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さらに家庭では中国系住民は中国語、インド系で有ればヒンズー語などを使う。これは我々外国語の弱い日本人から見て驚きである。日常3〜4ヶ国語は平気で使い分けているわけだから。1つの外国語にすら弱い日本人が多数存在する日本はその語学教育の何処かに欠陥があるのだろう。

 

宗教と日常生活

宗教の生活、社会に及ぼす影響もはじめは大きなカルチャーショックを受ける一因となる。ヒンズー教徒のインド系住民、イスラム教徒のインド系住民、キリスト教徒の白人系、クレオール系と中国系住民、この3大宗教の国民に与える影響力たるや絶大である。宗教的な意味深い日の国民祝日・休日が暦の上に沢山ある。特に年末年始は宗教的祝・休日が目白押しであるし、普通の月でも宗教的行事に参加するために役所を早退することは多い。また、国内いたるところに目立つカラフルな沢山の仏像が屋根に装飾されているヒンズー寺院、白と緑色を基調としたイスラム教モスク、そして威容を誇るカトリック教会、これらがぱっとしない町の中では一際目立つ建物である。朝晩モスクの拡声器から響く朗々たるコーランのお祈りは、不信心な異教徒への神への帰依を強く促しているように聞こえる。イスラム教徒は毎週金曜日には午後1時から2時、モスクに参拝するため勤務の欠勤は当然の権利としてみとめられているそうだ。また日曜日に晴れ着を着てキリスト教会に礼拝に参集するクレオール系の人たちは概して明朗で、善良そうな印象を与える。ヒンズー教徒も宗教的儀式のある祝祭日はしばしば1〜2時間早退する、クリスチャンもそう頻繁ではないがやはり勤務より教会での宗教儀式参加を優先する。

宗教的な食事への戒律も厳しく、ご存知のようにヒンズー教徒は牛肉を聖なる物として食べない。また豚肉も食べずもっぱら鶏肉が肉食の中心である、イスラム教徒も豚肉は不潔な生き物として食べない。但しハラル(Haral)と称する穢れ除けのお祈りを受けた肉類はその限りで無いそうであるが。食肉の中心は鶏と羊であり、そのためかマクドナルドのハンバーガー店は無い。代わりにケンタッキーフライドチキンの店はある。

個人的な話で恐縮だが私も肉食はダメである。何も敬虔に宗教的戒律を守っているわけでもなく、子供の頃からの喰わず嫌いであるが、こう言うとある現地の人は聖人に近い肉食断食の人と勘違いする。事実ベジタリアンも結構多い様であるが、ベジタリアンは宗教的戒律を自らに課した特別な人のようである。

一度、ある社会的地位のあるヒンズー教徒のお宅に招かれ夕食をご馳走になったことがある。私は肉食をしない、野菜、魚類ならOKと予め伝えておいたため、魚のカレーや野菜料理を主に用意してくれ、ご馳走になった。そのとき驚いたことがあった。それは家族の皆は箸やフォーク、スプーンを使わず右手でご飯とカレーを混ぜて食べていたことである。私一人がフォークとスプーンでカレーをご馳走になっていた。このことに気づいてから何となく食が進まなくなり、せっかく招待してくれた人に申し訳ないことをしたと後で後侮した。帰宅後本を調べたり人に聞いたりしていろいろ分かったことは、ヒンズーの人たちは、宗教上幾つものタブーがあり、左手は右手より不浄とみる。従って左手は食事では使わない。他人の使った食器は清浄でなく、従って最も信頼できる自らの清潔な右手で食べ物を口に運ぶ。また、まだ誰も使用していない食器なら不浄ではないと考える、ということがわかった。だから誰が使ったか分からない不浄な?食器を使うより、例えば庭にはえている手ごろな木の葉っぱをお皿代わりにした方が、よほど良いとのようである。これは私にとって(カルチャー)ショックであった。けして貧しいから食器を使わないのでなく、宗教的観念による浄、不浄の意識で日常生活が規定されていると考えられるからである。

現代の日本人はそこまで厳密に自分の生活や行動規範を宗教的教義に則って行っている人は極一部の宗教家以外には居ないのではなかろうか。

日本人の宗教音痴は戦後民主主義教育の名の元で、戦前の国家神道などによる宗教的教育の弊害を一切排除しつづけた為、“羹に懲りて膾を吹く”時間が長く、ために私のように宗教が生活、社会に大きな影響を与える異文化に接すると、おおきなカルチャーショックを受けるか無神経になるようになったのではないかと痛感した。このような経験は、イスラム教圏の国やインドなどの国外で生活した経験のある方には容易に理解されるのであろう。

 

 

 

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