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5-1-2 宝暦大火以前の民家 山中兵右衛門家(図5-2)

実際宝暦大火焼失前の山中家について見てみたい。山中家はこの頃すでに御殿場に出店をもつ日野商人であって、これはその本宅であった。この図によると、主屋は6、6、7、6畳の整形四間取の平面構成である。オクノマ(座敷)には袋棚はあるが床はまだない。オクノマの前は前栽で、桃の木が植えられ、瓦屋根の塀で囲われている。デノマ前面には格子がはいり、通り土間には大釜やクドが並べられている。離れは8、6畳の2室で構成され、奥はザシキであるがここにも床はない。また、主屋と離れはツタイエンで結ばれ、それには風呂やセッチン、2畳の小室が付属している。屋敷の奥には2つの蔵があり、そのうち一つには味噌桶やカラ臼がおかれ、米蔵も見える。この裏は畑となっていて、屋敷全体は畑を除いて建物や塀で囲まれる。

 

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図5-2 山中家平面図(当町宝暦六子十二月十八日大変前此町之絵図より苅谷作成)

 

5-1-3 宝暦大火以後の民家 正野みね家

次に上述の山中家と同じく中規模で、宝暦以後の家屋である正野みね家についてみてみる。基本的には山中家のプランとほとんど同じである。主屋と離れ、蔵の配置方法は全く同じといってよい。異なる点は、まず屋敷前面がすべて板塀で覆われ、山中家に比べていっそう閉鎖的になっている。主屋はオクノマ、ヘヤの部分が8畳とやや広くなっているほか、床や仏間が設けられている。通り土間が大きいのも特色で大釜やクドがあり、井戸もひと続きの屋根の下に置かれて便利になっている。また苅谷勇雅はニワに中仕切りが現れていることに注目し、これはオクノマが床などの本格的な座敷飾りを設け接客空間としての形式を整えたのに呼応して住空間においてもオモテとウラをはっきりと意識しはじめた証拠と考えていある。ニワの北西隅の三畳間は現在の日野の民家にも多く見られるが、使用人の部屋であったと思われる。離れは、8、6畳の構成で山中家の構成と同じであるが、ここにも床が設けられ、また主屋と離れの接合部に3畳の小室があるが、これは髪結部屋と呼ばれ、ナンドや化粧室として使われたようである。

 

 

 

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