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「市民のまちづくりの取り組みと歩調を合わせた観光」
滋賀県近江八幡市 政策推進課副主幹
深尾 甚一郎
 
 皆さん、こんにちは。
 私、今、紹介していただきました滋賀県の近江八幡市からやってきました。近江八幡市役所の政策推進課というところで仕事をしております。この4月の役所の中の機構改革によりまして、新しくできてまだ二、三ヵ月のところなんです。職員も3人という少ない人数なんです。近江八幡市全体の仕事として位置づけられております。
 また、政策推進課の私がなぜ今日のこの観光まちづくりセミナーの事例発表かと申しますと、4月までは企画部門におりましたので、いわゆる先ほどから説明がありましたように、まちづくりというような仕事をやっておりましたので、トータル的に近江八幡市のことを知っておりますので、今日は30分という時間の少ない中で説明をさせていただきたいと思います。
 近江八幡市と申しますと、滋賀県のほぼ中央にありまして、琵琶湖も近江八幡市に接しております。その琵琶湖には唯一、沖島という島、有人の集落の漁村の島でありますが、その島があります。最近、その島が大変脚光を浴びておりまして、大変希少価値があるということで、今日のテーマにもなりそうなんですが、観光としてどのように活性化していこうかという話題もありまして、それも私の担当となっております。
 淡水の魚と申しますと、鮮度がすぐに落ちます。1日もしますと、淡水魚というのはかなり鮮度が落ちまして、食べにくいものなんですが、体験型の漁業ということでやればどうかということで、最近、いろいろ考えております。
 余談が長くなりますが、昨年まで3年間、水辺留学と申しまして、沖島の漁村の家に小学生を2人ずつ民泊という形で泊めていただいて、当然漁師さんの船に乗せていただいて、琵琶湖の真ん中に漁をしていくと、一緒にしにいくということで、かなり子供は感激でありました。家に帰ってもその感激というのを自分の親にも友達にも、夏休みが終わった後はみんなにしゃべって、保護者のほうから「魚嫌いだったのに魚を食べるようになったのです。なぜなんでしょう」という言葉がありました。確かにとれたてのお魚というのはおいしいし、また自分が釣った魚というのは大変おいしく思うということで、そういうような観点からも、そういうような観光をこれからやっていこうかなと思っています。
 それでは、初めに簡単にスライドのほうでビジュアル的に近江八幡市の全体の様子を説明させていただきまして、その後、若干お話をさせていただきたいと思います。
 大阪ですと関西弁ということで、私の住んでいるところはよく八幡弁と言われまして、時々言葉のおかしいようなところがあるかと思いますが、またわかりにくければ聞いていただければ結構かと思います。
 それでは、初めにスライドで説明をしていきたいと思います。
 これがJRの駅なんですが、ちょっと角度がわかりにくいのですが、新しい町が開けているところです。この写真のバックのほうには、最近新しい商業ゾーンがつくられまして、この写真は昨年のものでありますが、ちょっとそこは写せなかったのですが、かなり大きな商業施設ができております。西村先生が近江八幡市のことをよくご存じなんですが、かつての近江八幡市の中心部は、この駅から2キロメーターほど琵琶湖寄りにありまして、近江商人の古い商家の町並みが条里制で碁盤の目のように整然としているところなんですが、ここはJRの駅周辺、そこから2キロメーターほど離れたJR駅の周辺です。
 明治時代に東海道本線、昔の国鉄、JR本線ができる時に近江八幡市だけは町の中心部から2キロメーターほど離して、以前ここは田んぼの真ん中だったのですが、田んぼの中に駅をつくりました。近隣の市町村では駅を町の中に引っ張ってきているのですが、私が高校時代に、他の市町村から「近江八幡市はあほやな。なぜ駅を町の真ん中にもってこなかったんや。だから今、寂れているじゃないか」と、よく言われて、そうかなと思っていたのですが、最近になりますと、かえって駅を遠ざけたことによって、商人の町並みが今でもたくさん残ったりとか、無秩序な高いビルがあるわけでもなくて、近江商人の町並みは昔のまま残った状態、文化財もほとんど手つかずというか、あちこちにいっぱい埋もれた形で残っております。ここは駅の中心部ということで、ここは新しい町の形態になってきております。
 近江八幡市は京阪神のベッドタウンにはまだそんなになっておりません。またあまりベッドタウンにはなってほしくない近江八幡市であります。
 ここは先ほど言っておりました沖島です。何か近くに見えているのですが、船で行くと10分ほどかかります。3キロから4キロぐらいの距離があります。ここは日本で初めてできました、近江八幡の国民休暇村の砂浜のところがら撮影したものでありますが、沖島という最近脚光を浴びている島でもあります。
 ここは高齢化率が30%を超えております。ただし、介護保険の関係で言いますと、要介護率といいまして65歳以上の老人、高齢化率が高いにもかかわらず、要介護率、介護をしなければならない老人のパーセンテージは市内平均の2分の1になっています。早いこと申しますと、元気な老人が多いという島になっております。これはなぜかといいますと、いろいろな要素があるのですが、時間がかかりますので省略しておきますが、そういう元気老人が多い島ということで、最近、近江八幡市の中でも話題を呼んでおります。
 ここは八幡山です。豊臣秀吉の甥の秀次がつくった城の城跡なんですが、そこに登っていく途中のロープーウェイから写した町並みです。ちょうど手前の真下のほうが商人の町並みで、ほとんど条里制になっております。縦12筋、横4筋というような、京都の町並みみたいな感じになっておりまして、ほとんど瓦葺きです。地場産業として八幡瓦というのがありましたので、ほとんどその八幡瓦を上に乗せて、天気のいい日ですと銀色に光っているような町がよく見えます。向こうのほうが先ほどのJRの駅で、ちょっと高いビルが建っているようなところがあります。この山に登っていくと、ちょうど背中のほうが琵琶湖の方向になっております。
 これは新町通りという商人の町並みの一番代表的な通りなんですが、ここは博物館でありませんで、見えている家は実際に住んでおられます。住みながら、しかも昔の商人の町家が保存されているということで、また行政がこの町家を保存しているのでもありません。住んでいる人の誇りとしてこの町家を保存されているというような状態です。ここは市内約15ヘクタールほどが国の重要的建造物群保存地区の指定を受けておりまして、逆にむやみに改造したり、違った景観のものを建てることは禁じておりますので、整然とした昔の商人の町並みが今でも保存されております。
 これの左側のほうには近江商人の博物館的な要素で、中に入れる施設があります。明日のスタディツアーに来られる方については、ここの町も歩いていただけますので、よくわかるかと思います。
 ここは八幡堀です。先ほどの秀次がつくった八幡城の堀になります。この堀はもともとはなかったもので、城を築城する時に、山を中心としてこの堀の向こう側も手前のほうも琵琶湖につながっている、琵琶湖の水位と同じ状態なんですが、運河なんですが、琵琶湖と直結してつながっております。城といいますと、戦略上で、堀には船とか、通行できないものなんですが、豊臣秀次というのは、町を商人、町人のためにつくったということで、戦略上のまちづくりをしていなかった。この水路に戦国時代に琵琶湖を通る船は全部この堀を通過せよというおふれを出しまして、いろいろな商人船がこの堀を通っていったということで、全国の情報、また物資がこの堀に大変賑わっていました。戦国時代ですと、隣の村の情報もわからない時代に、ここに来れば全国の情報とか、世界の情報が集結していたということで、近江商人が世界に羽ばたいていく原動力ともなったところです。遠くは北海道とかベトナムの安南貿易まで進出していった近江商人のまさに基地というか、一番中心部だったところです。
 この堀というのは、最近はきれいになっておりますが、以前は、戦後、かなり利用しなくなりましたので、陸上交通にかわりましたので、大変どぶ川になって、夏には悪臭がただよって、下水がいっぱい入って、粗大ごみや自転車がいっぱい転がっていたというかなり汚い状態でした。
 これはさっきの堀の違う角度からの写真です。
 これがかつて戦後、堀を使わなくなったということで、誰も見向きもしないで、いろいろな雑草が生い茂ったり、よく見ると、いろいろな粗大ごみがはまっていたりと、大変町の厄介者になっていました。しかも車社会が発達してきまして、行政とか町はみんなここを埋め立てて、道と駐車場にしょうという計画ができました。もう着工間近という時に、JCさんとかいろいろな、初めは少なかった市民のまちづくり運動によりまして、やはりこれは埋めたらあかんと、これは町の宝物だからと、有名な言葉があるのですが、「埋めた瞬間から後悔が始まる」という言葉を合言葉に、ここを埋めた瞬間からもう町はだめになってしまうということで、かつての近江商人の中心でありましたこの堀を残そうと、修景保存していこうという運動がわき上がりました。初め行政は大反対をやっていたのですが、たくさんの市民運動に盛り上がりまして、やがては県とか国も一緒に先ほどのきれいな堀の姿に戻しました。
 当初はこれは何もセット的に昔の建物をこういうように残したのではなくして、単なる今日のテーマの観光のためでもありませんでした。これは住む人にとって、自分たちの心のよりどころとして、また近江商人の精神を引き継いでいくために、そういう意味のためにも残していこうという、修景保存していこうという考え方から出てきましたので、出発点は観光というのは何もありませんでした。しかし、現在は修景保存したことによってかなりの観光客が増えております。ここは交通が不便で、先ほどの駅から歩いて2キロほどあります。バスもありますが、土日曜日ですと、みんなリュックを背負って、運動靴を履いて、2人の仲間とか、3人ぐらいの仲間で地図を見ながら、本を見ながらここまでやって来て、ここを見ていくというような観光客のスタイルがほとんどです。ですので、大型バスでやってきて、見て、さっと帰るというような観光客はどちらかというと少なくて、ここの様子を見るということと、なぜこんなまちづくりをやってきたかということ、そこら辺を知りたくて、近所の人に「なぜこんなのが残ったのか」という話を聞いたりしています。ただ、ここは見るだけでは観光的には物足りないところで、なぜこの姿が今、残ったのかというところを外から来られた人が聞いて、なるほどこういうようなまちづくりをやられたのかということで、観光というよりは近江八幡市のまちづくりに対して共感を得て帰られると、そして心の奥底で印象を持って帰っていただくと、そういうようなところです。観光が出発点でありませんでしたで、周辺にみやげもの売場とか、大きな駐車場というのはあまり今現在でもありません。
 これが先ほどの戻す前です。
 春には桜がありますので、大変きれいなところで、時代劇の撮影などもかなりたくさん来られます。映画を見ていますと、ここの雰囲気が、この前、見ていますと、赤穂浪士の映画の中にこの姿がちょっと出てきておりました。ちょうど右手の手前の白い壁の蔵ですが、これは浜ぐらと言っておりますが、ここは実際に中は喫茶店、女性のグループが喫茶店をされております。ここは先ほどの重要伝統的建造物群の保存地区の指定を受けているところですので、大きな看板とかは絶対に出せませんので、喫茶店にしても、この反対側に1枚の小さなのれんで、「浜ぐら」と書いてあるだけの小さな看板ですが、喫茶店になっております。もともと蔵は西川ローズふとん、近江商人の方ですが、その方の本店があったところの蔵です。
 水質はまだ若干悪いですが、市街の中は下水道完備が100%整いましたので、これから美しくなっていくかと思います。
 私ら住んでいる者にとっては別に珍しくない光景なんですが、外から来られた方にとっては、かなり感動を受けて帰っていただいております。
 ここは琵琶湖ではありません。琵琶湖の周辺にはたくさんの内湖とか、沢みたいなものがあります。内湖というのを知っておられる方は少ないと思いますが、琵琶湖特有でありまして、琵琶湖が真ん中にありまして、その周辺部に小さな琵琶湖の子供的な小さな湖が無数にあります。近江八幡市にあるここは北の庄沢という西の湖とも直結しているところなんですが、昔はこういうところがいっぱいありました。ここに渡り鳥が来たりとか、また汚い水を最近、浄化する葦がいっぱい生えておりまして、ここで一旦水がろ過されまして、美しくなった水が琵琶湖に流れていくというシステムになっていたのですが、これは戦後の食糧、米の増産という大きな政策で、これがほとんど埋め立てられましてほとんど水田になっております。その水田にする時にも、市民の運動の中で、これは大変な近江八幡市の宝物、大変貴重な資源だから絶対残しておかなければならないというようなことで、行政のほうに強く市民の方が望まれました。たまたま若干残したところが、今となっては逆にすごい観光資源となりまして、明日のスタディツアーでもありますが、手漕ぎの櫓の船でゆっくりこの中を、時間を忘れた中で船めぐりをしていただきます。以前は米とかわらを乗せていたのですが、今は観光客をその和船に乗せて、農家の方がゆっくりとした時間の中で船めぐりをしていくということになっております。
 もしその市民運動がなければ、ここは全部先ほども言いましたように、真四角の大きな水田になっていたと思います。
 近江八幡市はそういうまちづくりに対して市民のパワーがかなりありまして、どちらかというと、行政というのはその市民のまちづくりに、最近ですとついていっているというようなことがあっているかと思います。
 ここは明日、スタディツアーで行くところなんですが、先ほどの八幡堀の一部分です。ここは新町浜というところです。夏には右手の階段のところがもう少し手前は広くなっているのですが、これが自動的に観客席になりまして、水上が舞台になりまして、毎年いろいろなコンサートを夜に行っておるところでございます。毎年市内の方とか、市外の方、大変人が増えているところです。夕暮れコンサートといいまして、夏の終わり頃にやっているところです。
 ここも先ほどの八幡堀ですが、これは行政が全部しないで、例えば手前の菖蒲とかの花については、この周辺に「八幡堀を守る会」という会がありまして、そういうところの市民の方が花を植えたり、草を刈ったり、掃除をしたりとかいうようなことで、かなり盛んに、それも観光客のためということではなくて、自分たちの住む町として誇りを持ちたいということでされております。
 これもその堀のところにあるのですが、これは瓦ミュージアムです。5年ほど前にできたのですが、竹下総理の時に、ふるさと創生事業ということで、各市町村の1億円事業というのを覚えておられる方が多いかと思いますが、その1億円事業で各市町村は何をしようかということで、近江八幡市も何をしようかということで、市民にアンケートを取ったところ、いろいろな考え方がありました。その中で地場産業である八幡瓦の博物館をつくろうではないかという声もたくさんありましたので、それではそれをつくってみましょうかということでっくられました。それなら行政がちょっと借金をしながらつくろうかという話になるのですが、市民がつくりたいということで市民がいろいろな形でお金を集められました。そのお金を行政のほうに持ってきまして、これで何とか自分たちの地場産業の引き継ぎをしていきたいから、これで瓦の博物館を建ててほしいのですというような形で、行政につくってくださいというのではなくて、自分らがお金を集めて建ててほしいというようなことで来られました。
 実際はそのお金を使わずに行政が建てたわけなんですが、そういうような市民が自分たちの町をよくしたいとか、自分たちの町に誇りを持っていきたいとか、そういういろいろな思いがあって、私たちの町ではよく「身銭を切る」と言っていますが、文句ばかり言っているのがまちづくりではなくして、自分たち市民も責任を持って自分たちの町をよくしていかないと力が入らないということで、その町をよくしていくためにはいかにその町を好きになる人、自分の住んでいるところを好きになる人が何人いるかというのが問題です。大阪市に大阪市が好きな人が10人いるのと、6万8,000人の近江八幡市に自分の町が好きな人が10人いるのとではおのずと力の入りようが違うかと思いますが、そういう自分の町が死ぬほど好きな人がいかにたくさんいるかというのが、これからの市町村の将来を左右してくるかと思います。そういうようなことで自分たちの地場産業である瓦の博物館を建ててほしいということがありましたので、こういう瓦ミュージアムというものがつくられました。
 博物館というと、かなり大きな施設を頭に浮かべやすいものなんですが、ここも伝建地区に入っておりますので、大きな建物をつくることはできませんので、一棟一棟を区切ったような形で建てられております。
 ここが先ほど和船の船めぐりと言っておりましたが、ここは狭いところですが広いようなところもあります。時間を忘れて、船の中でゆっくりお茶を飲みながら、また近江牛のすき焼きを食べながらというコースもあります。値段も比較的安いですので、春、秋頃になりますと、予約なしでは絶対に入れないようなところです。私の父もこの船めぐりでアルバイトをしております。最近は遠くの方が来られて、町のことをいろいろ聞いていかれるので、勉強させてくれということで、親父もいろいろしゃべっているようです。
 これも先ほどの市民のアンケートの中でありましたが、白雲館というところです。昔、明治3年近江商人が自分たちの子供に商業の基本を教えるために、自分たちでお金を出してつくった学校です。西洋的な建物になっておりますが、明治の初めの西洋的な意識を抱かれたと思うのですが、そういう自分たちの学校をつくられた時の白雲館というのも、これも全面改修を5年ほど前にされているところです。10年ほど前は古い建物で屋根がごそっと落ちて、周りは高い塀で被いかぶさっておりまして、私が小学生の頃は幽霊屋敷だというようなところで、みんな避けていたところなんですが、これも全面改修をしまして、今は中は観光物産協会の事務所とか、観光客の方がちょっと休憩できるようなところがあります。2階はギャラリー的な場所になっております。
 ここは町の中ではありませんで、一つの集落の中なんですが、ここがなぜ観光かといいますと、最近、そういう八幡堀の市民運動でかなり町が発展してきましたので、その周辺の農村集落も、自分たちも町をよくしていきたいという気がわいてきまして、ここは昔、浅小井という農村集落なんですが、かつては琵琶湖からくるクリーク地帯で、ここも船着場であったところです。20年ほど前に駐車場として埋めておかれたところなんですが、やはりみんなの憩いの場にしたいということで、もう一回掘り返して、真ん中にちょっと水が湧いておりますが、ここら辺は地下水位が高くて、数メーター掘ればすぐ水が自噴するところですので、そういう特徴を持ったところですので、穴を開けて自噴をさせているところです。
 こういう何気ない集落のまちづくりというのが、何かよいということで、ここも観光ではないのですが、かなり全国から来られます。先ほどの八幡堀ではないですが、なぜそんなことをみんながしたんだと、なぜ埋め立てたところをわざわざ掘り返して公園みたいにするんだということで、そういう自分たちの町をよくしていくためになぜこんな発想がわいたのかとか、そういうような話を聞きに来られる。観光客ではないと思うのですが、そういう町に住んでいる人の生きざまみたいなものを見たり、聞いたりするというような感じで来られております。
 これは何が観光かと、何が観光に関係があるんだというように思われがちなんですが、ここも先ほどの集落とよく似た感じなんですが、この写真を見まして、何か変わったところがあるのかなというように見ていますと、この写真のちょっと変なところは、子供たちの歩道が土なんです。それで車道のほうはアスファルトになっております。以前はアスファルトの広い道だったんです。でも地域の人が、やはり子供というのは小学校から帰る時は道草をしてほしいと、しかも雨が降ったら降ったで足が汚くなって、ちゃぽちゃぽいわせて帰ってきてほしいという思いから、子供の通る歩道はわざと土に返して、しかも四季折々、紅葉が楽しめる木を鉄のガードレールではなくして木を植えて、ちょっとでも自分たちの子供たちが将来健全な人間になってほしいということで、こういうような町に対しての愛着を込めながらまちづくりをされています。これも変な話なんですが、これも観光客のためではないのですが、そういう発想がどうしてわいてきたのかとか、子供たちは実際この道でどういうふうにやっているのかということで、観光客と言えば観光客なんですが、そういう方が全国から八幡堀のところに来て、そしてこういうところを見たりとか、そういうような方が大変多いです。
 こういうような類の、一見観光ではないのですが、こういうような変わったというとおかしいのですが、こういう変わったまちづくりが大変脚光を浴びておりまして、かなりの人が来られております。
 スライドのほうは以上で終わりなんですが、まだまだ近江八幡市にはいわゆる観光的な場所はたくさんあります。変な意味で申しますと、観光的な資源がたくさんありすぎて、歴史とか、自然とか、文化がありすぎて、しかも周りにいっぱい隠れた状態で埋まっております。みんな普段は何気ないものなんですが、外の方から見ればすごく貴重なものということで、そういう外の方の意見を聞きながら、自分たちの町をよくしていきたいということで、最近は観光客の方からもいろいろな意見を聞きながらそういうまちづくりをしていきたいということを思っております。
 八幡につきましては、歴史もありますし、また近江商人の発祥地でもあります。近江商人といってもかなり地域性が広くて、近江商人の中にも五個荘商人とか、日野商人とか、滋賀県の中の幾つかの出身地によりまして、若干時代背景とか、何を売っていたかということで、商人のいろいろな種類がありますが、八幡商人というのは近江商人の中でも歴史が一番古い商人の形態であります。もともと八幡商人の家訓としまして、商売は儲けたら、その儲けたお金で社会貢献しなさいよという意味合いの家訓が大体はっておりまして、今でも商売で儲けると、某の社会貢献をするために何か寄付をしたりとか、そういうような方が比較的風習としてずっと残っております。
 また、明治の初めにウィリアム・メレル・ヴォーリズというアメリカのキリスト教の伝道師の方が八幡商業高校というのがあるのですが、その高校の英語の教師として来られたのですが、その方は近江八幡市の名誉市民第1号となっております。その方も現代の近江商人的な発想のもとに、自分でメンソレータムの会社、皆さんご存じかと思いますが、アメリカから特許を買いまして、儲けた分の7%をいつも社会貢献のために使われたと、それで学校をつくったりとか、また結核の病院をつくったりとか、そういういろいろな社会貢献をされました。
 そういうこともありまして、比較的近隣の市町村から見ると、そういうようなまちづくりに対する情熱というのがかなり高いものがありまして、先ほどからいろいろな先生方が申されましたように、観光というのは観光のために何かをするのではなくて、いい町をつくれば必ず観光というようなことが引っ掛かってくるということで、まさしくそうだと思います。
 うちの川端市長も観光というのは嫌いだとは言われませんが、観光というのは後から自然に引っついてくるもので、観光のまちづくりをするのではなくして、自分たちの町をよくしていく、まちづくりに共感を持ってもらうとか、また人のそういう日々の生活の生きざまを見に来られるということで、そういうことさえ考えておれば観光というのは何も考えなくても自然と外からいっぱい来られるということで、また、まちづくりということを何回も出しますが、まちづくりの最終は「死にがいのあるまちづくり」ということをうちの市長は言っております。「死にがい」というのはちょっと露骨な言葉なんですが、死ぬ時は1ヵ所でしか死にませんよね。生きがいとかいいますと、人生の中で幾つも生きがいを見つけることができるのですが、死にがいというのは人生でただ一回です。死ぬ時にやはりこの町に住んでいてよかったなと思えるような町になるように、それぞれが考えておれば自然と町というのはよくなっていくというか、滅びない。誇りを持ったりとか、愛着を持っていてさえずれば、必ず町というのは滅びてはいかないというように自負しておりますので、私もそういうようなことを思っております。
 そういうようなところで、まちづくりに対する市民のエネルギーが高い町ということで、近江八幡市というのはそういういろいろなまちづくりをやったことによって、観光というのが後からついてきたというようなことになっております。先ほどの瓦ミュージアムも、白雲館にしても、水郷の保存にしても、すべて初め観光というのは全然頭になくて、自分たちの宝を守りたいとか、自分たちの景観をよくしたいとか、自然を残しておきたいとか、そういうふうに自分たち住み手にとっていい町にしていきたいという活動が、今となってすごい観光に注目を浴びているということで、そういうようなまちづくりを近江八幡市としてはこれからもやっていこうと、市民の方も一緒にやっていきたいと言っておられます。
 話があっちいったり、こっちいったりで、ちょっと聞きづらかったと思いますが、そういうことで本日の近江八幡市の事例発表を終わらせていただきたいと思います。
 どうもありがとうございました。








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