IV グリーン・ツーリズムの資源
本章では、近世の京都と郊外のあり方を概観したうえで、人々が求めた郊外名所とはどのような場面であり、グリーン・ツーリズムの資源とは何かを明らかにする。
1. 京都と郊外
近世京都の特徴は、「京に田舎あり」、「花の都は二百年前にて、今は花の田舎たり、田舎にしては花残れり*9」と表現されるように、現代とは都市の構造が異なり、都に田舎が混在していた。西部から南部は京蔬菜の里*10であり、農業は都の中でも盛んに行われていた。このような農業風景や、社寺林に囲まれた社寺境内での花見といった行楽は、郊外に通じる性質を持っている。平安の都に由来する雅の名残と田舎らしさの混在は、近世京都の特色といえる。
*9 二鐘亭半山(木宝卯雲)「見た京物語(1781)」京都市「史料 京都の歴史 第5巻」1984年,平凡社
*10 京都市「京都の歴史 5 伝統の定着」學藝書院, 1972年, p590
京都は三方を山地に囲まれた盆地である。人々が参詣する社寺は、主として山際一帯に集まって立地している。したがって参詣することは、山地へおもむくことに近いといえる。また、京都南部の平地は、河川や水辺が豊かであり、船運によって人々は移動することができた。さらに、京都と他地方は、いくつもの街道で結ばれていた。京都に入る旅人は、街道沿いに山の峠を越えてくることになる。他地方からみると、京都は目的地で、京都郊外は旅の通過地域ということになる。
また、近世の京都は、人口増加に伴って、周辺農山村から燃料などの生活物資が大量に運搬されていた。「京都をめぐる町と村の関係は、近郊の村々のほとんどが京中に居住する社寺公家などの領地であるというだけではなく、日用品を媒介とした流通や都鄙の遊楽を通じての人々の交流をはじめとして、おだやかな調和をたもっていたようである*11」とされるように、京都と郊外とのつながりは密接であった。
*11 京都市「京都の歴史 5 近世の展開」學藝書院, 1972年, p606
2. 郊外名所の場面構成
これから、郊外の挿絵の場面をみていく。分析対象としては、都からより離れた農山村地域が描かれた30枚の挿絵を選択した。「都名所図会」の挿絵は、人間の目線に近い近景と鳥瞰図の遠景があるが、ここでは人々の行為が強調されている近景を中心に選択した。
まず、表-2に、10項目の構成要素を列挙し、各挿絵に含まれている要素を○で印した。挿絵はそれぞれ複数の要素を含むが、およその傾向は認められる。そこで、自然風物を愛でる宴会、自然資源と自然眺望、道中の歩み、道中の休憩と保養、農林水産物の採取と運搬、村里のたたずまいと風流という6つのタイプをあげた。以下では、各タイプの挿絵内容を例示し、挿絵画面に添えられた解説文を「 」で引用しながら、名所の要素を検証する。
[1] 自然風物を愛でる宴会
ここでとりあげる【櫃川の鮎釣り】、【大堰川の鮎釣り】、【松尾の茸狩り】、【大枝坂の時鳥鑑賞】、【淀の屋形船】は、自然風物の採取・鑑賞と宴会の組み合わせである。【櫃川の鮎釣り】では武士が、小さな網ですくわせた鮎を肴に宴会をしている。解説文には「早瀬を登る若鮎を汲み上げ汲み上げ興に乗じき。李白が詩に、「万戸喉も慕す」とは、このたのしみに換へがたきをいふなり」とあり、鮎は熱狂的に採取されたことがわかる。また、庶民が宴会をする【大堰川の鮎釣り】(図-1)では、人々は大漁に歓喜している。地元漁師とみられる人々は、大きな網を曳き乱獲している訪問者に困り顔であるが、一方では、竿で釣る人に技術を教えるような様子も読みとれる。【大枝坂の時鳥鑑賞】では、「ほととぎす聞かんとて都の騒客このほとりにいたり、夏の日の清げなるを詠めて歌よみ、宴して沈静するとき、何がしの鳥の一声におどろかされてねむりをさますも葦応物が詩の心に近し」とあるように、旅人の荷物は宴会用品である。
図-1【大堰川の鮎釣り】
表-2 郊外を描いた挿絵と名所の要素
名所の要素/挿絵の主題 |
宴
会
・
飲
食 |
自
然
風
物
採
取 |
自
然
風
物
鑑
賞 |
自
然
の
眺
望 |
道
中
の
歩
み |
道
中
の
休
憩
・
保
養 |
農
林
水
産
物
採
取 |
農
林
水
産
物
運
搬 |
村
里
の
佇
ま
い
・
生
活 |
村
里
の
風
流
・
景
物 |
主
題
に
よ
る
分
類 |
大堰川の鮎釣り |
○ |
○ |
○ |
○ |
  |
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○ |
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行楽・風物 |
櫃川の鮎釣り |
○ |
○ |
○ |
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行楽・風物 |
松尾の茸狩り |
○ |
○ |
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○ |
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  |
行楽・風物 |
大枝坂の時鳥鑑賞 |
○ |
○ |
○ |
○ |
○ |
  |
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  |
  |
  |
行楽・風物 |
淀の屋形船 |
○ |
  |
○ |
  |
  |
  |
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  |
産業・店屋 |
宇治川の蛍狩り |
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○ |
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  |
行楽・風物 |
大亀谷の茶屋 |
○ |
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  |
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  |
○ |
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  |
○ |
  |
産業・店屋 |
若狭街道と茶屋 |
○ |
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○ |
○ |
○ |
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○ |
○ |
  |
運搬・旅路 |
八瀬の竈風呂 |
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○ |
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○ |
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産業・店屋 |
修学院の雲母坂 |
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○ |
○ |
○ |
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○ |
○ |
  |
運搬・旅路 |
粟田山の日岡峠 |
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○ |
○ |
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○ |
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運搬・旅路 |
旅路の嵯峨大井川 |
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○ |
○ |
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運搬・旅路 |
井提の玉川の渡り |
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○ |
○ |
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運搬・旅路 |
一の坂の馬乗り |
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○ |
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○ |
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運搬・旅路 |
石清水からの帰路 |
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  |
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○ |
○ |
○ |
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  |
○ |
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運搬・旅路 |
業平の母の在所 |
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○ |
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○ |
○ |
村里・町並 |
木幡川の里 |
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○ |
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○ |
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○ |
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村里・町並 |
松尾の里での月見 |
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○ |
○ |
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○ |
○ |
自然・眺望 |
紅葉と鹿の風景 |
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○ |
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○ |
○ |
自然・眺望 |
大悲山の長材伐出 |
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○ |
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○ |
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産業・店屋 |
北白川の石工 |
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○ |
○ |
○ |
○ |
○ |
○ |
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産業・店屋 |
鳥羽の瓜の収穫 |
○ |
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○ |
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○ |
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産業・店屋 |
宇治の茶摘み |
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○ |
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○ |
産業・店屋 |
奥山の丸太流し |
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○ |
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○ |
○ |
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産業・店屋 |
鞍馬の木炭運搬 |
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○ |
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○ |
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○ |
○ |
○ |
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産業・店屋 |
八瀬の薪・柴運搬 |
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○ |
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○ |
○ |
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○ |
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運搬・旅路 |
鳥羽の魚の運搬 |
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○ |
○ |
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○ |
○ |
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運搬・旅路 |
宇治川一帯の風景 |
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○ |
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自然・眺望 |
大悲山の乳岩 |
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○ |
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○ |
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○ |
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自然・眺望 |
笠置山名石の細図 |
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○ |
○ |
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自然・眺望 |
注1 挿絵の主題は、若干書き換え、場所と内容を示すものとした。
ほととぎすの声を鑑賞するためには、「山重なり樹林茂り、つねに霧深ふして谷幽か」な、この山中が選ばれている。【松尾の茸狩り】にみる洛西から洛北へかけての山地は、松茸の産地であり*12、社寺林では庶民の採取が可能だった。ここでも、松茸を採る人々の横には、敷物と宴会用品とみられる荷物がある。【宇治川の蛍狩り】は、夜に蛍を見るという風流な行楽である。大勢の女性が船に乗り、江上の蛍狩りに興じている。【淀の屋形船】では、船上での宴会が賑やかに開かれ、川岸の水車など周辺の景色が楽しまれている。
人々は、自然風物に心を躍らせて、華やかな時間を過ごしていたことがわかる。
*12 京都市「京都の歴史 5 近世の展開」學藝書院, 1972年, p597
[2] 自然資源と自然眺望
【大悲山の乳岩】(図-2)は、神秘的な自然資源である。「乳なき婦にこの乳水飲ませば、たちまち乳汁出づるとなり」といわれるわき水と、御利益にあやかろうとして旅人達が汲んでいる光景である。【笠置山名石の細図】も同様に、自然が作り出した様々な奇石の宝庫である山の図である。人物は小さく、石の集まる山全体が名所として描かれている。【宇治川一帯の風景】は、宇治川の遠景で、人物は細微である。この眺望では、川と両岸の山の険しい地形が強調されている。自然の眺望としては、このように名所の主題とされているもの以外の挿絵にも、遠景であればたいてい山なみが描かれ、農山村地域らしさが感じられる。
図-2【大悲山の乳岩】
[3] 道中の歩み
長旅の道中では、自然の道のりの険しさと面白さに関心が持たれた。峠や河川は、旅人と一体となって描かれた。【修学院の雲母坂】は、比叡山への近道である。道は険しく、登山者は、汗をかきながら登るものや岩場に腰掛けるものがいる。その眼前の道の険しさと、遙かにみえる山なみの落ち着きが対称的に表現されている。道中ですれ違う里人は、柴をかつぎ、登山者を笑顔で振り返っている。【粟田山の日岡峠】は、峠道を見下ろす遠景である。長い道には、人々と牛馬が列をつくり、往来する人々の全景がわかる。道の両側には、山頂の山なみと雲の流れが描かれ、標高の高い道を行く様子が伝えられる。【旅路の嵯峨大井川】は、川渡りの場面である。「案内なくして羇旅(たび)の近道を行くは好まざることなり。雪解けの旦、夕立の後、細谷川のながれも水増さりて渉るに足を取らる。」と書かれるように、急流で石の荒い川渡りは危険である。近道しない人々は、背景の街道をゆっくり歩くが、あえて危険な近道を行くスリルと楽しさが表現されている。【井提の玉川の渡り】も川渡りであるが、川幅は細く流れは緩やかである。山吹の「八重・一重が咲き乱れ、水の面に映じて金盞(きんさん)をつらねたるやうになん見えける」という様子の美しい井提は、名所六つ玉川のひとつである。ゆるやかな山なみを背景に、女性達が静かに、嬉しそうに渡っている。【一の坂の馬乗り】は、旅に不慣れな女性への助言をする様子である。馬での運搬人が運賃の交渉をしているが、すれ違う旅人が、相場はもっと安いことを女性に伝えている場面とみられる。道中では、里人との関わりも登場する。【石清水からの帰路】(図-3)には、「畦道・山路などは村里にてくはしく尋ねおくべし、さしかかりて問ふ人なきこと多し。「少しのことにても先達はあらまほしき」と兼好法師も教訓したまひぬ。」という話が書かれている。慣れない旅路を行くためには、村里で道を尋ねることが必要なのである。挿絵の一行は、遠くを指さして喜び、叫んでいる様子で、その先には、畑を耕す地元の農民達が描かれている。
道中の歩みは、旅人にとって珍しいものではないが、これらの場面は、旅路そのものが名所になったことを示している。
図-3【石清水からの帰路】
[4] 道中の休憩と保養
道中の街道には、休憩する場がある。【大亀谷の茶屋】は、「伏見より大亀谷を経て大津へいづる道」にあり、「いまも関西の列侯、吾妻へ参勤したまふときは、この道を通り東海道に趣きたまふ。」とある。茶屋で飲食する武士が茶屋の名物の娘との会話を楽しみ、騒ぐ様子である。それは参勤の途中の開放感からとみられ、背景の小川、花、犬、女性達の長閑さで表現される。【若狭街道と茶屋】は遠景で、茶屋を取り巻く河川や街道、村里や比叡山の山並みが風景的に描かれている。画面には山里からの薪・柴の行商人、街道筋の家々、解説文で「目出たきめし」とされる茶屋の麦飯など多くの要素が描き込まれ、茶屋のある地点というのは、街道を趣深く感じさせる場所であったことがうかがえる。この若狭街道の奥では、【八瀬の竈風呂】(図-4)が名所とされる。八瀬の里人は豊富な薪を利用して、土窟の蒸し風呂を営んでいた。雍州府志には「男女温気の病ある者、裸にして土窟に入る」、「三四月の間、来り入る者多し。肌膚を潤し、筋骨を和らぐ。摂州有馬の温湯と相比並す*13」と記されており、保養と療養のために多くの訪問者があったことがわかり、「遠来の客もあった*14」ことから、旅の目的地になっていたことが推察される。
旅には休息が必要であり、それが農山村で過ごす時間になっていたのである。
*13 立川美彦「土産門 黒木」「訓読 雍州府誌」臨川書店, 1997年, p240
*14 京都市「京都の歴史 5 近世の展開」學藝書院, 1972年, p598
図-4【八瀬の竈風呂】