日本財団 図書館




2000年(平成12年)

平成11年神審第82号
    件名
貨物船かづさ丸引船ボッカ引船列衝突事件

    事件区分
衝突事件
    言渡年月日
平成12年8月30日

    審判庁区分
地方海難審判庁
神戸地方海難審判庁

須貝壽榮、黒岩貢、西田克史
    理事官
黒田均

    受審人
A 職名:かづさ丸船長 海技免状:三級海技士(航海)
B 職名:かづさ丸一等航海士 海技免状:四級海技士(航海)(旧就業範囲)
    指定海難関係人

    損害
かづさ丸・・・左舷後部外板が長さ15メートルにわたり数個所に凹損
台船・・・・損傷なし
ボッカ・・・・左舷側に転覆、沈没、全損、機関長が行方不明、後日死亡認定、船長が左腰部を打撲、機関員が左手を負傷

    原因
かづさ丸・・・狭視界時の航法(速力、レーダー)不遵守
ボッカ引船列・・・狭視界時の航法(速力、レーダー)不遵守

    主文
本件衝突は、かづさ丸が、視界制限状態における運航が適切でなかったことと、ボッカ引船列が、視界制限状態における運航が適切でなかったこととによって発生したものである。
受審人Bの四級海技士(航海)の業務を1箇月停止する。
受審人Aを戒告する。
    理由
(事実)
1 事件発生の年月日時刻及び場所
平成9年7月7日05時40分
青森県尻屋埼北方沖合
2 船舶の要目
船種船名 貨物船かづさ丸
総トン数 697.35トン
全長 76.00メートル
機関の種類 ディーゼル機関
出力 1,323キロワット
船種船名 引船ボッカ 起重機船第12友福丸
総トン数 74.63トン 763トン
全長 23.57メートル 44.90メートル
幅 16.00メートル
深さ 3.00メートル
機関の種類 ディーゼル機関
出力 441キロワット
3 事実の経過
かづさ丸は、船尾船橋型の貨物船で、A受審人及びB受審人のほか4人が乗り組み、砕石2,000トンを載せ、船首4.28メートル船尾5.25メートルの喫水をもって、平成9年7月7日01時30分北海道上磯郡上磯町沖合の私設シーバースを発し、京浜港東京区に向かった。
A受審人は、船橋当直を同人、次席一等航海士、B受審人の順に4時間交替の3直制で行うこととし、02時00分発航時の操船を終えて次席一等航海士に当直を委ねるに当たり、あらかじめ津軽海峡に海上濃霧警報が発表されていることを知っていたが、平素から当直中に何かあれば知らせるようにと告げているので大丈夫と思い、視界が制限されたときには速やかに報告するよう、また、これを次直者に申し送るよう指示せず、自室に退いて休息した。

03時40分B受審人は、大間埼灯台から051度(真方位、以下同じ。)7.0海里の地点において、前直の次席一等航海士から視界が制限されたときの報告について、申し送りの指示を受けないまま単独の船橋当直に就き、針路を113度に定め、引き続き機関を全速力前進にかけ、10.5ノットの対地速力で自動操舵により進行した。
やがて日出となり、B受審人は、05時05分尻屋埼北西方8.0海里ばかりのところで、霧模様のため視程が約1海里に狭められ視界が制限される状態となったが、広い海域であるうえ、レーダーには付近に船舶の映像が映っていないので大丈夫と思い、A受審人にその旨を報告しなかったばかりか、霧中信号を行うことも、安全な速力に減じることもせず、航行中の動力船の灯火を表示し、レーダーによる見張りを行いながら津軽海峡を東行した。
05時18分B受審人は、尻屋埼灯台から325度6.2海里の地点に達したとき、レーダーで船首わずか左5.0海里のところに、ボッカが台船型の非自航式鋼製起重機船第12友福丸(以下「台船」という。)を曳航しているボッカ引船列の映像を初めて認めたが、これを単独の反航船と判断し、左舷を対してかわすつもりで操舵を手動に切り替え、針路を120度に転じた。

その後、次第に霧が濃くなって視程が200メートルばかりとなり、B受審人は、3海里レンジとしたレーダーにより、ボッカ引船列の方位がほとんど変わらずに接近しているのを知り、05時30分尻屋埼灯台から337度4.4海里の地点で、その映像が正船首2.0海里になったとき、針路を更に25度右に転じて145度としたので、左方にかわるものと思い、レーダーによりその動静を系統的に監視するなど、同引船列に対する動静監視を十分に行わなかった。
そのため、05時32分B受審人は、ボッカ引船列の映像を左舷船首24度1.6海里に認めるようになり、同引船列と著しく接近することを避けることができない状況であったが、このことに気付かず、速やかに針路を保つことができる最小限度の速力に減じず、また、必要に応じて行き脚を止めずに続航した。
そして、B受審人は、05時35分ボッカ引船列が左舷船首23度1.0海里に接近したとき、レーダーの海面反射によってその映像を見失ったことから気が動転し、レーダーを調整しないで前方を見張っていたところ、同時40分わずか前左舷船首至近に前路を遮るように張った同引船列の曳航索を、次いで更に左方に台船をそれぞれ初めて視認したが、何らの措置をとることができないでいるうち、05時40分尻屋埼灯台から345度2.7海里の地点において、かづさ丸は、原針路、原速力のまま、その船首が同曳航索のほぼ中間に前方から86度の角度で衝突し、次いでかづさ丸の左舷側後部に台船の右舷側が衝突した。

当時、天候は霧で風力2の南東風が吹き、視程が200メートルで、潮候は上げ潮の初期にあたり、日出は04時10分であった。
A受審人は、自室で休息中のところ機関音の変化に気付いて目を覚まし、昇橋しようとしていたとき船体に衝撃を感じ、急いで船橋に駆け上がり、事後の措置に当たった。
また、ボッカは、船首船橋型の鋼製引船で、船長D(四級海技士(航海)免状受有、昭和9年11月15日生、病気療養中のところ平成10年2月28日死亡した。)及びC指定海難関係人のほか2人が乗り組み、船首1.5メートル船尾2.2メートルの喫水をもって、同月4日16時00分宮城県石巻港を発航後、北上川河口沖において台船と会合し、容量200リットルのドラム缶100個分のボッカ用燃料油を搭載して船首尾とも0.8メートルの喫水となった無人の同船を曳航し、石川県七尾港に向かった。

ところで、D船長は、平成2年漁船の船長職を引退後、年に2、3回の短期間、漁船その他の船舶の回航業務などに従事していたものであり、知人の紹介により、他の乗組員ともども、国外に売船される台船を七尾港まで曳航する契約でボッカに乗り組んでいた。
D船長は、途中、操舵装置の点検調整などのため、牡鹿半島東岸の泊沖に寄せた後、船尾から8メートル甲板上1.7メートルの、機関室囲壁上に設けた曳航フックから、直径65ミリメートル長さ200メートルの化繊製曳航索を延出し、その先端と台船の船首部両舷のビットに係止した各鋼索の端とをY字型につなぎ、ボッカの船尾から台船後端までの距離が240メートルとなる引船列を構成し、台船には舷灯及び船尾灯の設備がなく、その船首尾両舷には夜間に自動点灯する点滅灯を取り付け、また、船橋当直を同人及びC指定海難関係人との6時間交替の2直制として航海を再開した。

同月7日00時00分D船長は、下北半島東岸むつ小川原港北東方沖合において、船橋当直を終えて次直のC指定海難関係人に引き継ぐ際、尻屋埼付近は船舶の輻輳する海域であるので、自ら操船に当たる旨を告げて降橋した後、休憩のために立ち寄った食堂において、機関当直中の機関長と台船に搭載している燃料油を同埼通過後にボッカに補給することを打ち合せ、自室に入り休息した。
C指定海難関係人は、単独の船橋当直に従事し、機関を全速力前進にかけ、5.5ノットの曳航速力で下北半島沿いに北上中、03時40分尻屋埼の南南東5.5海里沖合において、昇橋したD船長の指示により手動操舵に就いた。
操船に当たったD船長は、04時00分ごろ霧のため視程が200メートルばかりで視界が制限される状態となったが、霧中信号を行わなかったばかりか、安全な速力とせず、間もなく日出となってもそのような状態であったので、マストに菱形の形象物を掲げていたボッカには、船舶を引いている動力船の灯火を表示したままとし、同時40分尻屋埼灯台から081度3.0海里の地点に至り、尻屋埼付近の岩礁を3.0海里ばかり離して同埼を迂回するよう小刻みに左転を開始し、05時15分同灯台から024度3.5海里の地点に達したとき、針路を293度に定め、同じく5.5ノットの曳航速力で進行した。

D船長は、定針したとき、レーダーにより船首わずか左6.0海里にかづさ丸の映像を初めて認め、同船が津軽海峡から尻屋埼に向けて東行中の船舶であると判断し、05時18分針路を261度に転じて続航した。
05時30分D船長は、尻屋埼灯台から001度3.0海里の地点で、かづさ丸のレーダー映像を右舷船首38度2.0海里に認めたとき、燃料油を補給する際の予定錨地である青森県大畑港東方沖合に向けるため、針路を239度に転じた。このとき同人は、22度左転したので、かづさ丸が右方に無難にかわるものと思い、レーダーによりその動静を系統的に監視するなど、同船に対する動静監視を十分に行わなかった。
そのため、05時32分D船長は、かづさ丸のレーダー映像を右舷船首62度1.6海里に認めるようになり、同船と著しく接近することを避けることができない状況であったが、このことに気付かず、速やかに針路を保つことができる最小限度の速力に減じず、また、必要に応じて行き脚を止めずに進行した。

こうして、D船長は、レーダーによりかづさ丸の接近状況を確認しないまま、05時38分C指定海難関係人に対し、同船は自船の後方を航過していくので、同じ針路を維持するよう指示し、朝食を摂るため食堂に降りたところ、その準備ができておらず、いったん自室に立ち寄ることとした。
C指定海難関係人は、同じ針路及び速力のまま続航中、05時40分少し前操舵室右舷側の扉を開けて右舷方を見たとき、曳航索に迫ってくるかづさ丸を初めて認め、汽笛により長音を吹鳴したが、ボッカ引船列は、D船長が昇橋する前に前示のとおり衝突した。
衝突の結果、かづさ丸は、左舷後部外板が長さ15メートルにわたり数個所に凹損を生じたが、のち修理された。一方、台船には損傷がなく、ボッカは、左舷船尾方に強く張った曳航索により横引き状態となって左舷側に転覆し、間もなく衝突地点付近に沈没し、全損となった。

また、C指定海難関係人は衝突時に海中に投げ出され、D船長及び機関員は一時ボッカの船内に閉じ込められたが自力で脱出し、3人はいずれも漂流していたところ、かづさ丸によって救助されたが、機関長E(昭和2年11月10日生)は、行方不明となって後日死亡と認定され、D船長は左腰部を打撲し、機関員は左手を負傷した。

(原因)
本件衝突は、霧のため視界制限状態となった青森県尻屋埼北方において、かづさ丸が、安全な速力とせず、かつ、レーダーによる動静監視不十分で、ボッカ引船列と著しく接近することを避けることができない状況となった際、針路を保つことができる最小限度の速力に減じず、また、必要に応じて行き脚を止めなかったことと、ボッカ引船列が、安全な速力とせず、かつ、レーダーによる動静監視が不十分で、かづさ丸と著しく接近することを避けることができない状況となった際、針路を保つことができる最小限度の速力に減じず、また、必要に応じて行き脚を止めなかったこととによって発生したものである。
かづさ丸の運航が適切でなかったのは、船長の船橋当直者に対する視界制限時の報告についての指示が十分でなかったことと、同当直者の視界制限時の報告及び措置が適切でなかったこととによるものである。


(受審人等の所為)
B受審人は、霧のため視界が制限された尻屋崎北方を東行中、前路にボッカ引船列のレーダー映像を探知した後、針路を二度にわたり右に転じた場合、同引船列と著しく接近することを避けることができない状況となるかどうかを判断できるよう、レーダーにより動静監視を十分に行うべき注意義務があった。しかるに、同受審人は、針路を右に転じたので、ボッカ引船列が左方にかわるものと思い、レーダーにより動静監視を十分に行わなかった職務上の過失により、著しく接近することを避けることができない状況となったことに気付かず、針路を保つことができる最小限度の速力に減じず、また、必要に応じて行き脚を止めずに進行して同引船列との衝突を招き、自船の左舷後部外板の数個所に凹損を生じさせたほか、ボッカを沈没させ、同船の機関長を行方不明に、D船長の左腰部に打撲傷を、機関員の左手に負傷させるに至った。
以上のB受審人の所為に対しては、海難審判法第4条第2項の規定により、同法第5条第1項第2号を適用して同人の四級海技士(航海)の業務を1箇月停止する。
A受審人は、北海道上磯郡上磯町沖合の私設シーバース発航時の操船を終えて次席一等航海士に船橋当直を委ねる場合、あらかじめ津軽海峡には海上濃霧警報が発表されていることを知っていたのであるから、視界が悪化したときには報告するよう、また、これを次直者に申し送るよう指示すべき注意義務があった。しかるに、同受審人は、平素何かあったら知らせるようにと告げているので大丈夫と思い、視界が悪化したときには報告するよう、また、これを次直者に申し送るよう指示しなかった職務上の過失により、船橋当直者から、霧のため視界が悪化した旨の報告が得られず、自ら操船の指揮をとることができずにボッカ引船列との衝突を招き、前示の事態を生じさせるに至った。

以上のA受審人の所為に対しては、海難審判法第4条第2項の規定により、同法第5条第1項第3号を適用して同人を戒告する。
C指定海難関係人の所為は、本件発生の原因とならない。


よって主文のとおり裁決する。

参考図






日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION