「大風のやみて日暮るる濃山吹」
帰国して海上保安庁の目黒寮で三笠宮ご夫妻・虚子・立子等の出席を得た花見の句会の作である。
昭和二十六年五月、海上保安庁の創立三周年を記念した燈青は政界入りを決意し長官を退官した。師、高浜虚子より
「功成りて二日の後の別れ霜」の句をいただき、伊豆山の徳富蘇峰より小手先の政治家になるなと「吾道長悠々」の扇面をいただいた。
日本海洋少年団を創立させた年である。
「わが胸に闘魂燃ゆる曼珠沙華」
昭和二十六年六月の選挙は占領軍の追放解除で古い政治家がもどり新人には厳しい選挙となった。橙青は全国一の激戦地熊本第一区から立候補したが僅差で落選した。
「恩讐の彼方の月を仰ぎけり」
昭和二十八年春、吉田茂の馬鹿野郎解散の選挙には各党の公認を断わり意地の無所属で奮闘し見事に初当選を果した。
「我が道をひたすらに行く春の虹」
昭和三十三、四年頃は議員としての親善訪問のため海外に頻繁に渡っている。
「日の丸の移民と仰ぐ秋天下」
「大聖樹立つ総統の大広間」
「牛洗ふタイ平原のタ焼と」
「ヨット航く碧きドナウの森かげを」
俳界では昨今海外吟行が流行しているが、戦前から海外句を作っていた橙青がその先鞭かも知れない。
「白菊や昔はありし明治節」
昭和三十六年、大野伴睦(万木)、林譲治(鰌児)等と共に自民党平河句会を結成した。政治家と俳句はあまり似合わないようであるが、古くは西園寺公望(陶庵)、原敬(一山)、新しい所では中曽根康弘、藤波孝生等と結構俳句好きが多い。
昭和三十九年大野万木の死去に際し
「訃を聞くや若葉に雨の注ぐ朝」
昭和四十年同じ五高出の親友池田勇人が亡くなった時は
「君逝きし十三日夜の大雷雨」
と偲んでいる。
橙青は俳人仲間から粋な人情を詠ませたら政界ピカ一と云われていた。又、高い月謝を払わなければあんな句は出来ないと冷やかされてもいた。月謝の真偽は分からないが
「女二人ひそひそ話夏暖簾」
「相見ての後の心の火取虫」
「我が影の中に花咲く野菊かな」
「幸せの薄き女の単帯」
等々、意味深な粋な句が多い。料亭政治の華やかなりし頃の大物政治家だから新橋あたりに顔のきいていたのは確かである。縞麗どころが集る新橋艶寿会と云う句会にも顔を出していた。何処でも何時でも俳句の虫なのである。
昭和四十九年、野党ばかりか自民党内部からも攻撃されていた田中内閣の末期に田中角栄に手を握られ「一番骨の折れる大臣をやって下さい」と懇願され労働大臣を引受けた。
「認証式終へてわが家の菊に立つ」
「銀漢やわが生涯の幾山河」
未は博士か大臣かと云われた頃に生れた明治男が大臣の椅子に座ったのは七十一才の秋だった。