。私は、特に機材による原因の事故と死亡事故を主に担当していましたので、機材事故の原因が、竹箸ぐらいのボルトが1本破断して操縦不能となり墜落した事故、ベアリングのリテーニング・ナットの締め付けトルクの不足がエンジン破壊につながり墜落した事故等、このように小さな事象が大きな事故につながるということを身を持って体験いたしました。私が事故調査をした中で、調査が最も困難であった事故は、目撃者のいない死亡事故で残骸が火災により消失したものでした。今では、飛行航跡をある程度レーダー航跡図から推定できますが、当時はそれをすることは非常に困難でした。その他のものでは、外洋に水没した事故で残骸が引き揚げられないため、搭乗者が全員死亡の場合も同様です。たとえ搭乗者が救命胴衣を着けていたため救助されても、口述のみで原因を推定するのは大変でした。私の調査した最後の事故の際は、当日風邪気味だったので住んでいる近くの病院に行くため帰宅途中、電車のなかで、重大事故との緊急電話をもらいました。当時、事故調査設置法の改正のため過労気味で体力がなくなり肉体的には非常にきつい状態でしたが、事故調査のため出向くにはそのようなことどころではなく病院で薬をもらい直ぐさま本省に引き返して現場に直行しました。航空事故は、場所と時間にかかわらず発生しますので、いつでも調査のために出向くことができるよう絶えずスタンバイの状態に精神的にも肉体的にも気をつけていたものです。